第八話 告白は食事の後で(その四)

 授業中に窓の外へ気が引かれたのは遠くから子供の歓声が聞えて来たからだ。

 窓際の席の特権で、ちょっと視線を落とせば学校の敷地の向こう側までよく見渡せる。敷地の外縁と脇道を隔てるフェンスの向こう側に、黄色い帽子を被った幼児達の集団が居た。遠足なのか、それとも集団での帰宅途中なのか。何れにしてもチマチマとした動きで声を上げながら、引率の保母らに引き連れられて行った。

 よく晴れた冬の青空が見えた。やたらと高い。風に流れて細く伸びきった雲がまるで針のように尖っている。

「よし。じゃあ山倉、次のセンテンスを訳してみろ」

 唐突に名を呼ばれて我に返ってみると、でっぷりと太った英語教師が冷たい目でコチラを睨み付けていた。

「スイマセン。何処でしょうか」

「窓の外に教科書は吊り下げてないんだからな。一〇七ページの二段目からだ」

 まるで聞いていなかった。

 いや、この授業どころか最近は色々様々なことが色々と鬱陶しくて、自分の周囲に起こっている全てのコトに興味が持てなくなっていた。学校や授業もどうでもいいやという気分だったし、受験も友人も全部捨てて投げ出したかった。しかしそう思いはするものの、実際に実行出来るのかと言われれば出来ないとしか言えない。投げ出した後の展望がまるで無いからだ。

 今の俺は今まで続けてきた日常に従い、ただ惰性で進んでいるダケだ。以前口にした自分の言動や思いついた様々なコトを、ただ漫然となぞっているダケに過ぎない。若干目新しい小さな変化は幾つかあっても、大筋が変わることはなかった。放課後の門井との勉強会もそうだ。俺の惰性に絡みついてきた新たな附属詞で、退屈な風景の一つだった。

 ちょうどあの空に浮かんでいる雲のように、風と共に姿が変わることはあってもただそれだけ。後は掠れて霧散するか、雨となって落ちて消えるのが関の山。流れる時間に流されて、ただ年老いて死んで行く。途中経過がどうあれ最終到達点は最初はなから判っているのだ。

 なのに、何でみんなこんなに頑張っているんだろう。誰しも最後は消えて無くなるのに、何で考えないようにしているのか。何で見て見ぬふりをして、よく分らないことを繰り返し、日々足掻いているのだろう。

 いま死のうと八〇年後に死のうと大して変わらないだろうに。

 英語教師に言われた箇所を訳し終わって腰を下ろすと、授業を聞くふりをしながら軽く溜息を吐いた。そして胃の腑のあたりを手で押さえた。また少し、鈍い痛みがあったからだ。


 ホームルームが終わり、机の中に仕舞い込んでいた本日分のノートや教科書を鞄に収めていると、あまり話さないクラスメイトが声を掛けてきた。俺の耳元に顔を寄せて、また放課後に教室に居残って内職するのか、と詰問するのだ。

「授業中じゃないから内職とは言わないだろう」

「じゃあ放課後デートと言い直そう。ちっ、まったくこの切羽詰まった時期に頭の良いヤツは余裕だね。上手いことやりやがって。まさか門井を釣るとはなぁ。朴念仁なツラしてるクセに油断も隙もありゃしない。何処までいったんだよ、正直に教えろって。毎日毎日イチャイチャして、鬱陶しいったらありゃしない。真面目な受験生には目の毒だっつーの」

「ただの勉強会だ。それに目の毒だと言うなら見なきゃイイ。お前は真面目な受験生なんだろ?」

「毎日毎日カリカリ勉強して、干上がった者には潤いが必要なんだよ。で、どうなんだよ。誰にも言わないから、ちょっとでイイから教えてくれよ。なぁ、トモダチだろ?」

「何でそんなことを知りたがるんだ」

「経験者の体験談は貴重だからな。今後の為にも参考に」

「阿呆くさ。そんなモノ、ちょっとググれば嫌と言うほどヒットするだろ。それにホントにそんな関係じゃないから、ご期待には添えないね」

 そう言って俺は席を立った。

「おい、ツレねえなぁ。減るもんじゃないだろ」

「時間が減る」

 厚かましいクラスメイトを置き去りにして購買部に向った。部活に備え、この時間は運動部会の連中がパンだのおにぎりだのに群がっているが、それをかき分けて自販機の前に行くとカップのホットコーヒーを買った。特に飲みたかった訳じゃない。あの莫迦が教室から居なくなるまで場を外し、時間を潰したかったダケだ。

 傍らに据えてあった、プラスチック仕立ての安っぽいベンチに腰を下ろして一口飲んだ。薄っぺらい味でお世辞にも旨いとは言えない。でも暖かいものが喉を通ると少しだけほっとした。だいぶ冷えるようになったな、と思う。特に朝夕の冷え込みが厳しくなってきて、セーターやコートが恋しくなっていた。学生服の下に着込んだベスト程度では、そろそろ足りなくなってきていた。

 教室に戻ってみると、門井はもういつものように机を二つ突き合せてノートを拡げていた。

「やっと戻って来た。帰っちゃったんじゃないかと心配したよ」

「鞄が残っているんだから、そんな訳ないだろ」

「いや、そうは思ったんだけどもさ。なんかふらっと居なくなりそうで、ちょっと不安で」

「そんなに頼りなく見えるか?」

「頼りないというのは違うな。何というか、心此処に在らずというか、『此処に居なきゃ』っていう気分が希薄というか、そんな雰囲気があるよ。時たま」

「時たま、か」

「そう、時たま」

「今は?」

「今は、アタシに勉強教えなきゃって風に見える」

「それは単に門井の希望だろ」

「まぁそーなんだけどもねぇ~」

「門井はなんでそんなに頑張るんだ?」

「なんでって、そりゃA大行きたいもん」

「まずはそれが目標だよな。それで、その後は?」

「合格してから考える」

「それで良いのか」

「良いのかって言われても、目の前の壁を乗り越えられなきゃ次が無いじゃん?」

「挑戦しなくてもいい壁だとか、そんな風には考えないのか。別に回り道しても誰も文句は言わないだろう」

「もー、山倉までそんなコト言う。いま挑戦したいからする、それじゃ理由にならない?やりたい事は、やりたい時にやるからこそ価値が在るんだと思うな。

 アタシは水泳やってたけど、競泳選手の成長ピークは一五歳とか言われてる。その後はどれだけ練習積み上げても、絶好調の頃の自分には追いつけないんだよ。確かに二十歳を越えても記録を作った人は幾らでもいるけれど、それはその人が持っていた資質を、一〇〇パー発揮出来ている訳じゃあないんだよ。

 そして自分のベストの瞬間に挑戦出来なかったからって、ウダウダ言っても取り戻せる筈もないでしょ。

 今、出来ることを今やるしかない。後でやれると思って取って置いて、結局出来ませんでした、あの時やっておけば良かった、なんて悔しがるなんて阿呆のするコトだよ。人生はこの瞬間が全て、そう思わない?」

「タフなんだな、門井。そしてチャレンジャーだ。尊敬するよ」

「え、あ、いや。そんな大層なモノじゃないけど・・・・」

 他人にくだらない干渉をしてくるヤツも居れば、積極的に自分へ某かを課している者も居るし、ただ惰性に流されている無気力なモノも居る。

「世の中にはいろんな人間が居るな」

「それはアタシに呆れている訳じゃない、よね?」

「勿論」

「そか。良かった」

 屈託無く笑うその顔に少しだけ気落ちした。比べても何も意味がないと分っている。だけど、羨ましいと想う相手を目の当たりにすると、自分のつまらなさが更につまらなく思えてくる。やるせない気持ちと溜息とが、それこそ溢れそうになるのだ。

 俺はいったいどうしたいんだろう。

 自問自答しても答えは端から決まっている。変更されるコトはなく、変えるつもりもサラサラ無かった。そうすると決めると予定通りに物事を進め、そして予定通りに達成する。今までと同じだ。だが時折気持ちが揺れるのは、決まって自分よりも眩しい者を目の当たりにするときだった。

 その日もいつものように門井との勉強会に勤め、いつもの時間に見回りの教師に追い出されるといつものように下校した。いつものルーチンワークだが時間は容赦なく過ぎてゆく。そして予定と目したその日まで、もう幾ばくも残っていないのだ。

 門井と別れボンヤリとした足取りで家に戻り、そして布団に潜り込んだ。だがそれはただのポーズ、今まで繰り返してきた只の習慣でしかなかった。

 アレ以来、もうずっと夜を眠れていなかった。

 布団の上に横たわり形だけでもと目を瞑るのだが、睡魔が訪れる気配はまるでなかった。ただボンヤリとした、夢とも現ともつかぬ中途半端な意識の覚醒が続くだけだった。腹の奥底で何某かがゴソゴソと動き回る感触がある。こうして横になってジッとしていると尚更気になった。感触の悪さと共に時折鈍痛はあるが只それだけ、それだけだ。

 だがこうして腹の中が蠢き始めると、ソレが始まりの合図なのだというコトは知っている。そろそろなのだぞとせっつき始め、やがてその内にどうしようもない衝動が込み上げてくるのだ。

 だから俺はそれを見越して予定を組む。始まる前に準備をして、整えて、ソレが訪れる瞬間を待つのである。それが誰にも言えない俺だけに課された俺の果たすべき義務だった。以前の俺ではない日常、今の俺の日常だった。

 いったい何時からこんな有様だったろう。

 かなり昔からのような気もするが、冷静に指折り数えてみると意外に月日が経っていないことに驚いた。少なからず俺の日常に大きな転機が訪れたというのに、まだこんなささやかな日々しか送っていないのか。いったいこれで何度目なのか。もうすでに片手では数え切れない。

 そして徐々に間隔が狭まってきていることへの焦りがあった。このペースはマズくはないか、大丈夫なのだろうか。果たして共通テストを受けることが出来るのだろうか。

 まぁ出来なかったのなら、それはそれで仕方がない。

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