第3話

 どうやら丸二日も寝ていたらしい。

 スマートフォンの光を顔に浴びながら時間を確認した真幸は、一度目を深く閉じて脳内でその言葉を繰り返えす。


 勿論彼も最初はこの上ない程に驚いていたのだがソレも僅か束の間。今の自分が夢と現の何方に居るかを考え出すと全てがどうでも良くなってしまった。


 ―――それよりも胃と腹が痛たい。


 当たり前の事ではあるが、四日間も食べ物を口にしていなければ胃は空っぽになって萎むだろう。過剰な睡眠で胃粘膜は弱るが胃液の量は変わらないので、結果として消化液は胃袋を攻撃し始めるのだ。

 そして彼が寝ている間にも腸は大小便を作り続けるが、排出する機会が無かったので腸壁だけが膨張を続けて痛みに転じている訳である。


 しかし、そこまで理解してから真幸は苦痛に歪んだ顔で疑問を思いついた。

 確かに食事は4日もしていないが、トイレならば二日前の昼頃に一度行ったのだ。


 それなのに、そうだというのに、なんだ?この腹は。

 彼は胃下垂どころの騒ぎではない膨らみを見せる腹を服の上から摩って脂汗を滲ませた。便秘?いや、便意は勿論。下剤を飲んだのかと錯覚する程の腹痛も有る。では、病気?疾患?それとも唯のビール腹?分からない。分からないが、彼はとりあえずトイレへと向かって内股で走った。



「スゲー出た。尋常じゃない位出た。二十キロくらい出た。というか……」

 

 真幸は手を洗いながら鏡を見る。なんと、前回夢の中で見た記憶と違う人物が映っていた。勿論、何時もの目付きが悪い中年男性ではない。


 鏡の前に居た人物は、この世の全ての可愛いという概念を一身に纏めた様な愛され金髪少女だったのだ!!!しかし、彼は存外慌てもふためきもしなかった。何故なら、原因に心当たりがあるからだ。


 常識人ならば「そげな馬鹿な」と切って捨てる戯言だが、真幸にとっては確固たる確信。彼が思いだす事は病院での不可解な出来事の数々だ。


 何故か存在する臨床病棟という『謎の建物』、政府と合同で作られているらしい『風邪薬』と、それで減少するという『男性ホルモン』、病院内での『精液採取』に、五十万円という法外な現金による『報酬』


 あの日の事を思い返せば出るわ出るわ不可解な出来事が。というか、思い出すまでも無く最初から最後まで不思議に思い続けた一日であったのだが。


「とりあえず胸は揉んでおこう……柔らかい!!!沈む!!??スライムよりもモチモチで、綿菓子よりもフワフワなのにッ水風船よりも強い弾力と反発力を感じるッッ!!!!」


 脂肪ではない。胸に詰まっていた物は脂肪では無かったのだ。

 勿論ヒアルロン酸でも美容用シリコンでも無い。では、何が?


 答えは単純、正解は明快、真相はシンプル。

『夢』それと、『希望』だ。


 彼はそこで一つの疑念にたどり着いた。体が女体化した事により彼の暴れん坊将軍が沈静化、というか消滅している可能性に。


 急いで股座に手を伸ばす。が、そこに三十余年も苦楽を共にした相棒の姿は無く、代わりに連綿たる双丘がそびえ立っていた。何という事だ。あんまりではないか。例え、ご立派ぁ!!な一物ではなくとも掛け替えのない友人であったのだ。

 

「とりあえず飯を食おう」

 何分か、何十分か、もしくは何時間か。悲しさに包まれて曖昧になった感覚のまま、真幸は唐突に需要な事を思い出したらしい。

 鳴り響く腹の音に導かれるかの如く、彼は四日も変えていない寝巻のままアパートを飛び出して近所のファミリーレストランへと向かった。



「では、凡その状況は伝えましたので私は失礼します。掛かった費用は経費で落ちるので付けておいてください」


 用が済んだら邪魔者は退散しますね。と言わんばかりのスピードで消えて行った締の背中を眺めながら、真幸は静かに溜息をもらした。


 場所は『毬華総合病院「緩和病棟」』の三階にあるカウンセリング室。

 クライアントが落ち着ける様に一般的な家庭を模した部屋の中には程よい柔らかさのソファーがが小さなデスクを挟んで向き合うように設置されていた。


 ―――保護が目的なのに、どうして敵の本拠地へ送られてきたのだろうか?もしかして嫌がらせなのだろうか?

 彼の心境は複雑だったが、しかし、考えても答えは出なかったので仕方が無く。締から自分を引き継いだ女性へと視線を向けた。


「あの、私はこれからどうなるんですか?」

「暫くの間は入院という形で病院が匿うそうよ。貴方の心の整理が出来るまでは私が付いているから、親戚のおばさんだと思って気楽に接して頂戴ね」カウンセラーの石井 春香は快活に、人の好さそうな顔でそう言った。

「後の事は警察に任せて、今日はお部屋でゆっくりと休みましょうね」「は、はぁ。」


 春香は真幸の浮かない表情を見て何かを察したらしい。

「やっぱり一人部屋じゃ心細いわよね。前に私が少しだけカウンセリングをした16歳の女の子が別の病棟に居るんだけど、一人部屋で寂しいと言っていたし相部屋にしてもらいましょうか!!」彼女は名案だわ。と言いながらタブレットを操作する。


「いや、おじさんと一緒じゃその子が可哀想ですよ」

「貴女の変化は貴女の責任じゃないわ。大丈夫、安心して良いのよ!彼女、凄く優しくていい子だから」


 真幸はそういう問題じゃないんだけどな、という言葉を飲み込んで納得を装う。

「……分かりました」本場の少女を近くで見ていれば、自分も少女らしく振舞う事が出来る様になるかもしれない。と考えたのだ。少女になりきる事が出来るのならば、きっと今日みたいに警察から補導される事も無くなるだろう。


「許可が出たわ。少し移動をする事になるけど良いかしら?」「え?どこに?」

 面倒臭そうな顔をする少女に春香は優しい笑顔で、しかし少しだけ困った様に首を傾げてから言い放つ。


「緩和病棟、って知ってるかしら?」



 緩和病棟の場所を説明するには、毬華総合病院の設計に触れなければならない。かの建物を上から見ると独立した病棟が六角形に見えるだろう。その六角形の中央には一際大きな棟が佇んでいるのだが、これは循環器病棟という場所で心臓血管系や呼吸器系、消化器系の内外科を含む専門の医師が常勤している。

 

 外側の六角形は右上から時計回りに、整形外科、皮膚科、産婦人科、乳腺外科等を専門とする『美容病棟』新薬の研究や開発、治験を行う『臨床病棟』脳神経科、眼科、耳鼻科等を専門とする『神経病棟』名前の通り小幼児の治療を専門とする『小児科』ER救急救命室ICU集中治療室が有り夜間の受け入れも行っている『緊急病棟』そして最後に、現在二人が五階フロアを歩く『緩和病棟』という順番で並んでいた。


 さて、緩和病棟の病室は個室制で、それぞれに小さなリビングスペースと寝室、専用のトイレとバスルームが備えられている。患者の家族が訪れた際にも快適に過ごせるよう配慮されているのだろう。

 フロアの中央には無機質だが広いカフェテリアがあり、交流の場として提供されていた。また、静かに過ごしたい者の為にも大きな窓の近くには高級なソファや椅子が配置されており、ゆったりと外の景色が楽しめる様だ。


「名前だけは何度か聞いていたけど、緩和病棟って一体何なんですか?」真幸は沈み始めた太陽の光を受け、眩しそうな顔でそう聞いた。しかし質問をされた春香は「患者さんのメンタルケアをする場所よ」とだけ言って、後は非常に曖昧な笑みではぐらかす。


 カフェテリアの中央で爺婆が均一規格の無機質な机を前に黒い汁を啜る光景を眺めながら、二人はフロアを奥へ奥へと進んでゆく。


「割と良い雰囲気に思えますけど、それならどうして件の少女は寂しいと言っていたんですかね。老人は子供の事を可愛がる生き物だと思っていたんですが」

「そういう方は多いでしょうけど、あまりにも年が離れていると意外に会話って続かないものなのよ。私は仕事柄若い子と話す事が多いけれど、それでも知らない単語がいっぱい出ると頭がこんがらがっちゃうもの」

「年齢の壁以前に言語の壁が立ち塞がっている訳ですか」


 春香は真幸の言葉を肯定する様にニッコリと笑ったが、「彼女に関してはそれだけじゃ無いかも」と、付け足すように不穏な事を呟いた。

 なんとも隠し事が好きな人らしい。


 奥の角部屋にたどり着くと、彼女はノックをしてから名前を名乗る。どうやら中に居る少女も春香の事を覚えていたらしく、直ぐに可愛らしい声が聞こえて来た。


 中を覗くと眩い斜陽を背に浴びて長く伸びる影が一つ。真幸は逆光の中で目を凝らし、佇む影に息も忘れて夢中で見入る。


 少女の美しさは異世界から来たかのように、現実離れしていて神秘的だった。

 乳白色のシルクの様な髪は太陽の光を帯びて繊細に輝き、風がないにも関わらずほんのりと波打ち揺れている。

 顔立ちは細かく、磨かれた石のように滑らかで、まるで美しい彫刻の様。細く長い睫毛は優雅に下を向き、大きなルビー色の瞳は一目見ただけで心を引き寄せられる程の艶やかな魅力を持っている。

 そして頬は柔らかなピンク色を帯びていて、その肌は白く透き通る雪のように綺麗だった。軽く開かれた彼女の唇は至極柔らかく、まるで絵画のような美しさを放っている。


 少女の立ち姿は15才だと思えない程に優雅で、悠然で、それなのに年相応な無邪気さと愛らしさも兼ね備えていた。矛盾を内包した独自の雰囲気が、彼女をより一層際立たせているのだ。


 一瞬で心を捉えて時間さえも止めてしまう圧倒的なまでの、暴力的なまでの「美」から察するに、前世は傾国の美女かファム・ファタールか。

 

「どなた?」

 少女は鈴を鳴らした様な可憐な声でそう言い放つ。そしてそれは同時に、どこか別の精神世界へ羽ばたかんとしていた真幸を寸での所で呼び戻した。


「沙魚川 真幸」そう答えてから彼は考える。 はたして実名を名乗っても良いのだろうか?―――いいや、どうせ信じて貰えないのなら最初から変な印象を与える事も無いだろう。「違った、真幸まきです」


「マキちゃん……は、そこにいるんですか?」「入ります」


 彼はとっさにマキという単語を捻り出した自分を賞賛しつつも、しかし、飛んで火にいる夏の虫の如く誘われる様に少女の部屋へと足を踏み入れた。




 

【設定】


 無駄に7つもある病棟の階層設定です。現時点での設定ですので後々変更があるかもしれません。変な書き方をしているので読みにくかったら申し訳ないです。


 緩和病棟 臨床病棟 神経病棟  小児病棟 ER.ICU棟 美容病棟 循環病棟

 5F緩和室 5F研究室 5F研究室 5F研究室 5F集療室 5F研究室 5F入院室

 4F入院室 4F入院室 4F入院室 4F入院室 4F入院室 4F入院室 4F入院室

 3F診察室 3Fホール 3F診察室 3F診察室 3F冷暗所 3F診察室 3F診察室

 2Fモール 2F手術室 2F手術室 2F手術室 2F手術室 2F手術室 2F手術室

 1Fモール 1Fロビー 1Fロビー 1Fロビー 1F救命室 1Fロビー 1Fロビー


 因みに、本文でも触れていた病院を上から見た時の様子は以下の通り


     北

    6 1

 西 5 7 2 東

    4 3

     南

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