第2話

「痛。あーいた。すーっ、いたた……いたぁ、っ痛!痛って嘘、痛いって、あた、いたたたた、いっ、痛ぇっつってんだろうが!!!!!」


 治験の日から一週間が経った日の午前4時12分、早朝。

 全身に刺す様な激しい痛みを覚え、真幸は叫び声をあげながら転がる様に慌ただしく立ち上がった。


「……ナニコレ?」


 目覚めたばかりの脳みそは自身に降りかかった唐突な出来事を処理できなかったが、こむら返りよりも肉離れよりも、ずっと大きな苦痛である事だけは理解していた。彼は隣の部屋から飛んで来た怒声を気にすることも無く、とりあえず服を脱いで全身を隈なく見渡してみる。

 夜が明けて直ぐの弱々しい朝日だけが頼りではあったが、そこには何時もの少しばかりムッチリとした体が有るだけで、一切の外傷も見当たらない。出血していなかった事に若干の安堵を漏らしつつも、彼の思考は更なる深みへと嵌っていた。


―――では、この痛みは何処から?


「私は全身から!!!!!」


 などと自問自答をしては見たが……彼の顔面を含めた全身は、ねっとりと舐る様に鈍く。そして鋭く鮮烈な痛みに蝕まれていた。真幸には、まるで全身に何百もの包丁を丁寧に突き刺されている様に感じただろう。


 若しくは、全身の血液が高濃度の硫酸に置き換わったかの様な感覚だと言っても良い。その痛みは想像に難く、内側から溶解されて崩壊するかの如く。


 明確な悪意による犯行としか思えない、永遠とも思える地獄の苦痛。彼は冷や汗をかく事すら許されず、唯、早急に嵐が過ぎ去る事だけを祈っていた。



 その日の昼頃。

 真幸は随分と治まった体の痛みに悪態を吐きながら、ようやく布団の外へと這い出て来た。

 しかし、収まったとは言え原因を特定しなければ次の痛みが何時何時に襲ってくるかも分からない。一過性の症状だったとして、現れもしない痛みにおびえて神経をすり減らすのは御免被る。


 そう思った真幸は次の波がやって来るよりも早く、病院へと向かう事を決意した。幸い治験のアルバイトによって懐は温かい。或いは、治験のアルバイトに応募しなければ痛みに喘ぐ事も無かったのかもしれないが。


 彼はいつも通り「よっこらせ」と掛け声を出して上半身を起こした……すると、どうだ。驚く程にスムーズ克、素早い動きで体が動いたではないか。


 勘違いかと思って一度倒れてから上体を持ち上げるも、結果は変わらずに流れるような動作であった。

 

「と、とうとう私の内なる力が覚醒してしまったのか!?」彼はそう言って己の腹をまさぐった。「かッ!!硬いッッ!!?昨日までの腹筋らしきナニかではない!!何だこの圧倒的な存在感はッ!!」


 そうして調子に乗り上体起こしを100回程繰り返した真幸は、ふと我に返って辺りを見渡した。


「部屋もいつもと違うし。やっぱり夢か?夢だよな?夢だわ」


 少しだけがっかりした様子で、ぶつぶつと呟きながら少し汗ばんだ体を流す為にユニットバス兼洗面所へと移動する。顔でも洗えば目も覚めるだろう。そう思っての行動だったが、沙魚川は洗面所の鏡を見て完全に硬直してしまった。


 なにせ、そこにはイケメンが居たのだ。

 いや、正確には鏡に映ったイケメンが居たのだ。


 年の頃は10台後半、若く健康的な色白の中性的男性。美形、美丈夫、美青年。ハンサム、イケメン、良い男。どれだけ言葉を尽くしても足らない程のとにかく男前な奴が、己の家で、己の寝巻で、アホ面を晒して立っている。

「夢だ夢だとは思っていたが、まさか悪夢だったとはな。何だお前けったくそ悪い」


 真幸はそう言ってそいつに向かってガンを飛ばすと、汗を拭いてから布団に戻り二度寝を開始してしまう。

 夢でも寝るとは見下げ果てた野郎ではあるが、結果として彼の判断は間違っていなかった。なにせここは夢ではなく、現実なのだ。

 

 都会でも大問題のイケメンが田舎をほっつき歩いていたら、途端にご近所さんの主婦連中に囲まれ帰れなくなっていた筈である。

 

 本当なら病院へ向かうべき状況。

 もしかしたら、まだ治るかもしれない状態での放置。その選択を遠くない未来で激しく後悔をする事になるとは、今の彼には思いもよらなかった。



 その日の深夜。田舎のアパートにある古びた座敷では、一人の男が叫んでいた。


「ぐあぁぁぁぁ!!!!こ、殺してくれぇぇぇぇ!!!」そう叫ぶ真幸は、万年床の上で本能のままに体を小さく畳んで蹲り、体を抱き寄せる。

「ゴホッ、オエッ、チクショー!!!」


 彼が普段から隣人付き合いでもしていれば、もしかしたら様子を見に来てくれる人が居たかもしれない。もしかしたら救急車を呼んでくれたのかもしれない。

 しかし、異分子を除けば全くもって静かな夜である。そんな時に二日も連チャンで奇声を挙げる様な気の違った奴と好き好んで関わる様な人間は何処にも居なかった。


 真幸は頭の先からつま先までをも貫通する熾烈な痛みに体を震わせ、脂汗を浮かべた虚ろな顔で地面を睨む。口の端から流れ落ちる涎を飲み込む余裕すら失っているが、拳だけは掌に爪が食い込む程の力で握っていた。そうでもしなければ脳髄がショートする様な感覚と共に意識を手放す事になるという直感があったのだ。


「……耐えたら一億、耐えたら一億」


 お腹が痛くなった時に縋る神へ祈りを捧げながら、真幸は少しばかり高く・・なった声で己に活を入れた。とはいえ変化は微々たる物だ。平衡感覚すら失って、うるさい程の耳鳴りに耐えていた彼には些細な声の変化など感じ取れなかっただろう。


 そして、次の瞬間。彼の、いや、男の体で最も大切な器官に激痛が走る。

 稲妻を纏う迅雷が直撃したかと錯覚してしまう様な衝撃に、真幸は股間を手で押さえながら泡を吹いて、その場で昏倒してしまった。



 若手警察官『花香取 締ハカトリ シマル』は、真面目を擬人化した様な人間である。不正や汚い事を平気でこなす父親を傍で見て育ったせいか、幼少の頃から剝き出しの正義感を盾に数々の悪事を裁いて見せた。


 保育園では力を振りかざすガキ大将の討伐や不審者の通報。小学校ではいじめっ子の撃退に淫行教師の逮捕協力。中学校に上がってからは格闘系の大会を総なめにし、民家に押し入る泥棒を単独で無力化して警察に表彰されたこともある。

 高校に入ってからは勉学にも力を入れ始め、学力テストでは上位に名前を載せる事も珍しくは無くなった。


 頭脳明晰、文武両党、外寛内明、実家も太い。おまけに男前。日本中の大学は絵に描いた様な天才人間を大層欲しがった。

 スポーツ推薦や授業料免除、特待生という餌を撒いて勧誘をしては見たものの、締を入学させる事の出来た大学は存在し無かったという。


『時刻ヒトフタサンマル、自分の胸を触りながら歩行する痴女が現れたと通報があった。場所は毬華メインストリート三番街、至急向かわれたし。繰り返す―――』

『……了解しました。現在三番街に向かって南下中です』


 警察無線から手を離した締は、サイレンがけたたましく鳴り響くパトカーのアクセルを更に深く踏み込んだ。


 高校を卒業してから最速で警察官になり早4年。21歳で国家公務員総合職試験に合格して警部補となった叩き上げのエリート街道を突き進む彼の瞳は、今も尚正義感に燃えてギラギラと輝いている。


「通報にあった女性は……彼女か」メインストリート三番街の交差点で痴女らしき人物を発見した締は、パトカーを街道に止めてすぐさま事情聴取へと向かった。


 女性の身長は150cm程度。後ろ姿で顔は見えないが、長い髪の毛を金色に染めてヨレヨレの小汚い服を着ている。


「君、君、ちょっといいかな?」「あ?警察が何の用ですか?」


 そう言って怪訝な顔で振り返った少女は、警察がなんぼのもんじゃいと、未だにその未熟な胸を揉み続けている。


 締は呼びかけられても行為を辞めない神経の図太さに驚いたが、少女の容姿を見て更に驚いた。


 金の髪は自前なのか柔らかく波打っており。少しだけ目尻の上がった瞳は深く清らかな碧色で、古の物語に登場する姫君のような輝きを放っていた。肌はゆで卵のように白く透明感があり、微細な毛穴すら見当たらないほど滑らかで、顔立ちはまるで芸術品のように完成されていたのだ。

 

 生まれた場所がこんな辺鄙な田舎町でさえなかったら、直ぐにでもスカウトをされて千年に一度の美少女だとかを銘打たれ、あらゆるにメディアに引っ張りだこで出演させられていただろう。


「………とりあえず、その手を胸から放そうか?」「手?なんで?」「なんでって、他の人が見ているだろう?」


 しかし、少女は全くもって訳が分からないと言った様子で首を傾げる。すると、何故だか着ている男性用のTシャツから膨らみかけた胸元が見えた。

 そのあられもない姿を見た相手がエリート警察官で無かったならば、何をされても文句は言えないだろう。


 しかし、締は動じない。男性ならばついつい目で追いかけてしまう悪魔の誘惑に、一切の関心すら見せなかった。それは何も、締の精神が屈強だからと言う訳で無ければ、警察官としての矜持の為に我慢をしている訳でも無い。


 彼は、唯々、単純に、熟女好きであったのだ。


 新鮮な果実がどうしたと、こちとら腐りかけのラ・フランスが好物だと。締は至って真剣な眼差しで真摯に少女を心配していた。


「ついさっき、近隣住民から君が公序良俗に反する行為をしていると通報があったんだ。ここじゃ人目に付くし、良ければパトカーの中で話を聞かせてくれないかな?」

 締は「任意同行だから拒否も出来るんだけどね」と、付け足して笑う。年端も行かぬ一般少女ならば、とち狂って警察官を目指してもおかしくは無い程に眩しい笑顔。


 しかし、少女は少し考える仕草を見せただけで「わかりましたよ、ついてけばいいんでしょ」と淡白な返事を返した。

 そうしてソソクサとパトカーの助手席へ乗り込んでしまった少女に、締は運転席から優しく声をかける。


「まずは名前を教えて貰っても良いかな?」「沙魚川 真幸です」

「じゃあどこに住んでいるか教えてね」「宇迦之村 3番地5号 御魂荘102号室」


 締は菊紋の入った端末を操作して言われた通りの住所を入力すると、途端に怪訝な顔で少女を見やる。


 入力した住所に表示されたアパートの102号室には「沙魚川 真幸」という人間が確かに住んでいた。しかし、それはあくまでも32歳の男性である沙魚川 真幸であって、高く見積もっても17歳にすら届かない少女と同一人物だとは思えなかったのだ。


 虚偽と断定するのは簡単だが、何かしらの意図が隠されているのならば丁寧に汲み取らねばならぬ。


「うーん、その名前の人は君の知り合いなのかい?もしくは保護者?」「いや、私が沙魚川 真幸だと言ったよね?」


 締の目には眼前の少女が嘘をついているようには思えなかった。だが、それと同時に大きな違和感も感じ取っていた。精神と肉体に乖離が存在する様な、魂だけが別人の様な。些細だが、見逃すには大きな違和感だ。


「分かった、信用しよう。じゃあ事情聴取の続きをするね」


 締はそう言いながら、メモを取っていた警察手帳を膝に置いて、中に書かれた文字を真幸にだけ見得る様にした。

『僕は味方だ、何があっても君を守ると誓う。もしも助けを求めているのなら咳払いをして欲しい』

「グフッ!!……は???」


 表情は変わらない。しかし、思わず咽てしまった真幸の反応を見て、締の内心では様々なピースが音を立ててがっちりと嵌り始めていた。


 ―――やはり彼女は助けを求めている。現在の状況下において住所と名前を偽証する理由は無いし、警察官に対して虚偽の報告をする事の意味が分からない程幼い訳でもない。故に名前と住所は彼女が僕に与えることの出来る情報の際限だという事だ。名前が彼女の物では無い以上、住所だけが本物だという事は考え辛いし、沙魚川という人物こそが彼女に助けを求めさせた原因だと推察する方が自然な流れと言える。


 では助けを求める理由とは何だ?

 ……いや、考える順番が逆だな。大前提として彼女は今私の目の前に居るのだ。

 沙魚川容疑者が逃がさないつもりならば幾らでも手を打つ方法はあっただろう。


 助けを求めるべき少女が行動に移せずに、不審な行動をする理由はそう多くない。考え得る状況は二つだ。


 一つ目は、単に彼女の頭がおかしいという場合。とはいえ、被害者が狂人である可能性は限りなく低いので今回に限っては無視をしても構わない。

 本命は二つ目、人質を取られた上で外出を許可されていた場合だ。これならば通報が出来ない理由も、終始挙動が不審な点も理解が出来る。しかし、人質を取るという事は犯人が複数人居る可能性が高く、それは同時に計画的な犯行である事の裏付けでもあった。あらゆる可能性を考慮して慎重に行動しなければならないだろう。


「何故あんな事をしていたんだい?」

「何でって、揉みたかったからだよ。言っておくが私は男だぞ?多分、数日前に治験で飲んだ薬が原因で女体化しているんだ」


 支離滅裂な言動。自分が男性だと主張するのは肉体的、或いは精神的な暴行を受けたせいで精神が不安定な状態にあるからか。

 

「これが最後の質問だよ。先程言っていたお家の中の様子と、住んでいる人間の特徴を教えてくれないかな?情報が適合したら君が犯した公然猥褻罪は厳重注意で済ませよう」「家は古民家みたいな内装で、出されていないゴミで溢れているな。住人は三十台前半の男。目付きと姿勢は悪いが、良い奴だよ」


 ……何という事だ。彼女は沙魚川 真幸から性的暴力を受けていたのか!!自らの胸を触っていたのはストレスから来る防衛本能から。恐怖の対象である加害者の男性を庇うのは、より酷い扱いをされない為の懐柔反応で間違いない。どちらも性被害者に多く見られる症状だ。


 劣悪な環境に閉じ込められて辛かっただろう。人質を取ったと脅されて悲しかっただろう。道行く人間に変質者扱いをされて悔しかっただろう。

 しかし、よく耐えた。よく抗った。


 幼気な少女の身に何が起こったか、そして何を感じたか。それら全てを理解したなんて口が裂けても宣うつもりは無いが、僕は理解したぞ。僕にだけは伝わったぞ。

 涙ぐましい抵抗は、慎ましやかな反攻は、確かにこの瞬間に実を結んだのだ。


 締の金色に輝く脳細胞は物の数言を交わすだけでそこまでの情報を精査した。一切合切が間違っている事に目を瞑れば、凄まじい能力だと言わざるを得ない。


 そして、真実を誤認した締は一刻を争っていた。今直ぐにでも彼女を保護してカウンセリングを受けさせなければ恐怖記憶の固定化によるPTSDや解離性健忘症を患う可能性があるし、性病の治療もアフターピルの服薬も早いに越した事はないからだ。


 締は盗聴対策で紙に書いた文字を再び少女に見せる。『では君に2つの選択肢を提示しよう。一つ目は警察署で保護されること、二つ目は病院で保護されることだ。僕は圧倒的に後者をお勧めするよ』


 とはいえ警察署での保護は安全だ。犯人も容易には中へ入れないし、更に言えば脱出は不可能に近い。だが男から酷い事をされた少女を、むさ苦しい男が犇めく建物へ放り込むのは憚れる。


「いや、そろそろ家に帰りたいんだけど」「もうちょっと頑張ってね」


 締は疲れの見え始めた彼女にそう言って優しい笑みを浮かべ、手帳に再び文字を書き綴った。『気持ちは理解できるが、君の家は監視されている可能性が有る』

 それを読んだ少女は今までのつまらなそうな顔を驚きに染めて、猫背になっていた姿勢を正す。


『君に酷い事をした人間は非常に計画的な行動を取っている。そんな奴らが何の手も打たずに君を外へ出すとは思えないだろう?』


 締は彼女が言い分に納得して首を振ったのを確認してから、再三見せた手帳を手渡した。『では最後に警察と病院、どちらでの保護を望むかを聞いておこう。好きな方に印を付けてくれたら盗聴対策で芝居を打つから、話を合わせて欲しい』


 返された手帳には病院の文字の上で新たに丸い印が描き足されている。安全性は低くなってしまうが、それは締が少女の元を頻繁にを訪れる事で解決するつもりであった。

 

「12時54分、公然猥褻罪の容疑で少女を逮捕しました。では署までご同行願います」盗聴していた犯人は唐突な事態に驚いているだろうが、少なくとも彼女を盗聴し続ける価値が無くなった事は分かるだろう。以降は逆探知を恐れて通信をしてくることも無い筈だ。


 ……そうして彼らは互いに勘違いをした状態のまま、病院へと向かった。

 

 締の階級がもう少し低かったならば、或いはもう少し頭が悪かったならば、独断での行動は控えて一度本部へ判断を仰いだのかもしれない。

 真幸の睡眠が連日の激痛で不足していなければ、或いは相手が野郎でなければ、もう少し具体的な会話が出来たのかもしれない。


 しかし全ては終わった話である。これから大の大人である二人が揃いも揃って目的の存在し無い場所で奔走する事になるとは、誰も予想していなかった。

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