第10話

パート10


「そろそろ時間だね」


 小野先輩は本を閉じながら、そう言った。

 うず高く積み上がっていた本の山は、さらにその標高を増している。

 てっきり僕は最初その本の山を見た時、とりあえず適当に本を集めてきた跡で、読んだものも読んでいないものも一緒くたになっていると勘違いしていたのだが、あれらはもうすでにすべて読んだ本だったのだ。

 だから、標高が増している。それなりに読書好きな僕をして、驚異的な読書スピードだった。


「そうですね。久しぶりに連続でこれだけ読んだから、結構疲れました」


 スマホをつけると時刻は8時45分。

 途中挟んだ雑談の時間などを除いて、実際に読書をしていたのは2時間半ほどだろうか。

 ぐっと伸びをして、椅子にへばりついた体を剥がした。

 そうして、言葉もなく2人で本を片付け始めた。

 とはいっても、僕は2冊の本を直すだけだからすぐに終わってしまったのだけれど。

 若干の手持ち無沙汰と罪悪感を覚えながら、スマホを触る。


「最後に、これは上から目線で気持ちの悪いアドバイスなんだけど」


 そうすると、本を片しながら、先輩は振り向いた。作業のために顔を上に向けたままで、先輩の表情は伺えない。

 けれど、たしかに真面目な前置きだった。

 僕は身構える。


「君の悪癖について……いや、もったいぶって遠回りしなくていいか、元カノさんとのことで、少し私が危惧していることなんだけれど」


 けれど、すぐにそれを解いた。あえて、僕の嫌う言葉遣いをしているだけで、先輩にそんな気は全くないことが分かったからだ。

 身構えるのをやめて、耳を澄ました。一言一句逃さぬように。


「他人に何か望むのは、やめた方が良いよ。自分だけにしておいた方が良い。たとえば、大河ドラマの主演女優のAVがどうしても見たいと願ったって、誰も見れないじゃないか」


 たとえがあまりにも最悪だったけれど、意味は伝わった。

 こういうとこであえてふざけるのは、先輩も恐れているからなのだろう。


「だから、やめた方が良い。それは──絶対に、やめた方が良い」


 同じ経験とその失敗からきているような、その大きな質量に不思議さがない言葉だった。

 上から目線だなんてとんでもない。きっと、いつか同じところを見ていたからの言葉だろう。

 そんなことを思った。


「いえ、ありがとうございます。肝に銘じます」

「ありがとう。そうしてくれると、私も救われる」


 私も救われる、か。

 先輩は、どうしてこんな自分を傷つけるような方法でしか、大切なことを伝えられないのだろうか。自分を傷つけてまで、僕を救おうとしたのだろうか。

 先輩は、「最後まで君の傷にできるだけ近づくことを約束するよ」と言った。それは、あるいは、僕より僕の傷に近づく覚悟を決めたということなんじゃないだろうか。

 これだけ先輩を縛るものは、何なのだろうか──いや、もう自分の中で答えは出ている。あえて口に出さないだけで、思考はすでにそこを通り過ぎている。

 先輩を、縛るもの。それはたぶん、正義と言うべきものだ。先輩は人よりきっと、ずっと、正しいものが見えている。

 それは何より素晴らしいことだと思うけれど、だからこそこの先輩は、変われないのだ。変わらないのではなく、変われない。

 人に愛され難い自分を捨てる去ることが出来ない。感情というものを抱えても、それを優先できるほど愚かになれない。その状態が、悲しいことに誰よりも正しいから。

 現実を見つめ続けるこの人は傷付きながら誰かを救うしれないけれど、誰もこの人を救うことはできやしないのだろう。

 先輩も先輩で、相当苦労しているな、と思った。僕なんかが苦労という言葉で片付けてしまうのが申し訳ないほどに、それは大変なことなのだと思う。


 失礼で侮辱的で気持ちの悪い妄想だった。

 だけど……あながち間違っていない、とも思う。

 それを尋ねることは、できないけれど。


「ほら、早く出ないと閉じ込められるよ」

「あぁ、すいません……今行きます」



 図書室を出て、先輩と別れて、電車に揺られて、帰り道を歩いていた。


 実際に生活してみるとわかるものなのだが、近所の人と顔を突き合わせる機会なんてほとんどない。特に、僕みたいな半引きこもり大学生は。

 だから、怯えることも本来ないのだろう。

 それに、最初に比べるとずいぶん気も楽になった。元々、いくつかボタンを掛け違えたくらいの、ほんの小さな心の間違いがそうさせていただけだったから、それを直してやると案外なんでもなかったのだ。直してもらうと、なんでもなかったのだ。

 それに、僕には心強い友人が2人もいる。

 何があっても、これからは大丈夫だろう……。



 なんて、僕らしくもなく楽観的に考えていたのが祟ったのだろうか。

 帰り道、ドアの前。

 より正確にいうなら、僕の部屋の前。

 君──元カノ──元、松山香織が、子供を抱いて、立っていたのだった。

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