第8話

「あっはっはっは! なにそれ! めちゃくちゃ面白いね!」


 最悪だった。

 信じられないくらい笑われた。


「いやぁ、面白い面白い……元カノが隣に子供連れて越してきた、か……あっはっは!」


 最後のひと笑い(ひと笑いにしては大笑いだったけど)みたいな感じでまた笑われた。

 やっぱり言わなければ良かったと後悔する。


「真剣なんですから……馬鹿にしないでくださいよ」

「馬鹿になんてしてないよ。めちゃくちゃ面白いとは思ってるけど」

「本当ですか……?」

「いや、本当だよ。馬鹿になんかはしない、絶対に。投げ出したりしないし、侮ったりもしない。私は最後まで君の傷にできるだけ近づくことを約束するよ」


 真摯な言葉だった。

 嘘では、なさそうだ。そもそも、こんなところで嘘をつくような人でもない。


「なに、君は神妙な顔をして『そうだね。辛かったね。俺ならそんなことしないのに』なんて、私に囁いて欲しかったのか?」

「それは……」


 それは、違う。

 むしろ、僕がいちばん嫌っているものだった。

 同情されて嘘の言葉をかけられるくらいなら本当のことを言って欲しいというのが、僕の常日頃からの願いだったはずだ。


「それは……違います」

「だったら、これでいいじゃないか。嘘をついてまで慰めてほしくはないんだろう?」


 まったくその通りだ。

 僕は、何を求めていたんだろう。

 さっきの僕は、なんとなく非難したい気持ちになって言ってみただけの子供だった。


「……すみません。その通りです」

「べつにいいよ。そもそも、君が謝るようなことではないしね」


 確かにそうだ。

 本当にそうだ。

 少なくとも、僕が謝るようなことではない。

 内面の事実はどうであれ、秘密を話して笑われたのだ。僕が先輩を責める権利がないのと同時に、先輩が僕を責める権利もないはず。

 してやられた。

 遊びのように軽く、先輩を睨んでみた。また笑っていた。


「にしても、君も大変だね。その元カノさんのこと、まだ好きなのかい?」

「それは……」顔を下げて色々考える。答えはでない「わかりません」

「なんとなくそんな気はしていたけどね。じゃあ、昔も?」


 僕は頷いた。ずっと、考えていたことだった。

 君が隣に越してきたことでこれだけ色んな気持ちを抱えていても、僕はいまだに、付き合っていた頃の君のことが好きだったのかという確信すら持てていないのだ。

 別れた理由も、それだった。ずっと、そうだった。

 だから、僕は失恋すら出来ていない。

 一度だけでも、君に好きだよと言いたかった。思いたかった。その後悔を、いまだに引き摺っているだけ。

 そもそも、好きという感情が、僕には朧げな輪郭しか見えていなかった。あるいは、見えていないことにしたいだけなのだろうか。


「先輩は、好きってなんだか分かりますか。好き、より恋と言い換えた方が、わかりやすいかもしれないですけど……」


 いや、なんだこの質問。

 小っ恥ずかしいというか、そんなのじゃ足りなくて大っ恥ずかしいというか。

 今どき小学生でもこんなこと話さないだろうな、と思った。いじめまっしぐらだ。

 僕たちはもう20歳を超えているのに。酒を飲んでいるわけでもないのに。

 やばい、顔が赤くなってきた。酒を飲んでいるわけでもないのに。

 今こそ馬鹿にしてほしい。いや、馬鹿にはしてほしくはないのだけど。真剣な、質問なんだけど。

 先輩を見るとくつくつ笑っていた。僕も笑いたい気分だった。

 そうしてしばらく。落ち着いたのか、口を開く。


「私に恋がわかるわからないは置いておいて」

「置いておくんですか」

「置いておく。意味がないし、今は君の話だから」


 妙な感触だった。普段の先輩なら、こういう時には真っ先に、自分の出した答えを言ってくれるような気がする。

 ただ、別に深堀するようなことでもなかった。


「たぶん君は、喜怒哀楽恋をしたいってことなんだよ」


 なんとなくの意味はわかった。

 けれど、確証はない。続きの説明を待つ。


「喜怒哀楽くらいにわかりやすくて、同列で、強烈で、当たり前な恋をしたいってことなんだろう。朝靄みたいな恋は許せない、と言い換えてもいいかもしれない」


 なるほど、言い得て妙かもしれなかった。

 僕は恋の輪郭が朧げにしか見えていない……それを許せないから、恋ができなかった。あるいは、それを恋と呼ぶことを許さなかった。

 けれど、この言葉に頼り切りになってはいけないと思う。僕は、自分で考え続けなければならない。

 いつか、自分で答えを出さないといけない。そんな日が来る。そう思う。


「私もね、少女漫画なんかを読んでいて『こんなに胸が痛むなら、これはやっぱり恋なんだ!』なんて、つまらなくて的外れで体のいい思考放棄が嫌いなタイプなんだよ。そんなのは嘘だ」


 「そんなのは嘘だ」か……先輩もそんなことを考えるんだな、なんて思った。

 もっと現実に即したタイプというか……いや、現実に属しているからこそ、こういう思考になったのだろうか。

 遥か夢見るロマンチスト少女みたいな思考に。


「……何か失礼なことを考えてる? 私のスリーサイズ?」

「違いますよ!」


 その言い方だと先輩のスリーサイズが失礼なことみたいになってしまうんだけどいいんだろうか。

 いや、やめよう。本当に失礼なことを考え始めている。

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