第3話

 何もしていないのにドッと疲れた。敷きっぱなしだった布団に腰を下ろして思う。

 そしてそのまま横になった。服を着替える心の余裕はなかった。

 夏の暑さが脳を蝕んでいく。いや、むしろ蝕まれた方がいいんじゃないだろうか。蝕まれて、すべてなくなってしまったほうがいくらかマシなんじゃないだろうか。

 健康的じゃないな。僕はいつもこうだ。不健全な思考ばかりが先行して、自傷行為で自分を許そうとする。

 罰を与えるのが、僕であっていいはずがないのだ。


 適当に手を動かしリモコンを探り当て、エアコンをつけた。感触だけでタイマーまで設定すると、ピューっと最新式特有の軽い音をたて、人工的で柔らかな風が髪を揺らす。

 もう寝よう。すべてを忘れることはできないけれど、少し目を逸らすくらいならなんとかできるはずだ。

 そう思っていたのに。目を閉じたのに。やはり過去は追いかけてくるものだった。

 僕を次に蝕むのは、音。隣から聞こえてくる、引っ越しの音だった。

 壁がそれなりに厚いのもあって耳障りというほどうるさい訳ではないけれど、それでも確かに人間の所在を主張していた。

 別に、これくらい引っ越しなら普通だろう。いちいち目くじらを立てるようなことではない。

 ただ、僕にとっては。僕にとってだけは、君とその夫の所在が、僕の脳に刻み込まれ続けていく。

 そんな時間だった。


 カバンを漁り、絡まった安物のイヤホンを取り出した。荒れた手つきで半分ほど解いて、そのまま両耳に押し込む。

 プラグをスマホに繋いだら、音楽アプリで適当なミックスリストを選んだ。

 魂を叫んだだけのありふれた曲が流れてくる。詳しくは知らないけれど、2、3回くらいは聞いたことがある。そんな曲だ。

 左耳からは何も聞こえてこなかった。当たり前だ、イヤホンの左耳は壊れているから。

 けれど、そんなものもすべて無意味だった。一度意識した頭は、些細な振動さえも拾う。

 むしろ、引っ越しの音はどんどん大きくなっているようにさえ感じられた。

 ああ、もう!


「どうしたらいいんだよ!」


 隣には聞こえない程度に加減した大声を出したら、少しは落ち着いた。

 いつもしないことばかりしている自分がおかしくて笑みが漏れる。

 ふっ、ふっ、ふっと笑いと共に息を吐いた。

 視界が歪む。思考は冴えている。

 眠気が来るまで、しばらく時間がかかりそうだった。

 その間、僕は何をすればいいのだろうか。何なら許されるのだろうか。許せるのだろうか。懺悔でもすれば、笑ってくれるだろうか。



 閑散とした教室の中にいた。

 いくつかの机にはプリントが散乱していて、黒板には「最後まで諦めるな!!」とだけ書かれてある。

 今すぐに帰らなければいけないと思った。けれど、体を動かそうと思っても満足に動かない。僕は馬鹿みたいに呆然と突っ立っていた。


「……ごめん、今いける?」


 ドアが開いて、1人の少女が入ってきた。

 少女とはいっても、その顔には黒いモヤがさしていて、化け物のように髪の毛は揺れていた。

 体の大きさは……わからない。目には確かに見えているはずなのに、脳がそれを理解していないような。

 認識はしているのだけれど、どういうものか分かってはいないような、そんな感覚……。

 明らかに異常だ。けれど、どこかスッキリと現状を受け入れていてもいた。


「ああ」


 やっと気付く。

 これは、君にフラれた時の夢だ。



「はぁぁぁぁ……気持ち悪い」


 それは汗でびしょびしょになったシャツに言ったのか、夢の内容に言ったのか、さっきまでの僕に言ったのか。

 なんにせよ、自分自身の現状に対する言葉だった。

 体を起こして枕元にあったスマホの画面をつける。

 示された時刻は23時30分。何をするにしても微妙な時間だった。寝れた時間は、大体2時間程度だろうか。布団に入ってから寝れていない時間が詳しくわからないから、もしかしたらもっと少なくなるのかもしれない。

 できるならまだ寝たいとは思うものの、眠気はすでに全くない。夢を無理やり中断した代償で失ったのだろう。


 引っ越しの音はもちろん止んでいた。無事終わったのだろう。君たちが寝ているのか起きているのかは分からないけれど、日常生活の音が聞こえてくるほど壁は薄くない。

 僕を蝕むものは何もなくなった。それなのに、僕はまだ蹲っていた。

 最適な温度に保たれた部屋の中で布団に入っているのに、暑いような寒いような錯覚を覚える。

 理由はなんとなくわかっている。立ち上がらないととも思っている。けれど、そうして動けないまま、朝を待った。

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