第2話

 エレベーターに乗る。どうか、君が住む部屋はなるべく離れた階であってくれと願いながら。

 14階まであるマンションで、僕は8階。確率は1/14とそう高くはない。

 べつに君の顔が見たくない、という訳ではない。そう断じてしまうのは過去に対して寂しいとも思う。

 ただ、君にいつ逢ってしまうか分からないという不安を纏いながら日々を過ごすのが嫌だった。

 そっちのほうが……たぶん、寂しい。


 そんなことを考えている間にもひとつ、ひとつと階を表す数字が変わっていく。

 エレベーターの外から声が聞こえた。よく通る男の声だ。引越し業者の声だろうか。

 やめてくれよ、と思いながら確認する。今は6階。

 また数字が変わる。声が近づく。

 もういい加減にしてくれよ、と思いながらスマホをポケットから出して目を落とした。

 普段はマスクを外すのが面倒でロックキーを入力しているけど、今日はそういう気分じゃない。

 マスクを下ろし、顔認証でロックを解除する。


 そうして、8階にたどり着いた。

 エレベーターのドアが開く。同時に暖かい光が差し込んでくるが、僕には全く別のものにしか思えなかった。


「あっ、ここの住人の方ですか?」


 ああもう、どうしてこうなるんだよ。もっと最悪じゃないか。

 僅かな逡巡の後、僕は会釈だけを残して通り過ぎようと自室を目指して歩く。

 だけど、そう上手くはいかなかった。僕の道を塞がない程度に、だけどしっかり存在をアピールする位置に、背の高い男が立ったからだ。

 さっきの声の主だろう。そしてたぶん、状況から察するに君の夫なんだろう。

 汗で背中にシャツが張り付いて気持ち悪かった。


「初めまして。この度805号室に越して参りました、佐藤誠と申します。わたくし、こういうもので……」

「あぁ、どうも……」


 名刺を貰った。だけど、ふつう入居挨拶で名刺なんて渡すのだろうか。

 名刺の内容なんて見れていないけれど、勝手な想像が膨らむ。

 名刺には大層な会社の大層な役職が書いてあって、それを自慢したいから渡したんじゃないか、なんて訳のわからない罵倒をしたい欲求に駆られる。

 流石にそんなことまでしてしまったならもう取り返しのつかないくらい惨めになってしまうと思ってやめた。

 そんな当たり前のことですら、ストッパーをかけないと出来なくなっている自分が怖かった。


「つまらないものですが、手土産を……」

「いえ……そういうのは、大丈夫です」

「そうですか! 差し出がましく申し訳ございません」

「いやいや……」


 腰が低くて気分の良い、できた奴だと思った。敬語も社交辞令もバッチリでよく慣れている。きっと普段からそんな感じなのだろう。

 僕の対応はお世辞にも良かったとは言えないはずだ。それはちっぽけなプライドがそうさせたのか、単純に元気がなくなっていたからか、それは分からないけれど。

 なんにせよ、人に好かれる人間なのだろう。僕とは違って。僕とは反対で。


「では、これから何かとご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします」

「…………はい、よろしくお願いします」


 なんとかやることは終わった。そのまま佐藤の横を通り過ぎて、804号室を目指す。

 いつの間にか光が消えていたスマホをしまい、さっき貰った名刺に目を移した。

 じくじくと頭痛で焦点が歪んで細かい文字は読めなかったけれど、真ん中に書かれたいちばん大きな文字くらいは読めた。それで、さっき伝えられた事実を再確認するには十分だった。

 君はもう、松山じゃなくなったんだな。

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