隣に元カノが越してきた。子供を連れて。

カナラ

第1話

 じめじめと締め付けるような暑さが目立つ夏の日。大学からの帰り道、自宅マンション前に大型トラックが止まっていた。

 さして珍しいことではない。ここは結構評判の良い賃貸であるからして、それなりに部屋の数も多ければ人の移動も多い。

 今月に入ってからでも、もう3人ほど引っ越しがあったはずだ。今更なんの感慨も湧かない。

 ただ、それでも新しい人が増えるとなると少しは気になるというもの。

 僕は自転車を降りた。手でゆっくり押しながら、通り様に新しい住人を覗き見てやろうという魂胆で。

 そうして、目があった。


「…………」

「…………」


 不思議そうな顔をしている。多分、僕も同じような顔だろう。

 絶対に、初対面ではない。それはわかる。

 だけど、誰なのかはわからない。

 自分が決して記憶力が良い方だとは思わないけれど、それでも奇妙な忘れ方だった。

 2人して、しばらく考える。

 そうして、僕が先に気付いた。


 気付いてしまったのだ。


「ぁ…………」


 君も気付いたのだろう。

 見覚えのある顔が、見たこともない表情に歪んでいく。

 体の内側から熱という熱が失われていくのが分かった。

 芯は冷え切っているのに、頭は沸騰していて、汗が止まらない。

 世界の温度と自分の温度が違いすぎて、気持ち悪かった。


「これも先運んどいて良かったですかー?」

「…………」

「……あのぉ〜」

「……あ、はーい! お願いします!」


 聞き覚えのある声が、聞き馴染みのない声を出していた。

 そうじゃないだろ、という言葉は喉元につっかえてそこから先に進まなかった。そもそも言葉なんて使う資格が僕にはないと気づいたからだ。

 それに、もっと聞きたいこともあった。

 たとえば、そう。君の腕に抱かれた赤ん坊のこととか。

 君の子供かなんてわからないけれど、僕たちももう21歳だ。そうであったとしてもおかしくない、とは思う。


 空回るペダルの音が聞こえる。

 途端、君は僕から肩を入れて視線を外して、そのまま引越し作業に移った。まるで僕なんて最初から存在していなかったかのように。

 まあ、元よりずっと目を合わせていた方がおかしかったのだ。僕たちは、なんでもないのに。

 僕も焦って目線を下にした。これ以上なく惨めだった。


「っ……」


 吐き出せない苦味を自覚しながら、自転車を押し進める。

 そういや帰宅している途中だった。今日の晩ご飯は何にしようか、なんて考える。

 浅ましい現実逃避だ。そもそも献立を考えるほど冷蔵庫に大したものなんて入っていないことくらい覚えている。

 ふと、このまま逃げ去ってしまおうかという思考が湧いて出た。サドルに跨って、ペダルを強く踏みこんで、風で耳を塞いで……。

 だけど、やめた。

 幸いにも、自転車置き場は裏側にある。そして少々めんどくさいが、自転車置き場の裏口からマンションに入ることも可能だ。

 つまり君に近づく必要があるのは、裏に回るためすれ違う一瞬だけ。

 顔を伏せて、目を閉じた。痛くなるくらいに。

 こんなふうにしていると君と付き合ったのがトラウマみたいになってしまうけど、あの日々をそんな風には全く思っていない。

 別れた時だって、たぶん嫌いになったとかじゃない。嫌なことなんて、何もなかった。


 全く、さっきから何を考えているんだ僕は。

 もはや少しおかしくなってきて、きみの悪い笑みが漏れた。

 馬鹿らしくなって、目も開けた。閉じたままなら必ず意味が出てしまうから。

 そしてそれがわからない君でもない。

 わからない君だったなら、こんなことになっていない……。

 そんなもののすべては言い訳で、ちっぽけなプライドの問題でもあった。


 そんなことをしていた罰だろうか、だんだんと距離が縮まってきた。

 近づいているはずなのに、さっきより遠くで君の声が聞こえた。地面もどこか揺れている。

 君の肩が震えた。

 君の中に僕の存在があるのだと分かって、少し救われた気分にすらなった。

 そんな自分を自覚して、また惨めな気分になった。


 交差する。

 思いの外、すぐに通り過ぎた。蝉の一生みたいに一瞬だった。

 なんのことはない。なんのことはなかった。

 当たり前の話だ。人1人とすれ違っただけなんだから。

 ただ、ひとつ。努めて感じ取らないように気を遣っていたのに、僕の鼻には華やかで甘い香り残っていた。

 僕の知らない匂いだった。

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