序ノ廻ノ起 前ノ編


 中華飯店「寧幸むしろしあわせ」。この広いフランスでも唯一の、東洋の食文化「中華料理」「和食」というものが食べられる「定食屋」。店内は脂っこくてべとべとしていますが、すごく汚い! と目くじらを立てる程でもありません。赤い壁に四角い渦巻きの絵が描かれていて、とても不思議な空間です。そんなこの定食屋さんは、フランスでは見たことのない「ギョーザ」とか「」とか……こってりしていて脂っこいのに、ガツンとした濃い味、尚且つ病みつきになる程の中毒性を誇る美食を提供してくださって、しかもぼくみたいな低所得者でも毎日通えるくらいの低価格で楽しめる……ぼくにとっての聖域なんです。ぼくは、中でも「素ラメーン」という、しょうゆのあっさりめのスープに絡まる具なしラメーンが大好物で、仕事終わりには師匠と共に寧幸までやってきては、一緒にラメーンを食べているんですよね。まあ、今日は一人なんですが。


「ずずずっ、ずぞぞぞぞっ」


 音を立てながらラメーンを啜る。飛び散るスープ。普段なら”ヨハンソン”さんも驚いて行儀悪い! と怒るんですが。この場にいないので、東洋の言葉で「無問題」という奴ですね。こうして食べるとなぜかうまいと感じるんです。不思議、不思議。で、ぼくは、ラメーンをハシでつかみながら、目の前の分厚い本を開いて、ハシでページを捲りながら読み進めていました。ページが汚れる? そんなもん、ぼくには関係ありません。


「わかりやすい公式ですねぇ、ウケる」


 ぼくの何気ない一言に、店の親父さんが「は?」と声を漏らしていました。


「なんじゃそりゃ」

「ん」


 親父さんがそう聞いてくるもんですので、ぼくは親父さんの方をみる。


「独り言です」

「はあ……」


 ぼくが親父さんにそう言うと、再び本に向き直った。親父さんの呆れたような声が聞こえますが、どうでもいいです。ラメーンおいしいです。


「ナンシー、そいつみとき」

「はいな」


 親父さんの隣にいるスペイン人っぽい女の人の声が聞こえます。なんだか視線を感じますがどうでもいいです。目の前の論文を完読するのが、今のぼくの使命です。ぼくはそう思いながら、ギョーザをタレにつけてぱくり。うーん、もちもちの皮の中からあふれ出る肉汁、そしてミョウガのつんとしていながら優しい辛みと、ネギの甘みとかなんやらが口の中で爆発して……


「んん~、高まるぅ~!」


 思わずそう叫ばずにはいられない。ぼくは隠し事ができません。


「……¿Tiene seguro?保険入ってるか?


 厨房にいるはずのスペイン人の……あ、ナンシーさん。が、唐突に聞いてくる。


Busca en otra parte.他をあたってください


 ぼくはそう答えました。

 ……おや、親父さんが何かを持って奥に行くようですね。あれは「ジグソーパズル」ですか。パリに出張に行った時に、枢機卿の部屋に飾ってあったのを見ました。確かあれは2000ピースの大きな絵画のような大きさでしたね。

 こっそりついて行って見る事にしました。親父さんがテーブルにパズルを置いて、ピースを脇にやる。ふむ……。ピースは1000、完成までに約45分くらいを所要しそうですね。完成品はおそらくかの有名なフェルメール作の絵画「牛乳を注ぐ女」を模したモノでしょう。パチモン臭がハンパない。マジパネェですね。

 ん……っ。あぁ、これ。


「1ピース足りませんね」

「……は?」


 親父さんがぼくの存在に気が付いたようで、声が上擦ってるみたいです。驚いて振り向きました。それはいいです。1ピースどこかになくしたのか。まあ、ぼくには関係ないですね。ぼくはラメーンが伸びてしまう事を思い出し、テーブルに戻る。


「なんだがや……?」

「Oye, contrata un seguro.おい、保険入れよ


 そんな声が聞こえてきたような聞こえてないような。とりあえず、ぼくは目の前の論文を読み進めていきました。

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