五幕・黄泉国の軍勢

 遠雷が聞こえる木造アパートの室内。

 花廻り屋八雲さんは笑顔で、僕にムチャ振りをしてきた。


「ちょっと小泉くん。そこの窓の雨戸を開けてくださいまし。できるでございましょう?」

「八雲さんのほうが窓に近いんですから、八雲さんがやるべきだと思います」

「……お寸志は、無しでよろしいでございますか」

「すぐに、すぐに雨戸をお開けいたします」


 僕は恐る恐る雨戸を開ける。外を覗くと雷雲が立ち込めていた。まだ雨は降っていないようだ。雨でも降れば、黄泉国から漂う悪臭も少しは弱まるかもしれないのだが……。


 雷光で視界が一瞬白く染まった。

 遠雷が鳴った。

 世界が揺れる。

 木造アパートの室内の家具が、地響きに合わせてカタカタと音を立てる。それだけで、肝が縮む思いだ。

 木造アパートの二階くらいまで軽く背が届くくらい巨大なヨモツシコメたちが、住宅街をゆっくりと歩きこちらに向かって来ているようだ。

 巨大なヨモツシコメどもの身体の一部分は、蟲や軟体生物、畜生のように変態しており、存在しているだけで生者の気を憂鬱にしてくる。例外なく気分が悪くなるような造形だった。

 嫌悪感で鳥肌が立つ。

 統率する個体がいるのだろう。勝手気ままに歩いているというよりは、僕たちの潜んでいる木造アパートを目指して、進軍していると考えて間違いはない。

 あの集団は統率の取れた軍勢だ。黄泉国の誇る、死なない、殺せない無敵の軍隊だ。 

 巨大なヨモツシコメどもは、あてどなく黄泉比良坂をウロウロしている普通サイズのヨモツシコメを片手で捕まえると、頭からがぶりと汚らしく食った。

 臓物が飛び散り、その臓物に惹かれるようにヨモツシコメが際限なく集まってくる。


「……仲間を食べている。共食い……なのか?」

「取り込んでいるんだ……仲間を食べれば食べるほど、穢れが増している」


 いつの間にか隣で外を覗いていた真田くんがポツリと呟いた。僕は左目で視た情報を真田くんに伝えた。

 ヨモツシコメがヨモツシコメを食うたびに、食ったほうの穢れが増す。

 穢れが増すたびに、細胞分裂でもするような感じで、ますます奇妙な化け物に変態する。

 あんな化け物たち見たことがない。もしかして、黄泉国の最深部、妣の御殿を守る妣直属のヨモツシコメなのだろうか?


「八雲さん。……あれが妣の近衛ですか?」


 花廻り屋八雲さんに尋ねると、花廻り屋八雲さんは楽しそうに微笑み頷いた。

 なんでそんなに楽しそうなのだろうか? いやいや、そんなことよりアレが妣に見いだされた死者の末路なのだと思うと憂鬱な気分になる。


「外の化け物は何匹? ……いるのでしょうか?」


 真田くんと一緒に外を覗いていた、さくらさんが尋ねてきた。


「……いっぱい、としか言いようがない」


 僕が間抜けな回答を返した瞬間、近くに雷が落ちたようだ。

 轟音で聴力が、雷光で視力が一瞬だが失われる。


「きゃ!」


 かろうじて、さくらさんが可愛らしい悲鳴が聞こえた。

 落雷の衝撃波で地震でも起きたかのように、木造アパートが揺れる。食器棚のガラスがカタカタと音を立てた。

 遠くで火の手があがる。落雷の影響で火がついたのだろう。木製のアパート群だ、延焼して、最終的にこちらまで火の手が及ぶな。

 ゆっくりしている時間はないようだ。あいつらは、僕たちを火と煙を使いあぶり出そうとしている。

 化け物風情が舐めた真似をしてくれるじゃないか……。


「すごい雷……」

「妣が来たんだよ」

「妣?」

「黄泉の国の女主人さ。とにかく妣は執念深いというか、嫉妬深いから気を付けて。付き合ったら勝手に手紙とか見るタイプだね……。知らんけど」


 場を和まそうと適当なことを口にした。

 さくらさんはパチクリと大きな瞳を瞬かせる。さっき号泣したせいか目元が腫れている。それでも大きく、よく澄んだ瞳だった。そういう無垢な瞳ですべった僕を見ないでほしい。


「妣は、さっきの雷と関係が?」


 真田くんが尋ねる。知的好奇心に満ちた顔だ。

 花廻り屋八雲さんが煙管から紫煙を吐いて答えた。


「体には八柱の雷神が棲みついておりますわ」

「雷神なんて、たいしたものじゃないよ。超巨大な雷雲が近づいている、と思ってくれればいい」


 花廻り屋八雲さんの答えに、僕は追加して、真田くんに言った。


「神様が身体に棲みついているなんて……」


 真田くんは、また外を覗く。妣か雷神を見ようとしているのかもしれない。あんなの見ていて楽しいものじゃないのに、彼は本当に好奇心旺盛だ。

 学者とかになったら、その分野で何らかの功績を挙げそうなひとかどの人物なのかもしれない。

 雷の様子からして、まだまだ妣とは距離がありそうだ。


 僕はすべての決定権を持つ上司、花廻り屋八雲さんへ視線を向ける。

 花廻り屋八雲さんは、ことここに至っても一切動じておらず、むしろ口元を笑みで歪めている。余裕が見て取れる態度だ。

 ここで花廻り屋八雲さんが慌てふためいたら、僕はきっと絶望感に飲み込まれてしまうだろう。嫌な自信がある。

 でも、慌てふためく花廻り屋八雲さんという図を見てみたいという欲求はある。どんな風に慌てるのだろうか? 想像がつかない。

 花廻り屋八雲さんは、例え、この星が滅びる数秒前であっても、余裕綽々で煙管をふかしているだろう。そんなイメージしかわかない。決して慌てそうにないのだ。


「あ、あの……」


 さくらさんが手をあげた。花廻り屋八雲さんがチラリと、さくらさんの方を見る。僕と真田くんもさくらさんへ視線を向けた。


「その、妣というのが追っているのは……ボクですよね?」

「クフフフ」


 花廻り屋八雲さんは、愉快そうに口角を吊り上げる。僕と真田くんは顔を見合わせた。さくらさんが何故そんな質問をしたのかが、分からなかったからだ。

 当然、花廻り屋八雲さんが懇切丁寧に解説してくれるわけもなく、僕は可能性の話を口にする。


「さくらさんの言うとおり、君を追ってきたのかもしれない……。でも、さくらさんみたいな小娘一人を追うために、わざわざあの規模の軍勢を編成する必要があるのかという疑問はある。黄泉国の最高戦力たる軍勢を妣が率いて、親征して来るなんて前代未聞だ。信じられない」

「さくらには、それだけの価値があるのではないでしょうか? 可愛いく、愛らしいですから」

 

 真田くんは、結構マジな表情だ。否定しても肯定しても、面倒くさそうなので、無視をすることにした。


「前代未聞ではございませんわ」


 花廻り屋八雲さんは、歌うように答える。

 僕は花廻り屋八雲さんへ視線を向けるが、笑うだけで答えはくれそうにない。自分で思い出せと言いたいのだろう。

 さくらさんが小さく咳払いをした。一同の視線がさくらさんへ集中する。


「ボクは黄泉国へ帰ります! そうすれば丸く収まるはずです」


 さくらさんは、ふんすと鼻息を荒く宣言した。僕と真田くんは変な声を上げ、花廻り屋八雲さんは、可愛らしく小首を傾けた。


「何ゆえでございますか?」

「ボクが黄泉国へ帰れば、秋兄さんたちは、安全に現世へ帰れるのですよね? だったら、ボクは黄泉国へ帰ります」


 さくらさんは笑顔で、花廻り屋八雲さんの問いに答えた。

 あの笑みだ……。

 黄泉国で眠る真田くんの胸を撫でたときにみせた笑みと同じだ。僕の狭い人間関係では、とても表現することができない、不気味な笑み。

 僕には理解できない笑顔。

 僕は背中に氷でも入れられたかのような、薄気味悪い感じに襲われる。


「ボクの心臓が移植されて秋兄さんが生きているってわかったし、それでボクはもう満足なのです。秋兄さんのココには、ボクは生きているから、いいのです」


 さくらさんは真田くんの胸に耳を当て、優しく真田くんを抱き寄せた。真田くんの心臓は今、さくらさんの心臓が代わりとなり脈打っている。

 その心音を聞き、さくらさんは満足そうに言った。


「秋兄さんが生きている限り、ボクは常に一緒だよ。えへへへ」

「ダメだ!」


 真田くんは、大声を上げる。僕はその声量に、驚きビクッと震えてしまった。花廻り屋八雲さんはそんな無様な僕を小馬鹿にしたように見物している。


「さくらが、黄泉国へ行くなら、わたしもついて行く」

「もう、わがまま言わないで。秋兄さんが死んでしまったら、ボクの心臓が無駄になっちゃうでしょ?」

「さくらの居ない人生なんて、考えられない。ただ生きるなんてまっぴらごめんだ。それに、あと少し、あと少し、行けばお前は黄泉帰ることができるんだぞ」

「でも、秋兄さんは限界でしょ? 二人死ぬより一人生き延びたほうが良いの」


 ケンカするほど仲が良いとはよく言うが、二人とも相手のことが大切すぎて自分を犠牲にしてしまう傾向がある。

 僕は、余計なことを言わないように我慢していた。下手に場を収めようとして何か言うと確実に、藪蛇になる未来が視えからだ。だが、


「……クフ……クフフフフフ」


 花廻り屋八雲さんは、我慢の限界だったようで、ついに噴き出してしまう。

 腹を抱えて笑い出した。まさに大笑いだ。

 笑いすぎて目に涙を浮かべ、ついにむせはじめて苦しそうに喘(あえ)ぐ。お笑い芸人のお笑いを見ても、クスリとも笑わないくせに、ただの口論を見ていて大笑するとかいい性格をしているよ。


「な、なに笑っているのですか?」


 さくらさんが、笑い出した花廻り屋八雲さんに少し苛立たし気に尋ねた。


「いやいや。お嬢様は愉快でございますなぁ。ここまで笑ったのは久方ぶりでございます。クフフフ」

「ボクは真面目に考えています!」

「残念ながらお代はすでにお嬢様からも、いただいているのでございます。ゆえに、もう黄泉国へは、飽きるまでお返ししませんわ」

「え?」


 花廻り屋八雲さんは言うと、すくっと立ち上がった。


「拒否権はございませんわ」


 花廻り屋八雲さんは、手を叩く。この話は、これでおしまいのようだ。


「帰りましょうか。お嬢様を連れて、月夜野古書店へ」

「花廻り屋さん……あの化け物たちはどうするおつもりですか? 秋兄さんの体調を考えれば、走ったりすることはとても認められません。歩くのだって正直嫌です。下手をしたら心臓が裂けて本当に死んでしまいます」


 確かに、真田くんをこれ以上活動させるというのは現実的ではない。

 さくらさんの目が据わり、黒く濁り始めた。

 真田くんに降りかかる害悪をすべて振り払おうとするような、気迫がある。

 花廻り屋八雲さんを前に、その気迫を出すことが出来るのは、本当に度胸があるなと思った。


「小泉くん」

「あ、真田くんをおんぶしろということですか? 任せてください!」

「違いますわ」

「えっと……では? 月夜野古書店へ逃げ帰るんですよね?」

「逃げる? そんなこと嫌でございますわ」

「嫌でございますわって、じゃあ妣を相手に戦うんですか?」


 花廻り屋八雲さんは、ようやく納得できる答えが出たとばかりに頷いた。


「無理ですよ!」


 僕は即座に否定した。

 できるはずがない。さすがに無理だ。あんな軍勢を相手に一戦するなんて、普通に考えて無理に決まっている! 悪くて全滅だ。良くて僕が死んでしまう。


「何故でございますか?」


 花廻り屋八雲さんは、不思議そうに首を傾げた。銀髪が揺れる。

 本当に不思議そうな顔をしているので、もしかしたら花廻り屋八雲さんには秘策があり、勝つ算段があるのではないかと考えた。

 いや、でも……。

 花廻り屋八雲さんは嘘をつかない。

 だけど、花廻り屋八雲さんが何を考えているのか、僕にはわからない。

 助けを求めて真田くんとさくらさんの方を見ると、二人も期待のこもった視線を向けている。助け舟を出してくれる気配はなさそうだ。

 真田くんあたりは助け舟を出してほしいという、僕の真意を察してそうだが、あえて黙っている可能性が否定できない。


「……八雲さん。あの軍勢の中に丸腰で飛び込むのはさすがに度胸がいります……。持って来たナイフも失くしてしまいましたし」

「我が儘でございますなぁ、小泉くんは」

「えぇ……」

「ですが、まぁ……そうでございますなぁ」


 花廻り屋八雲さんは自身の着物の襟(えり)を掴むと少し緩め、開いた。花廻り屋八雲さんの白い胸の谷間があらわになる。

 ジッと凝視してしまいそうな誘惑に耐えて、僕は花廻り屋八雲さんの胸から、顔を逸らす。真田くんはさくらさんが目隠ししていた。


「特別に刀を貸してあげますわ」


 花廻り屋八雲さんの豊な胸の谷間には、一振りの短刀が挟まっていたのだ。それを抜き取ると僕に放ってよこす。


「なんで、胸に挟んでいるんですか……」


 ほんのりと温かい……。あと、いい匂いもする。


「気持ち悪いですわ……」

「心を読まないでください!」

「クフフフ。では、胸ではなく、その短刀を鑑定してみてくださいませ」

「あ、はい」


 花廻り屋八雲さんは着物の襟をただしながら、いたずらっ子っぽく言った。嫌な性格をしている。

 僕は思考を切り替えて、花廻り屋八雲さんから渡された短刀の拵えをよくよく見る。

 柄には紫檀が貼り合されていた。鞘尻には唐草模様の籐が巻かれており、竹の輪違いの紋があしらわれている。

「ふむ……」

 短刀を鞘から抜く。刀身は六寸五分(約二十センチ)くらいだろうか?

 花廻り屋八雲さんに尋ねた。


「これって、最近作刀されたものじゃないですよね。古刀……か? うん、古刀だな。それに、使用された形跡がありますね」

「それは『I』という名でございます」

「うぇ? それってもしかして、S氏が作刀して、M氏の九男坊が自刃したときに使ったものじゃないですか! なんでそんな短刀を持っているんですか! これはこの世から散逸したものですよ!」

「クフフフ。及第点でございますかね」


 花廻り屋八雲さんは、柔らかな笑みを浮かべ、答えた。

 真田くんが僕に尋ねる。


「それって、そんなに凄い刀なんですか?」

「うん。『I』は失われた名刀と言われているんだ……」


 なんでそんなものを胸に挟んでいるんだ、花廻り屋八雲さん……。

 僕は短刀を鞘に納める。僕が持って来たナイフなんかより心強い。柄を握れば手に吸い付いてくるような錯覚を覚えた。

 花廻り屋八雲さんは、煙管を吸い、桃の香りがする不思議な香りの紫煙を、真田くんに吹き付ける。僕の濁った左目が、紫煙にまぎれた魔法の力をとらえた。


「な、なんですか!?」


 いきなり、紫煙を吹きかけられたのが不愉快だったのか、真田くんが抗議する。花廻り屋八雲さんは、一切動じず答えた。


「可笑しかったので、特別にご奉仕させていただきましたわ。胸の痛みはどうでございますか?」

「え、あれ? 傷が痛くない……体も軽い気がする」

「え? な、なんで? そんなことありえないのに……」


 さくらさんは、驚嘆の声を漏らした。

 顔色がすっかり良くなった真田くん。その顔からは一切の死相が消え去り、温和だけど凛々しいい、表情をしている。

 自身の修めた現代医学が否定されたのだ、さくらさんだって驚嘆の声の一つや二つ、上げたくもなる。


「クフフフ。よかったでございますね」


 花廻り屋八雲さんは、妖艶に微笑むと、僕を見た。


「さて、行きましょうか」

「……うぇ」


 僕は変な声が漏れた。戦いを避けるという道が、花廻り屋八雲さんによってじわじわと塞がれていく。


「さくらは大丈夫です。わたしが守りますから、存分にやってください!」


 真田くんは、さくらさんを抱き寄せて言った。さくらさんの頬が赤く染まる。


「ボ、ボクも秋兄さんを守ります!」


 ……真田くんもさくらさんもやる気満々といった感じだ。

 やる気を出さんでいいのに。


「怖いなら一人で逃げても構いませんよぉ、臆病者の小泉くん」


 花廻り屋八雲さんが、僕を小馬鹿にしたようにして訊いてくる。


「はぁ? 別に怖くありませんし。それに僕は臆病者ではありませんよ!」


 僕はムッとして答えた。花廻り屋八雲さんは「クフフフ」と口角を吊り上げる。

 真田くんとさくらさんがクスリと笑う。


「やったろうじゃないですか! いいですか、八雲さん。僕はやれる男なんですよ!」

 

 上手くのせられてしまった気がするが、別に怖くないし。



 ズズズ……と木造アパートが揺れる。カタカタと食器棚に入っている食器が音を立て、いくつかが床に落ちて甲高い音を立て割れた。

 花廻り屋八雲さんは平然と立っているが、真田くんとさくらさんは、揺れに耐え切れずに床に這いつくばる。


「な、なんだ? 地震?」


 真田くんが声を上げた。

 地震にしては揺れ方がおかしい。

 僕は窓から外を覗くと、逆に木造アパートの中を覗こうとしていた、ヨモツシコメのトンボのような複眼(ふくがん)のいくつかと目があった。

 とりあえず、苦笑いを顔に貼り付けてみる。


「■■■■■!」


 笑って誤魔化せる相手でも無いようで、ヨモツシコメは大声を上げる。鼓膜が破れるかと思うほどの大声だ。

 その後、肌にまとわりつく小虫を払うがごとく、高速で巨大な手を振った。

 暴風が木造アパートの室内を襲う。身体の小さいさくらさんなどは、暴風に吹き飛ばされてしまった。真田くんがクッションの代わりになったようで、無事のようだが。

 窓ガラスが割れ、破片が壁に突き刺さる。家具類は無残に倒壊していった。ちゃぶ台もバラバラだ。

 僕にはヨモツシコメの身体から流れ出る体液が服にかかり、非常に気分が滅入る。


「みんな、大丈夫か?」


 家具の残骸から顔を出して、真田くんとさくらさんは「なんとか」と力なく答えた。

 花廻り屋八雲さんの周りだけ、風が避けたのか被害が一切ないのは気に食わない。


「小泉くん、それを早く始末してくださいまし」

「わかりました!」


 暴風が直撃して、すっかり原型をとどめていない窓から外に躍り出ると、巨大なヨモツシコメの脛へ、全力の一撃をお見舞いする。ゴムタイヤを全力で殴ったときのような感触だ。

 脛はM氏の九男坊に仕えた人物の弱点だ。二足歩行をしている者の泣き所。ヨモツシコメは巨大な悲鳴を上げて、うずくまる。僕は小賢しくヨモツシコメの足の裏に移動して、花廻り屋八雲さんから借りた小刀でアキレス腱を切り裂いてやった。

 一匹を行動不能にしても、黄泉国の軍勢には大した打撃にはならないようで、もぐら叩きでもするように、他のヨモツシコメが僕を叩き潰そうと手を振り上げる。

 ヨモツシコメの中には、二本以上の手を持っている個体も存在する。つまり、ものすごい量の手が僕を潰すために降ってくる。


「八雲さん! ちょ、八雲さん!」

「仕方のない男」


 泡を食って花廻り屋八雲さんにヘルプの声を上げる。

 花廻り屋八雲さんは、木造アパートの窓から、上品に外へ出ると煙管を優雅に吸い、紫煙を吐いた。桃の香りの紫煙だ。

 ヨモツシコメの汗や皮脂から発生する腐敗臭を打ち消すその紫煙の匂いにより、ヨモツシコメは顔をしかめた。鼻などが巨大に変態した個体には効果があり、そのような個体は口から泡を吹いて昏倒(こんとう)する。

 しかし、一般のヨモツシコメとは違い、花廻り屋八雲さんの桃の香りの紫煙で昏倒する個体は多くなかった。

 さすがは、妣の近衛だ。嫌になっちゃうよ。


「ここまで大きいと、効果がありませんね!」

「クフフフ。これは挨拶代わりでございます」


 花廻り屋八雲さんは余裕たっぷりに答えると目を閉じた。ゆっくりとした動作で体の前で手を合わせ、呪文を唱える。


「……急急如律令」


 呪文の一部は、ヨモツシコメとの戦闘でよく聞こえなかったが、最後のほうだけ聞こえた。

 僕は、跳ねまわり攻撃を避けながら、ヨモツシコメの足や腕の腱を適切に切り裂いていく。それでも、一匹につき蟲のように何本も手足があるので、焼け石に水だった。

 しかし、僕への攻撃の手数は少なくなっている気がする。

 それはそうか。

 一見すると無防備なか弱い女性である花廻り屋八雲さんと、小刀を持ち小賢しく逃げまわり、たまに反撃する僕。

 馬鹿なヨモツシコメはどちらを攻撃するだろうか?

 どんなに馬鹿な個体だって、反撃してくる小賢しい僕よりも、無防備な花廻り屋八雲さんへ攻撃したほうがいいという考えに至ったようだな。

 僕への攻撃の手が少なくなり、花廻り屋八雲さんにヨモツシコメが向かっていくのが見えた。

 花廻り屋八雲さんは手を合わせたまま、加虐的な笑みを浮かべる。

 度胸のある、あるいは命知らずのヨモツシコメが、花廻り屋八雲さんへ手を伸ばす。

 花廻り屋八雲さんは余裕綽々だったけど、あまりにも無防備過ぎて「八雲さん!」と僕は声を上げてしまった。


「小泉くんは、足下の心配をしてくださいまし」


 僕の心配なんてどこ吹く風、花廻り屋八雲さんは自身を握りつぶそうと伸ばされた、ヨモツシコメの腕へ視線を向けながら、穏やかに答える。

 足下? 

 僕は地面の膨らみに足を取られ、転びそうになった。間一髪のところで転ばずに済んだが、僕が足を取られた場所には、ヨモツシコメの手が叩きつけられていた。


「■■■!」


 ヨモツシコメは悲鳴を上げて、地面に叩きつけた手を引っ込める。

 その手には小さい、まるで針で刺されたかのような小さな傷跡があり、傷跡から体液がボタボタと溢れていた。

 な、なんだ? 何が起こった? 

 舗装されたアスファルトの道路が、あちらこちらで小さく隆起し始めていた。花廻り屋八雲さんを中心とし、道路のアスファルトがめくれ上がり、あるものが顔を出す。


「た、タケノコだ!」


 倒壊しかかっている木造アパートの中から、真田くんが顔を出して叫んだ。僕は視線を足下へ移す。アスファルトの道路の下から、確かにタケノコが生えだしのだ。


「タケノコがすごい勢いで、あちらこちらから顔を出していますよ!」


 そうか、僕はさっきタケノコに足を取られたのか! そして、タケノコがヨモツシコメの手に刺さったのか? マジかよ。

 顔を出し始めたタケノコが足裏に刺さったのか、花廻り屋八雲さんに手をのばしたヨモツシコメは、悶絶して転がった。タケノコはそこら中から顔を出しているので、針の山の上で悶絶しているのと同じだ。

 ヨモツシコメの身体には小さな穴が開き、体液を噴水のように、まき散らす。


「クフフフ」


 花廻り屋八雲さんは心底楽しそうに笑った。針の山のヨモツシコメが面白かったのだろう。

 タケノコが身体に刺さらなかったヨモツシコメは、仲間を助けるよりも、タケノコを貪り食うことに集中し始めたようだ。

 僕たちなど一切無視してタケノコを我先にと口に放り込み始めた。


「すげぇ……タケノコに夢中だ。なんだこれ……」


 アホみたいな光景に僕は思わず声を漏らした。なんとも、平和な光景だ。

 いくら統率がとれる妣直属の近衛といっても、所詮は馬鹿なヨモツシコメ。近衛レベルでも食欲には勝てなかったようだ。


「おまけでございますわ」


 花廻り屋八雲さんは呟くと、タケノコを貪り食っているヨモツシコメどものほうを見て、煙管を軽く振った。


「何をしたんですか?」

「見ればわかりますわ」


 まるでオーケストラの指揮者のような美しく流れる動きで、そのエゲツナイ行為の引き金はあっさりと引かれる。


「■■■■■■?」

「■■■■!」

「■■■■■■■■!」


 タケノコを喰らっていたヨモツシコメどもは異変に気がついたのか、もはや言語にならない、動物の鳴き声のような声をけたたましく上げる。

 一匹が膝をつき、腹を押さえて呻(うめ)だす。

 様子からして腹に何かがあたったようだ。

 僕は左目で、腹を押さえるヨモツシコメを視た。奴らの腹の中では、タケノコが変化を起こしているのが視えた。


「根っこをはり始めた……」


 僕が呟いたと同時くらいだ。

 ヨモツシコメの腹が異常に膨れあがると、ついにはメリメリという肉が裂ける音がして、小さな樹木が、腹を突き破り体液をまき散らしながらあらわれた。

 僕の左目で視る限り、その樹木はヨモツシコメの肉体に根を張り巡らせていた。

 樹木は、あっという間に一本の大きな葡萄(ぶどう)の木に成長する。

 ヨモツシコメは葡萄の木を抜こうとするが、根が内臓に張り巡らされているので、葡萄の木を抜くと腹が破れ内臓があふれ出し、昏倒する。

 内臓が身体の外に出ても、死ぬことができず、ぴくぴくと痙攣するしかないヨモツシコメは、畜生のような鳴き声を上げていた。

 葡萄の木がヨモツシコメの身体を苗床にして成木となり、葡萄がなりはじめる。丸々と肥えた粒の大きな葡萄だった。

 葡萄特融の芳醇な香りが鼻をくすぐるが、正直、僕は食べたいとは思わない。


「しばらくの間、葡萄が食べられなくなりそうだ……」


 けれど、ヨモツシコメには葡萄はご馳走に見えたのだろう。

 我先にと葡萄の苗床になっているヨモツシコメへ群がり始めた。

 葡萄が食べたいために、葡萄の苗床になったヨモツシコメが逃げられないように数匹で押さえつけ、葡萄を奪い合い、ついには葡萄を独占したい奴らが仲間を喰らい始めた。

 化け物どもの、その醜い有様を見物して、花廻り屋八雲さんは楽しそうに手を叩き笑う。


「な、なんて光景だ……」


 僕は思わず呟いてしまった。平和な光景から一転して、あまりにも地獄絵図という言葉が似合う光景になってしまった。

 僕はいつの間にか隣に立っていた花廻り屋八雲さんに尋ねる。


「これも魔法の一種ですか? 八雲さん」


 花廻り屋八雲さんは、こともなげに魔法を使う。

『魔法』というと嫌な顔をされるが、あいにくと僕の少ない語彙力と知識では、花廻り屋八雲さんの使う術は『魔法』としか表現できない。


「さぁ、どうでございましょうねぇ?」


 花廻り屋八雲さんは、答えをはぐらかすと煙管を咥える。

 違うと言っても、タケノコを食うと、腹を裂き葡萄の木が現れるなんて、魔法としか言いようがない……夢も希望もない魔法だけど。

 僕は息を呑み、ヨモツシコメどもの醜い争いを見守った。

 その時、逃げ惑っていた葡萄の木が腹から生えたヨモツシコメに雷が落ちた。火花が上がり、衝撃波で僕はひっくり返る。


「おやぁ? 随分と早いおつきでございますなぁ」


 花廻り屋八雲さんは、クフフフと笑った。

 空が黒雲で埋まり黄泉国の中のようだ。雷鳴のせいで鼓膜がおかしくなる。ときより青白く世界が輝く。

 ……妣が来た。

 ヨモツシコメたちは、根源的な恐怖心からか、乱れていた統率が戻る。

 葡萄の木が生えた個体以外は、僕たちのほうへ向き直るが、そこかしこに生えたタケノコが邪魔をして前進することができないでいた。


「八雲さん、どうします?」


 僕は小刀を抜いたまま、ヨモツシコメと花廻り屋八雲さんの間に立ち尋ねる。


「■■■■!」

「■■■■■■■■!」


 妣が何やら言葉を発する。ヨモツシコメも声を上げた。畜生どもが鳴いているようで、僕には何を言っているのかがわからなかった。


「小泉くん、行きますわよ」

「行くって、どこへ?」


 花廻り屋八雲さんは、煙管で妣をさした。


「え?」


 僕の間抜けた返事に、ニコリとほほ笑み、花廻り屋八雲さんはまっすぐに妣のもとへ向かって歩いて行く。僕は慌てて花廻り屋八雲さんの後をついて行った。

 あまりにも堂々とした花廻り屋八雲さんの歩みに、馬鹿なヨモツシコメも何かを感じたのか、道を開ける。

 それが気に入らなかったのか、道を開けたヨモツシコメにはことごとく妣からのお仕置きとして、雷が落ちた。

 前門の花廻り屋八雲さん、後門の妣により逃げ場を失ったヨモツシコメは、子供のように頭を抱えてガタガタとみっともなく震え命乞いなのか、何やら叫んでいる。

 そんなヨモツシコメの中へ気まぐれに雷が落ち、黒焦げになる個体がいる。

 それでも死なない、いや死ねないヨモツシコメは可哀想だと思う。


「花ぁ廻り屋あああああああああああああ!」


 妣の地獄の底から響くような、恐ろしく、人を不快にする不協和音。

 油断をしたら、泡をふいて気を失いそうだ。

 僕は手汗をびっしょりとかいていた。


「ご無沙汰しておりますわ。相変わらず、不細工でございますなぁ。クフフフ」


 花廻り屋八雲さんは、煽らないでいいのに、わざと妣を煽る。


「八雲さん!」


 僕は思わず咎めるように口を挟む。

 でも、花廻り屋八雲さんは僕を見て微笑む。そんないい笑顔が欲しいわけではない。

 妣は僕なんて気にした様子はなかった。

 僕は手汗を服で拭い、妣へ視線を向ける。

 妣の背の高さは花廻り屋八雲さんと同じくらいだ。巨大なヨモツシコメの群れの中にいるから、とても小柄に感じるが、背があまり高くない僕より少し高いくらい。

 手には鉾を持ち、びちゃびちゃと体液を垂らしながら、花廻り屋八雲さんの少し前に立った。

 存在するだけで空気を一変させる禍々しさだ。

 ボロボロに焼け焦げ、裂けた豪奢な着物の隙間からは、妣の肌が見える。肌は大火傷を負った人間のようにケロイド状になっており、そこには蛆が這っている。

 特に火傷が酷い場所には帯電しており青白い稲妻が走っていた。黒く伸び放題の髪の毛も燃えたようにチリチリにねじれている。

 妣が近づくにつれて、動物の焼ける嫌な、本能的に忌避する臭いが漂い始める。黄泉国の臭いに慣れていたつもりの僕も思わず鼻を覆ってしまった。


「しばらく見ない間に、頭が高くなりましたわねぇ?」


 花廻り屋八雲さんは「クフフフ」と笑う。


「■■■■■■■■!」


 妣が怒りに任せて怒鳴るが、僕にとっては畜生のような声で鳴いたふうにしか聞こえない。僕は花廻り屋八雲さんと妣の間に立った。僕が護衛したって、薄い和紙一枚程度の意味しかないが、ないよりはマシだろう。


「言葉もお忘れになりましたか?」


 花廻り屋八雲さんは、心底哀れそうに妣に尋ねた。

 妣はギリリと奥歯を噛みしめる。数度呼吸をした後、


「憎き……我が子を返せ」


 と妣は静かに口にする。

 しかし、口調とは反対に腸が煮えくり返っているのか、ケロイド状に焦げた腹をボリボリとかきむしっていた。

 腹から黒炭のような皮膚と体液、そこに巣くう蛆虫が数匹地面に落ちる。

 僕は無意識に一歩後退していた。

 喉が渇く。


「憎き我が子? お嬢様のことでございますか?」


 倒壊しかかっている木造アパートの窓から顔を出しているさくらさんを煙管でさして、花廻り屋八雲さんは妣に尋ねた。

 妣は口から腐った液体が飛び散る。歯が抜けてポロリと落ちた。

 どうやら、正解のようだ。


「いやでございます。あれは、わたくしのものです」


 花廻り屋八雲さんは答えた。


「八雲さんのものじゃありませんよ……」


 僕は思わずした。花廻り屋八雲さんは「クフフフ」と笑う。

 その答えが気に入らなかったのか、八つ当たりとしてか、哀れなヨモツシコメの下へ雷が落ちた。

 ちらりと空を見上げると、太鼓を背負った雷神が、帯電し青白く輝く雷雲に乗ってふわふわと空を舞っている。


「御前様には、お子様はいっぱいいるではございませんか。ただの人間の子一人くらい、くれたって良いではありませんか? 吝嗇家は嫌われますわよ」

 今まで数人は黄泉国から連れ出しているので、花廻り屋八雲さんの発言は暴論だと思ったが、ここは黙っておこう。面倒くさくなる予感がする。

 僕に妣の意識を向けるのは、あまりよろしくない気がする。


「妾は、憎き我が子に■■■■用がある! 返すのだ! ■■■■!」

 

 妣は、時折獣のような声を上げつつ、怒鳴る。

 腹が立つと言葉を忘れてしまうのだろうか?

 妣は、さくらさんを指さした。


「なぜだ! さくらは、お前にはやらん」


 真田くんが怒鳴り、さくらさんを抱き寄せる。

 妣は心底不愉快そうに顔を歪める。どんどんと鉾の石突(いしづき)で地面を何度も叩く。叩くたびに腕の傷跡から体液が飛び跳ねて、僕の顔にかかり不愉快だ。

 真田くんの一言がよほど癪にさわったのだろう。


「■■■■。憎い! ■■! 憎い!」


 妣が喚く。

 妣の怒りに呼応して空を舞う、八柱の雷神どもが雷太鼓をドンドコ叩き始めると、四方八方に雷が降り注いだ。ヨモツシコメが畜生のような鳴き声を上げる。

 あまりにも雷鳴が酷すぎて、あまりにも雷光が凄すぎて、僕の視覚と聴覚が少し途切れた。


「……妾はすべてを失ったのに、憎き我が子は失わなかった。憎い! 憎い! 憎い!」

「まぁ、よいざまでございますわね、クソガキのようで」


 妣から、ギリっと奥歯が砕ける音がした。

 妣は顔をかきむしり、ボロボロの肌が崩れ落ち、骨が見え、体液がしたたり落ちる。まるで体液が涙のように見えた。


「貴様なら知っているだろう? 妾の憎む気持ちが! 花廻り屋■■!」


 怒りの矛先が花廻り屋八雲さんに向く。

 しかし、花廻り屋八雲さんは意に返さず、「クフフフ」と心底楽しそうに笑った。


「お嬢様、おいでませ」

「は、はい」


 さくらさんがやってくる。真田くんもついてきた。

 死んだ魚のように虚ろで何がうつっているか分からない瞳で、妣は真田くんを凝視している。ひと時も真田くんから視線を逸らさない。

 真田くんも視線に気がついているようで、ジッと妣を見かえしていた。


「花廻り屋さん。教えてください。さくらに固執する理由を」


 真田くんが、花廻り屋八雲さんに尋ねる。

 花廻り屋八雲さんは真田くんをチラリと見て、つまらなさそうに笑った。


「クフフフ。どうしましょうかしら?」


 妣へ花廻り屋八雲さんは訊く。

 妣は真田くんへ視線を向けたまま頷く。

 花廻り屋八雲さんは、了解を得たということで、妣がさくらさんに固執した理由を口にした。


「この方の愛した相手も、お嬢様と同様に実の兄だったのでございます」


 さくらさんと真田くんは、「え」と驚きの声を漏らした。花廻り屋八雲さんは二人の驚いた顔を見て、口角を吊り上げた。


「さくらさんと真田くんの関係とそっくりだ」


 僕は呟いた。


「そうでございます。そうでございます。本当にそっくりでございます」


 花廻り屋八雲さんは、懐かしむように話を続けた。


「兄とこの方は、愛を育み、子を多くもうけました。しかし、最後のお子さんをお産みになったときに、とある事故が起き、この方は大火傷を負い亡くなったのでございます」


 さくらさんは小さな悲鳴のような声を上げて妣を見た。同情とか憐憫(れんびん)の念みたいなのが混じった視線だ。さくらさん自身の境遇と妣が重なり、同情したのかもしれない。

 その視線が気に入らなかったのか、妣は鉾の石突きで地面を叩く。

 僕と真田くんは黙ったまま、花廻り屋八雲さんの思い出話の続きを待つ。


「突然の別れに嘆き悲しんだ兄は、ちょうどあなた様のように、黄泉帰りの儀式を執り行うように、頼んできましたわ」


 花廻り屋八雲さんは、煙管で真田くんをさした。真田くんは息を呑む。


「それで、黄泉帰りの儀式は……」

「失敗いたしました」


 花廻り屋八雲さんは、こともなげに答えた。

 僕は妣を見た。

 妣は落ち窪んだ眼窩(がんか)を指で掻きむしると、体液が溢れ涙のように流れ落ちる。体液を拭うために頬をボリボリと掻きむしる。腐った肉と蛆が剥がれて落ちた。


「黄泉竈食ひをしてしまったわけですね?」


 花廻り屋八雲さんに僕が訊ねる。


「そうでございます。……この方は、黄泉国から帰ると答え、幾日も幾日も、兄を黄泉国の最深部、竈と大鍋の近くにある御殿で待たせたのでございます」


 僕は「ひぇ」と呟いてしまった。

 妣は兄を黄泉国の住人にしようと画策(かくさく)したのではないだろうか? 食事を与えずに監禁したら、黄泉国の大鍋でできた食べ物だって食べてしまうだろう。そこまで考えて嘘をついたのか?

 女という生き物は、本当に怖い。平然と嘘をつく。

 僕の反応が面白かったのか、花廻り屋八雲さんは笑った。


「お前が、■■■■、お前さえ、兄(あに)様(さま)と一緒に来なければ……」


 妣が花廻り屋八雲さんに鉾の切っ先を向けて怒鳴った。口を開いた勢いで、口の端が裂け、体液が溢れる。


「八雲さんは、何をしたんですか?」


 僕はため息交じりに尋ねた。

 花廻り屋八雲さんは「クフフフ」と笑い、答えてくれた。


「待つことに兄が我慢できず、あの方が隠していた姿を覗き見たときに、ただ嘘なく教えたのでございます。……あの穢れた魂では、もう黄泉帰りの儀式は不可能でございます、と」

「……酷い」


 さくらさんが呟いた。花廻り屋八雲さんへ非難がこもった声色だ。

 それは酷いことなのか? 僕は首を傾げる。

 花廻り屋八雲さんは気にした様子はなく、平然としている。 


「お兄さんは、どうしたのでしょうか?」


 真田くんが話の続きを、花廻り屋八雲さんにせがむ。


「クフフフ。此岸へ逃げ帰りました。あのときは今以上の大軍勢に追われていささか難儀いたしましたが、すべて蹴散らしていただきましたわ」

 

 そうか、花廻り屋八雲さんが『前代未聞ではない』と言ったのは、前にも妣と黄泉国の軍勢に追われたことがあったからなのか。無茶しているなぁ。

 それはそれとして、愛した人がこんな化け物になっていたら、悲鳴の一つや二つあげて逃げ帰っても仕方ないだろう。


「本当に愉快でございましたなぁ。お二方とも、本当に本当に良い顔をしてくれましたわ。クフフフ」

「■■■■■■■■!」

 

 喚く妣。花廻り屋八雲さんは、怒り心頭の様子の妣を見て、笑った。

 まるで積み木を積み上げてお城を作り、一思いに壊したときにみせる、うっとりとした光悦(こうえつ)の混じったような笑みだった。


「憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い! その憎き我が子を妾と同じようにする! しなければならない! 妾と兄様と同じようにしなければ気が済まない!」


 妣は喚くと鉾を振り上げた。

 妣が花廻り屋八雲さんに激怒するのもわかるが、なんで、そこに真田くんとさくらさんたちが巻き込まれなければならないのか……。理不尽だ。

 それって完璧な八つ当たりじゃないか。

 僕は小刀を構え、鉾を迎撃するために集中する。

 やる気満々の妣を前に、どちらかが倒れて動かなくなるまで、楽しくない総力戦をするまでか。嫌だなぁ。

 相手は黄泉国の女主人。勝てる気はしないが、花廻り屋八雲さんがいる分、悪い結果にはならないだろうと思う。

 殺伐とした雰囲気を打ち消すように、真田くんが、


「あなたの話はわかった」と言った。


 妣の動きが止まる。また白く濁ったあの死んだ魚のような瞳で真田くんをじっと見つめだした。

 あんな目で見られたら、気持ち悪くてしょうがないのに真田くんは平然としている。


「真田くん……」


 僕は呟く。真田くんは僕の肩をポンと叩き応えた。


「ちょっと話すだけです。大丈夫です」

「話す? あれと……話す?」

「ええ。ちょっと話し合いをします」


 どうやら真田くんは、妣と話し合いをするようだ。

 僕は困惑した。

 妣なんかた話しをして何か意味があるのだろうか? 理性を失い、さくらさんを自身と同じようなめに遭わせるとのたまっている化け物と話し合いをして、意味なんてないと思った。

 結局、なにも解決しないじゃないか。そもそも、あんな化け物と意思疎通なんて、難しいだろ?

 今だって畜生や獣のような声で鳴き喚くだけだし。

 これ以上、普通じゃない化け物の戯言(ざれごと)に付き合うのは無駄な気がするが、真田くんがやりたいというのであれば、止めることはしない。

 彼の言葉を待つことにした。


「あなたの言い分は分かった。しかし、たとえ穢れて腐り果てても、わたしはさくらを見捨てて現世へは逃げないから、あなたの願望は、残念ながら達成されない」


 真田くんの言葉に、花廻り屋八雲さんは口元を歪ませる。

 妣は鉾を振り上げたまま、真田くんを睨(ね)めつける。ものすごい殺気だ。体中に鳥肌がたつような不快感を抱く。

 妣の気に障る一言でも口にしようなら、真田くんなんて鉾で切り裂かれて殺されてしまうだろう。

 しかし、真田くんは平然としていた。マジかよ……。


「あなたがお兄さんを忘れられないように、お兄さんもあなたのことが忘れられていない」

「嘘だ! ■■! そんなことがあるものか!」


 妣は体液を飛ばして喚いた。

 真田くんは、気にした様子はなく、一歩一歩、妣へ歩み寄って行く。

 僕は花廻り屋八雲さんをチラリと見た。花廻り屋八雲さんは真田くんを、ぼうっと見ているだけで、特になにもしようとはしない。

 さくらさんも真田くんの動きを見守っているだけで、何かしようとする様子がみられない。全幅の信頼感を真田くんへ向けている。

 ただただ、僕だけが動けないでいた。


「あなたは、穢れて腐り果てた姿をお兄さんに見せないよう、嘘をついたのですね?」

「…………」


 まさか……そんな思春期の夢見る乙女のような理由で? と僕は訝しんだ。だって相手は黄泉国の女主人である化け物だよ……そんな感情あるはずがない!

 真田くんは妣のもとに歩み寄ると、穢れ果て腐った肌なのか骨なのかわからない肩に、躊躇(ためら)いなくポンと手を乗せた。

 僕は、げぇ、と口から出そうになった声を飲み込む。嫌悪感も表情には出さない。

 妣は振り上げていた鉾を下ろしたが、濃密な殺気は依然として存在する。むしろ、殺気は真田くんへ集中しているのではないだろうか。

 相変わらず僕は動けないでいた。

 殺気の根源に真田くんは到達したのに、彼は動じる気配が一切ない。冷や汗一つかいていない。

 それどころか、おそらく彼は温和な笑顔を浮かべているはずだ。


「あなたが嘘をつき、お兄さんに穢れて腐ってしまったことをちゃんと伝えなかった。だからきっと、あなたの姿を見て、お兄さんは少しだけびっくりしたんだ」

「…………そうだ。嘘をついた。妾は怖かった…………こんなところまで、妾のために来てくれた兄様に嫌われるのが怖かった。この醜くなった姿を見られ、愛想を尽かされるのが怖かったのだ!」


 妣は絶叫し、自身の顔を掻きむしった。バリバリと音を立て、腐った皮膚が飛び散り、体液がダラダラと地面にこぼれ落ちる。

 真田くんはポケットからハンケチを取り出して、妣の顔についた体液を優しく丁寧に拭ってから、言った。


「そうですね。嫌われるのは怖い。わたしもさくらに嫌われるのでは思うだけで、ぞっとする。お腹が痛くなります。でも、だからといって大切な、好きな相手に伝えなくてはいけないことに対して、嘘をつき黙ってやり過ごそうとするのは違うと思います。それは、好きな相手に対して不誠実だ。きっとそれは、もっと嫌われる原因になるんです。一度、ちゃんと正直に話して謝れば、お兄さんもきっとあなたから逃げたことを謝ってくれるし、受け入れてくれる」


 さくらさんは、うんうんと頷く。


「お互い傷つくかもしれない。あなたが自身を痛めつけるときに感じる痛みよりも痛いと思う。でも、傷つかないように我慢すると、心に傷がつく。その傷は、もっともっと痛くなるんだ。膿んだ傷のようにね」

 

 真田くんの言葉を聞き、妣は訝しそうに尋ねた。


「人間……なぜ……そんなことが言える……」

「同じように妹を愛してしまった兄だからねぇ、わたしも」


 真田くんは、「はっはっはっは」と笑う。妣は真田くんにつられたように、顔を歪めた。おそらくは笑ったのだろう。


「……わかった」


 少しの沈黙のあと、妣は花廻り屋八雲さんを見て、呟くように言った。

 さくらさんも「ほ」っとため息を漏らす。

 僕は馬鹿のように、ただただ成り行きを見つめるしかなかった。

 花廻り屋八雲さんは、つまらなさそうに鼻を鳴らす。


「……お願いをいたしたい……」

「お代をいただければ、なんなりと」


 花廻り屋八雲さんは、鷹揚(おうよう)に頭を下げる。

 その仕事をこなすのが、どうせ僕なのだから、「うぇ」と声を漏らしてしまった。


「妾に払えるものは……これしかない……」


 妣は手に持った鉾を地面に投げ捨てる。鉾は不思議な力で宙に浮いていた。

 何かしらと首を傾げると、花廻り屋八雲さんは、僕をチラリと見た。それで僕はようやく、妣が投げ捨てた『鉾』が、花廻り屋八雲さんに妣の払ったモノだと理解した。

 ふわふわと浮いている鉾を恐る恐る拾いあげて、花廻り屋八雲さんに渡す。

 花廻り屋八雲さんは、鉾を受け取らず、僕に尋ねた。


「小泉くん。これを鑑定してくださいまし」

「え?」


 僕は手に持っている、鉾へ視線を落とし、「うぇぇ?」と声を漏らす。


「鑑定をしてくださいまし」


 有無を言わさない声色だ。


「……は、はい……」


 僕は鉾を観察した。


「なんだこれ……鉾にしては、槍のように柄が長いな……」

「小泉さん。槍と鉾って何が違うのですか?」


 真田くんが訊ねてきた。目が好奇心で輝いている。


「槍っていうのは両手で持って相手を突き刺したり叩いたりする武器なんだよ。で、鉾というのは片手に鉾を、もう片手に盾を持って、相手を切り裂くために使う武器なんだ。他にも、刀身を柄へ固定する方法も違うところかなぁ」


 僕は答えながら柄を見た。

 柄は本来は瓊(たま)、つまり、宝玉(ほうぎょく)で飾られていたようだが、今は薄汚くなっている。この鉾は武器というより、祭礼のために使われていた鉾だったということがわかる。

 それにしては、刀身部分がまるで海水にでも漬けたかのように錆びている。あまり手入れをしていなかったようで、状態が極めて悪い。

 まぁ、妣が持っていたわけで、妣が細目(こまめ)に鉾を手入れするイメージがわかない。


「……う~む」


 ただの鉾ではないということは、さすがの僕でもわかる。だって鉾を手から放しても地面に落ちることはなく、空中にぷかぷか浮くのだから。

 普通の鉾ではない……。つまり、なんだこれ? ということだ。


「いかがいたしました?」


 僕の頭がプスプスと煙をあげてきた頃、花廻り屋八雲さんはニヤニヤと笑みを浮かべ、僕を見ている。楽しそうでなによりだ。


「まさか……わからないのでございますか?」


 厭味ったらしい。え、信じられない! という花廻り屋八雲さんの下手くそな演技が余計に腹立つ。

 だからといって、適当な鑑定結果を口にすることもできない。


「や、八雲さんは分かるんですか? これ!」

「もちろん、分かりますわ」

 花廻り屋八雲さんは、嘘をつかない。

「クフフフ。小泉くん、あなた様の美しい左目でよくよく視てくださいまし」

「はぁ? 僕の左目で? 僕の左目は、この世に存在していけないモノだけしか視えませんよ」


 僕は馬鹿にされた気分になるも、不貞腐ることなく花廻り屋八雲さんが言ったとおりに、白く濁った左目で鉾を視た。


「いかがでございますか?」

「普通に鉾が視えますけど……」

「普通に、でございますか」


 花廻り屋八雲さんは、ため息をついた。なぜため息をつかれたのか、僕には分からなかった。

 妣が持っていた部分は穢れていたが、それ以外は、ただの汚らしい鉾だ。


「よろしいですか? 小泉くんの左目で視えたということは、その鉾は此岸に存在しなかったモノなのでございます」

「はぁ……」

「……つまり、人間が作り、人間が用いた鉾ではない、ということでございます」

 花廻り屋八雲さんの言葉を聞き、僕は目を見開いた。


 花廻り屋八雲さんは、できの悪い生徒を前にした教師のように、僕を見ていた。


「も……もしかしてこれって……国生み神話で使われた、神の鉾? 『A』と呼ばれる、あの鉾ですか? いや、でも存在しない架空の鉾ですよね?」

 

 花廻り屋八雲さんは、「そうでございますわ」と答え、わざとらしくため息をついた。

 存在した鉾の中から答えを探そうとしたのが、そもそもの間違いだったのだ。だってこの鉾は、神話の中に存在がぼんやりと記載されているだけの架空の鉾なのだから。


「言われてみれば、『瓊』つまりは、美しい珠で飾られた鉾ですけど……。普通わかりませんよ!」

「『普通』という色眼鏡をお外しなさいませ。小泉くん」

「むぅ」

 花廻り屋八雲さんは鼻で僕を笑う。

「『普通』というものは、この世にはございません。よろしいですか? この世にある『普通』とは十人十色(じゅうにんといろ)に異なるものなのでございます」

 また叱られた……。

 花廻り屋八雲さんは、妣へ視線を向ける。

「お代は受け取りましたわ。それで……何をご所望でございますか?」

「……兄様を連れてこい……ここへ」

「承りました」

 

 花廻り屋八雲さんは、ぷかぷかと浮かぶ鉾を手に取り答えた。

 妣は真田くんに視線を戻す。真田くんも視線を妣へ向けた。


「お前の言が本当かどうか、兄様に訊く。少しでも嘘があれば、お前たち二人の命をもらう」


 妣は真田くんに言った。真田くんはニコリと笑う。さくらさんも頷いた。


「うん。わかった」


 真田くんの返答にひどく毒気が抜けたような顔をした妣は、少しだけ顔を歪ます。きっと笑ったのだろう。妣が踵を返そうとする。どうやら、今日はここまででお開きのようだ。

 僕は安堵のため息をついた。


「では、さっそくお呼びいたしますか?」

「へ?」


 花廻り屋八雲さんの提案に、僕は間抜けな声を上げる。真田くんとさくらさんも、いささか驚いたような顔をする。


「い……今すぐ……だと?」


 あの妣もわずかに動揺しているようだ。一同の間の抜けた顔を一通り楽しそうに見て、花廻り屋八雲さんは満足そうに微笑んだ。

 花廻り屋八雲さんは嘘をつかない。

 だから、すぐにでも妣のお兄さんを、この黄泉比良坂に連れて来ることができるのだろう。

 でも、どうやって?


「いかがいたしますか? また後でにいたしますかぁ?」


 花廻り屋八雲さんが、下から覗き込むようにして妣に尋ねた。また煽るような口調だ。

 まさか今すぐ逢えるとは思っていなかっただろう妣は少し躊躇ったが、意を決したように口を開いた。


「わ、わかった……今すぐ連れてこい」


 妣の答えを聞き、花廻り屋八雲さんは「クフフフ」と笑い、頷いた。


「小泉くん、ちょっとこちらに来てくださいまし」

「あ、はい。なんですか?」


 花廻り屋八雲さんは手招きをする。

 そんなにはなれた場所にいるわけでもないのに、なんで花廻り屋八雲さんは僕を近くまで呼ぶのだろうか? なんて訝しみつつ、花廻り屋八雲さんのもとへ歩を進める。

 僕は花廻り屋八雲さんの近くに立つと、華やかな香りが鼻孔をくすぐる。


「もっとこっちに来てくださいまし」

「はぁ……」


 僕は、言われるがままに、花廻り屋八雲さんへ近づいていく。すると突然、花廻り屋八雲さんは、僕の腰に手を回してぎゅっと抱き寄せた。

 花廻り屋八雲さんの、柔らかな女性的な肉体が僕に押し付けられる。それだけで、僕の頭が沸騰しそうになった。


「え? な? 八雲さん?」


 驚きのあまり、声が裏返ってしまった。


「ちょっと、な、なんですか?」

「クフフフ。初心(うぶ)な反応で可愛いでございますわよ、小泉くん。さっ、お静かに」


 花廻り屋八雲さんは口元を歪めると、僕の唇に口づけをした。軽いキスではなく、

ディープなキスだ。

 頭が沸騰して爆発したのかもしれない。

 あの美しい花廻り屋八雲さんが、僕にキスをしてきたのか?

 え? なんで? なんで、花廻り屋八雲さんが僕にキスをしてきたの? 

 あれ、僕は目をつぶった方がいいのか? キスってどうすればいいんだ? 

 僕は今、ちゃんとキスできているのだろうか?

 キスって、もっとムードとか重視するものじゃないの? 

 それにしても、息の仕方がわからない……。

 色々な思考が数舜の間に脳内を駆け巡る。

 僕には花廻り屋八雲さんからのキスが、あまりにも刺激的すぎだったのだろう。

 キスの途中で僕の意識が途切れてしまったのだった。

 ブラックアウトである。

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