三幕・楽しくない黄泉国

 常夜の国――黄泉国なんてたいした名前。

 だけど実際問題、僕の目の前に広がっている風景は、深夜のバラック小屋群や掘っ建て小屋群である。

 何度来ても物悲しい雰囲気だ。

 有識者っぽい人に「ここが戦前の貧民窟、もしくは終戦直後の都市部です」とか言われても、疑わないだろう。「歴史的に価値のある風景ですね」、なんてコメントを

つけてしまうかもしれない。


 ……花廻り屋八雲さんに馬鹿にされそうだ。


 所々に思い出したように薄暗い電灯が設置されているが、壊れて明かりがついていない電灯も多い。星も月もない暗闇に支配された世界に、この程度の電灯では焼け石に水。逆に不気味さを際立たす効果しかない。


 そして、黄泉国の最深部には大きな竈と鍋がある。竈には常に何かよく分からない物を放り込んで煌々と火が焚かれ、竈の上に乗った大鍋は常に噴きこぼれをおこしており、それが黄泉国の悪臭の原因となっている。


「なんですか? あれ……」


 真田くんの質問に、僕は「竈と大鍋」と答えるしかない。だって、竈と大鍋だから……。


「いや、ちょっとした商業ビルぐらいの大きさがありますよね、あの大鍋」

「あの竈と大鍋の近くに、妣の御殿(ごてん)があるから近寄っちゃダメだよ」

「御殿……ちょっと見てみたい気もありますが、了解です」


 真田くんは頷いた。彼は意外と好奇心が旺盛なのかもしれない。

 僕たちは、花廻り屋八雲さんからもらった手ぬぐいで顔を隠しながら、さくらさんの魂を探し歩く。

 バラック小屋、掘っ建て小屋には隙間があり、路地から小屋の中が覗ける。覗いても楽しい光景が広がっているわけではない。

 黄泉国の住人になった死者が、ヨモツシコメと一緒に悪臭の立つ食べ物を啜(すす)っていたり、生前の習慣や死ぬ間際の瞬間をただ繰り返していたりしている。

 死にたてほやほやの人間の魂が、ヨモツシコメにより追われ、悲鳴を上げて逃げ回っていた。

 元気があってよろしい。

 でも、一週間も二週間も追い回されていると、ついには心が折れて、黄泉竈食ひをしてしまう。そっちのほうが楽だから。

 真田くんと僕は、さくらさんの魂を探す。

 さくらさんの魂があればきちんと連れ帰らなければならないので、住み着いているヨモツシコメに気づかれないよう、バラック小屋や掘っ建て小屋を一軒一軒、覗いていく。

 ヨモツシコメどもは路地も徘徊している。所在なくフラフラ歩いたり、壁に向かってお話しをしてみたり、体に雷雲を巻き付けて常に落雷にあっている黒焦げの女がいたり、まぁ見ていて楽しくない。


「真田くん、大丈夫かい? 君、顔色がヤバいよ」

「はは。そんなことないですよ」


 真田くんは爽やかに笑って誤魔化す。作り笑顔ばかりしている僕からしてみれば、彼の作り笑顔はぎこちない。

 作り笑顔が苦手なのか、それても調子が悪くて、気が回らないのか。おそらくは後者だろう。

 今、真田くんは脂汗をかいて、呼吸をするのも辛そうだ。

 どうしたものか? ここで彼に死なれても面白くない。

 そんなことで悩んでいる真田くんが、


「花廻り屋さんって、いったい何者ですか?」と花廻り屋八雲さんについて尋ねてきた。


 僕は真田くんをどうしたものかという考えから、花廻り屋八雲さんとは何者なのかという質問へ思考を切り替える。


「うーん」と声を漏らし考える。

「花廻り屋さんに関する都市伝説は、月夜野古書店へ向かう途中に色々な人から聞きましたけど……彼女はいったい何者ですか?」

「そうだなぁ。僕が知っている八雲さんの情報はズバリ、胸が大きいってところかな」


 僕が知っている花廻り屋八雲さんについての、とびきりな情報を口にすると、真田くんの顔は露骨に曇る。


「うーん、最低な内容。小泉さんはいつもあの人の胸を見ているのですか? 女性はそういう視線に敏感ですよ」

「マジ?」

「ええ、マジです。それに、わたしが知りたいのは、もっと他のことです」

「他のこと? ああ、八雲さんのお尻が安産型ってこと?」

「違います……わたしはそういうことを聞きたいのでは……」

「さ、真田くんは女性に興味がないのかい!?」

「興味はありますけど、わたしはさくら一筋なので」

「あ、彼女いますアピールですか? いいですよね、美男子の真田くんは! 僕みたいな普通の面白みのないモブ顔の男子が、八雲さんの無駄な誘惑で悶々としているときに、さくらさんと楽しいスクールライフを送っちゃって!」

 

 真田くんは「いやいや、そんなことないですよ」と自身が美男子であることを謙虚に否定した。

 こういうときの謙虚さは害悪以外の何物でもない。


「真田くんはそんなことない、と言うけれど! 君の顔面偏差値が標準なら、僕はいったいなんなんだい? ゴブリンかい? ゴミくずかい?」

「小泉さんは、あれですよ……女性人気が出そうな愛嬌のあるチャーミングな顔をしているじゃないですか。それに人間の価値は顔の造形じゃありませんよ。心の美しさや内面のほうが重要です」

「……愛嬌のあるチャーミングな顔……マジ? え、愛嬌あるかな?」

「本当ですよ、本当。女性人気が出ますよ、たぶん」

「なるほど」


 真田くんは苦笑いしつつ、頷いた。

 女性人気の出る愛嬌のある顔なんだ。

 ふ、ふーん。チャーミング路線で攻めればいいのか。

 彼女ができれば、花廻り屋八雲さんの「彼女ができないのでございますか? ああ、その顔では……」というセクハラとモラハラを華麗にかわすことができるはず。

 そんなことを考えていると、真田くんの胡乱(うろん)気(げ)な視線を感じる。


「……小泉さんは、花廻り屋さんについては教えてくれないんですね」

「まぁねぇ。八雲さんに嫌われたくないし。それに真田くんだって、僕に何か隠しているでしょ? さくらさんを殺したこととか」

「わたしは、さくらを殺していない」

「八雲さんは、因果的には殺したと言っていたじゃん。八雲さんは嘘つかないから」

「えらく、彼女を信用していますね」


 僕は作り笑いを顔に貼り付け、頷いた。


「悲しいことにね、僕には八雲さんしかいないから」


 真田くんは、ちょっと驚いたような顔をして黙った。


「別に真田くんがさくらさんを殺したからといって、僕は咎(とが)めるつもりはないよ。でも、なんで黄泉帰らそうとしているのかがわからない。さくらさんを好きでい続ける呪いを受けてまで、なんでそんなことをするの?」

「それは……わたしの代わりに、さくらに死んでもらいたくなかったからです」


 真田くんが答えた。僕は首を傾げる。


「まるで本来は真田くんが死ぬはずみたいな、口ぶりだね」

 真田くんは、僕の問いに答えず、「悲鳴だ」と呟いた。

「悲鳴?」


 僕は何をいまさらと思った。

 確かに悲鳴は聞こえる。そこらかしこからだ。

 だが、それは化け物に追われ恐慌状態の、死にたてほやほやの死人のものだろう。

 いちいち反応していられない。

 真田くんは人差し指を口元にあてた。静かにしろとのジェスチャーだ。僕は口を噤む。

 ぐつぐつと黄泉国の最深部の大鍋が煮(に)滾(たぎ)る音。他には、黄泉の国の住人のうめき声や独り言も聞こえる。


「間違いない。さくらの声だ」

「え? 僕には聞き分けができないけど……」


 真田くんは僕の言葉を最後まで聞かず、苦しそうに息を漏らしながら走り出す。


「さくらの悲鳴が聞こえたんだ!」

 


 僕と真田くんが駆け付けた悲鳴のもとには、うずくまる女の子に群がるようにヨモツシコメが集まっていた。

 ヨモツシコメどもの手には、大鍋で作られたであろう汚物が握られている。

 僕たちには汚物に見えるが、ヨモツシコメからしてみれば、あれは御馳走なのだろう。

 右目を閉じて左目だけで、女の子のほうを見る。

 死にたてほやほやの穢れていない魂であるように視える。

 それを確認してから、僕は走る速度を上げた。


「とりゃ!」


 気の抜けた掛け声とともに、ヨモツシコメに飛び蹴りをかます。

 メキメキと骨が折れる不快な感触が靴の裏に広がった。

 蹴り飛ばされたヨモツシコメは、数匹の仲間を巻き込み吹っ飛んでいった。


「君、大丈夫かい?」

「は、はい……」


 大きな黒い瞳を涙で潤ませ、白い死に装束をまとった少女は、呆然としたように返事をした。

 濡れたカラスの羽のような黒髪、色白の肌。全体的にスレンダーな体型。目鼻立ちは整っており、月夜野古書店では閉じていてわからなかったが、とても意思の強そうな瞳の美少女。

 あの死体の女の子……大谷さくらだ!


「さくら! さくら!」

「っ! 秋……兄さん?」

「ああ、さくら。さくら。会いたかった」

「秋兄さん……なんで?」


 遅れてやって来た真田くんに、さくらさんは視線を向けて大きな瞳をさらに大きくさせて、驚いていた。

 さくらさんは一瞬だけ躊躇(ためら)ったが、よろよろと立ち上がり真田くんの胸に飛び込む。真田くんは大切なさくらさんをギュッと抱きしめる。


「秋兄さん……」

「さくら。無事でよかった」

「……」


 さくらさんを助けたのは僕なんだけど……すごいアウエー感だ。

 どうしよ、手持ち無沙汰である。


「秋兄さん。最期の夢でも、またあなたに会えて嬉しい」

「さくら、ここは死後の世界だよ」


 さくらさんは、真田くんの胸から顔を上げた。みるみる真っ青な顔になる。


「あ、秋兄さんも死んでしまったの?」

「違うよ。花廻り屋八雲さんという人から助力を得て、君を死後の世界から助けに来たんだ! わたしは君のおかげで、生きている」

「生きている。……よかった。本当によかった」


 さくらさんは本当に安心したと言わんばかりのため息を吐いた。

 自分を殺した相手が生きていることを喜ぶ精神が、僕には理解できない。

 あまり、理解もしたくないけど。


「あ、あの……助けていただき、ありがとうございます。ボクは、大谷さくらといいます。さくらって呼んでください」


 さくらさんは、改めてぼんやり立っていた僕に、深々とお辞儀をする。

 ボクっ子を初めて見たという感動を胸に、僕も軽く自己紹介と現状の説明をした。

 大声で「ボクっ子だぁぁぁぁ」と叫ばなかっただけ、自制できていて偉い。

 さくらさんは、ニコリと笑う。

 花廻り屋八雲さんにはない、可愛い女の子らしさがその笑顔にあった。


「さて……」


 自己紹介が終わったところで僕は、先ほど蹴り飛ばしたヨモツシコメのほうに視線を向けた。腐った皮膚から骨が飛び出ているが、元気満々のようで、立ち上がりつつある。なによりだ。

 ゆっくりお話しができる雰囲気でもないぞ。

 それに、と真田くんのほうを見る。

 真田くんは、さくらさんの前で気を張っているからなのか元気そうではあるが、顔色が真っ青を通り越して、土色になりつつある。

 死人のさくらさんより死人にふさわしい顔色だ。

 ここで真田くんが体力の限界を迎えて死んでしまった場合、花廻り屋八雲さんに顔向けができない。

 かといって黄泉国に長居していると、最深部の妣に気づかれる可能性がある。

 ……そうなると、とてもとても面倒くさい。

 妣には遭いたくない。


「うーむ」


 僕は腕を組んで悩む。どうしたものか……。

 月夜野古書店までの道中を考えれば、一休みしておくべきなのだろうが、一休みをすれば妣が来るかもしれない。

 ヨモツシコメも、まだ、竈の近くじゃないから人の形を保っているので脅威ではない。

 でも、僕たち生者の臭いは隠せない。

 生者の臭いは奴らからすれば耐え難い悪臭だそうだ。

 時間がたてば異臭に気がつく奴らも出てくるだろう。そうなれば、竈の近くの連中が出てくる可能性が高くなる。


「あ、あの、小泉さん?」

「はいはい」


 悩んでいる最中であったが、さくらさんに呼ばれて僕はニコリと作り笑顔を貼り付けて返事をした。

 

「秋兄さんが、おそらく限界なので……少しだけお休みしませんか?」

「わたしは大丈夫だ!」

「嘘は言わないで、秋兄さん。顔が土色じゃない」


 さくらさんに怒られて、真田くんは捨てられた子犬のような顔をした。

 ここはさくらさんの意見に従おうかな。

 怒らせると、状況がさらに面倒くさくなる気がする。


「わかった。真田くんの体力が回復するまで休憩しよう」

「ありがとうございます!」

「……すみません」


 僕たちは手近で、ちょうど住人が出払っているうえ、窓のない小屋を見つけ、中に侵入した。

 小屋の中は、汚く、暗かった。

 孤独死した老人の汚部屋の除霊をしたことがあるが、そっちのほうがまだまだ綺麗だ。

 住人には悪いが、汚物の入った茶碗や腐った皮膚が貼りついている布団を片付け、真田くんが横になれる空間を作った。

 ついでに、住人が入って来られないよう、入口にバリケードを設置する。

 あいつら馬鹿だけど、力は強い。気休めにしかならないバリケードだ。


「……本当に申し訳ないです」


 真田くんは布団に倒れ込むと、それだけ呟き目を閉じた。苦しそうにあえいでいたが、次第に呼吸が整い、眠りに落ちたようだ。

 よくこんな汚い場所で眠れるな……。真田くんも意外と肝が据わっているのかもしれない。

 僕は真田くんの横に腰を下ろし、ポケットから便利グッズを詰め込んだ小さな袋を取り出す。袋の中にはナイフやら小型のマッチ、ロウソクなどが入っていた。

 適当な食器にロウソクを立て、灯りが漏れないように周囲を隠す。

 僅かな灯りの下、さくらさんは、真田くんの学ランのボタンをはずして、胸元をはだけさせる。

 真田くんは、赤いシャツを着ているのかぁオシャレだな、と一瞬だが呑気(のんき)に思った。

 だが、すぐにその考えが違うことに気がついた。


「え、それって血かい?」

「……そうです」


 さくらさんが悲しそうな顔をする。


 真田くんは白いシャツが、真っ赤になるほどの量の血を流している。

 ちょっと冗談じゃない量の血が流れているような気がするんだけど……。

 真田くんの脈をはかる。脈は弱っているが、問題はないだろう。

 次に出血原因を調べた。

 包帯でミイラのようにグルグル巻きになっている真田くんの胸。包帯を解くと彼の胸には、鋭利な刃物で切られたような大きな傷跡があった。

 傷跡は縫合(ほうごう)されているが、そこから血が滲(にじ)んでいるんだ。


「胸の傷の縫合が完璧じゃなくて、傷がふさがってないのかな……」

「出血は多いですが、秋兄さんの脈拍も呼吸も安定しているから、下手に触るのはよしておきましょう。感染症を起こす可能性があります」


 さくらさんは冷静に真田くんの状況を診断した。

 僕は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていたのだろう。

 さくらさんは、クスリと笑う。


「どうかしましたか?」

「いや、血を見るとどんなに冷静ぶっている人も焦ったり、貧血を起こしたりするからさ。だから、さくらさんは、意外と冷静だなと思って、びっくりした」

「死んでしまいましたが、ボクはお医者さんか看護師さんになりたかったんです。それに……ここへ来てから、もっとグロテスクなものを見ました。なので慣れました」


 さくらさんは苦笑いを浮かべる。

 ああ、そうか。そうか。だから慌てなかったのか。

 いや、肝が据わりすぎているぞ、この娘も。

 僕は花廻り屋八雲さんから頂いた手ぬぐいを使い、簡単な止血処置を追加でおこなう。

 学ランのボタンを直しながら、さくらさんへ尋ねた。


「真田くんの傷跡について訊いていいかな?」

「心臓の移植手術をおこなった跡です」


 さくらさんは答え、眠っている真田くんの頭を、子供の頭を撫でるように愛おしそうに撫でていた。


「心臓移植?」

「秋兄さんは、心臓に生まれつき疾患がありました。薬で誤魔化していましたが、急激に悪くなり、余命宣告も受け、一、二年生きればもうけものと」

「一、二年……」

「だから御当主(ごとうしゅ)様(さま)とお父さんの決定で、ボクが死んだ後に、すぐ移植手術を受けたはずです」

「さくらさんが死んだ後すぐに……。というと、真田くんは昨日手術をしたってこと?」

「おそらく」


 真田くんの話とさくらさんの死後硬直の具合から見て、彼女が亡くなったのは間違いなく昨日だ。


「心臓の移植手術を受けたら、最低でも一、二週間は入院が必要だぞ。そもそも胸を開けられて心臓を取り換えて、一日も経っていないのに歩き回るなんて」

「馬鹿ですよね……秋兄さんは」


 さくらさんは、ちょっと恥ずかしそうに、でもどこか誇らしげに呟いた。


「馬鹿というか、ちょっと信じられない……異常だ。な、なんでそんなことができるんだ?」


 花廻り屋八雲さんなら腹を抱えて笑うであろう、わけわからない行動だ。

 真田くんは、余命宣告を受けていたから、自分の命を軽んじていたのか? 

 ……いや、さくらさんのいない世界に、真田くんは興味がないのか。

 さくらさんを黄泉帰らせるために、胸の手術跡から血を滲ませながら命を削り月夜野古書店まで来た。

 そんな真田くんに心臓を提供した人は、苦笑いだな。そうため息をついた時だった。

 さすがに鈍い僕も先ほどの会話からの違和感に気がついた。

 それは、「だから御当主様とお父さんの決定で、ボクが死んだ後に、すぐ移植手術を受けたはずです」という、さくらさんの発言だ。

 そのうえ、花廻り屋八雲さんが口にした、真田くんとさくらさんが一心同体になったという言葉。

 因果として真田くんが、さくらさんを殺したという発言。

 これら、点と点の発言が一本の線になり、一つの仮説が生まれた。

 まさかね、そんな花廻り屋八雲さんが喜びそうなことが起こってたまるかと思いつつ、さくらさんに尋ねる。


「もしかして、真田くんへ移植された心臓って、さくらさんの心臓なのかい?」


 さくらさんは、僕の問いにしまった、という顔をする。言葉にならない声を漏らしつつ、言い逃れするために熟考をしたあと、諦めたように呟いた。


「冷静だと思っていたのですが、やっぱり慌てていたみたいですね。駄目ですね」

「好きな人がダラダラ血を流していれば、どんな高名な医者だって慌てるものだよ。じゃあ、やっぱり真田くんの心臓は、君から移植されたんだね?」

「そうです」


 さくらさんは観念したように首肯した。

 心臓がない空っぽな胸を撫でて、苦笑いをする。


「マジかよ。人間の臓器を移植するときってHAL型が近い人、たとえば……肉親や兄弟からおこなわれるケースが多いのに……」


 HALとは、ヒト白血球抗原のことだ。HAL型が患者と合わない臓器を移植した場合、それは異物として白血球に認識されて、拒絶反応が出る。

 たとえば、血液型が違う人の血液を輸血したら、拒否反応が出る。それと一緒。

 血液型があるようにHAL型は両親から各半分ずつを遺伝的に受け継ぐ。そのため、兄弟姉妹の間でもHAL型が完全に一致するドナーが四分の一の確率で見つかる。

 でも、家族間でもHAL型が一致せずに臓器移植ができないケースも多々あるのだ。


「ボクの心臓が、秋兄さんのHAL型と一番近かったんです」

「血縁者じゃない場合、HAL型が一致するケースって、数百から数百万分の一の確率でしょ? それがたまたま真田くんと、幼馴染で最愛のさくらさんだなんてね。八雲さんが喜びそうな、最悪の話」


 僕の言葉を聞いたさくらさんは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして不思議そうに首を傾げた。

「幼馴染?」

「うん。君と真田くんは幼馴染でしょ?」

「あ……ああ。そうですね。うん。そうです。幼馴染でした。本当にただの同じ日に生まれた幼馴染です!」

「同じ日に生まれた幼馴染!? マジか。物語の世界だ」

「え、ええ! あ、でも、秋兄さんの方が先に生まれました!」

「あ、兄さんって言ってるもんね。本当に二人は運命の赤い糸でつながっているみたいだね」


 さくらさんは、顔を赤くして恥ずかしそうに頷いた。

 僕は自分で言ってなんだが「運命の赤い」なんて臭いセリフを吐いてしまい、羞恥心で顔が赤くなる。



 僕は、あまり他人に干渉したくはない。干渉するのもされるのも怖いからだ。

 だからといって、血も涙もないわけではない。

 生きているさくらさんの心臓を、死が近づいているとはいえ、真田くんへ移植するように指示した御当主様なる人物への仄暗(ほのぐら)い感情がふつふつと胸にわいたのだ。

 ただこれは怒りではないと思う。じゃあなんだろう? 謎の感情だ。

 真田くんの性格なら、さくらさんの心臓を受け取るなんて話は絶対に拒否すると思う。

 喜んで受け取るなんてことは、彼の言動からして考えにくい。

 たぶん、真田くんが知らない内に心臓移植の話は進んでいたのだろう。真田くんが心臓移植の話を聞いたときには、事態は引き返せない状態まで進行していたのか? 

 最後の手段、因果律(いんがりつ)をひっくり返す鬼(おに)札(ふだ)として、月夜野古書店に来たはずだ。

 真田くんが、僕のよく知るような偽善者なら、きっと黄泉国まで来る前に満足して、引き返していただろう。

 それこそ、橋姫の守る、橋を前にして満足して帰ったはずだ。

 こんなところまで来るはずがない。

 その辺を皮肉り、花廻り屋八雲さんは、真田くんがさくらさんを殺したと言ったのか。

 真田くんへもっとも苦痛を、後悔を与えることのできるセリフだから。



「さくらさんは、どうして真田くんへ心臓をあげてしまったの?」


 僕は疑問を口にした。


「ボクがお医者さんや看護師さん志望だったという話、しましたよね? それって結局は秋兄さんのためだったのです。秋兄さんの心臓をボクが治してあげようって、一生懸命に勉強しました」


 さくらさんは、眠っている真田くんをちらりと見た。


「でも勉強をすればするほど、秋兄さんの心臓は治らないということがわかっていきました。もがけばもがく程、ボクの考えがただの思い上がりだったとわからされました。秋兄さんは『仕方ない。運命は変えることはできないんだよ』と励ましてくれました。でも、ボクは諦めきれなかった」


 さくらさんは意思の強そうな瞳で僕を見る。


「万策尽き、秋兄さんが死んだらボクも死のうと思いました。秋兄さんがいない世界なんて、きっとここよりも真っ暗な世界だと思ったから。でも、御当主様とお父さんが教えてくれました。ボクの心臓があれば秋兄さんが助かるって」


 ニコリとさくらさんは笑う。ここまで晴れやかな笑みをした少女を見たことあるだろうか?


「だからって、自分が死んだら意味がないじゃないか! それにさくらさんが死ぬように勧めた奴がいるなんてどうかしている!」


 僕はつい声を荒げてしまった。さくらさんは驚いたのか目を丸くしていた。すぐに笑顔になり、静かにするよう、「しー」と人差し指を口元へもっていく。


「ボクの心臓は、秋兄さんの中で生きています。ボクはそれでいいのです。秋兄さんが生きて、生き続けて、ボクを忘れないでくれれば、それでいいのです」


 さくらさんは、真田くんの胸を撫でる。さくらさんの心臓が脈打つ、真田くんの胸を。

 僕は背筋が寒くなった。



 真田くんが浅い眠りから覚めるのと、それは同時だったと思う。

 トントンと小屋の扉がノックされたのだ。

 少し険悪ムードの僕とさくらさんは、いったん鉾(ほこ)を収めて、中腰になる。

 互いに静かにするようにジェスチャーをした。

 死にたてほやほやの死者が、灯りのついている小屋に目をつけてノックをしたのか、それともノックをするほどの知能が高いヨモツシコメが現れたのか。

 前者なら無視すればいいが、後者なら非常によろしくない。


「化け物でしょうか?」


 さくらさんが訊ねる。


「あの馬鹿どもが、扉をノックするなんてことをすると思うかい? 別のモノだね」

「別のモノ……」


 僕は小屋の中に無造作に転がるガラクタの中から、武器になるようなものを探すが、適当な物がないので、ポケットから便利グッズを詰めた袋を出した。

 袋から折り畳みナイフを取り出す。ナイフなんていえばカッコイイが、刃渡りは短くなんとも頼りない。化け物を壊すならもう少し長い刃渡りが欲しい。

 まぁ、悪くはないけど。

 ナイフを持って臨戦態勢の僕に、さくらさんは希望的観測を口にした。


「もしかして……黄泉国の入口で待っているという……花廻り屋さんでしたっけ、その人では? 心配になり来たのかも……」


 僕は苦笑いを噛みしめた。


「八雲さんじゃないよ。まず間違いなく違う。僕の全財産をかけてもいい。絶対に八雲さんじゃない」


 さくらさんは不満気に眉を顰めた。

 だがこれ以上、僕なんかと不毛な言い争いをする気は無いようだ。そんな些末なことより、起き上がろうとしている真田くんが気になるみたい。


「真田くん。起きたかい? 調子はどう?」


 僕は首の骨を鳴らしつつ、起きて間もない真田くんに尋ねた。さくらさんも心配そうに、真田くんを見ていた。


「……大丈夫です。落ち着きました。ありがとうございます」


 チラッとさくらさんに目配せした。さくらさんも頷く。

 真田くんは嘘をついているわけではないようだ。顔色は相変わらず悪いけど、すぐに死ぬわけではない。


「よかった」


 僕は頷く。

 トントンとまた扉を叩く音がする。


「助けて……クダサイ」


 助けをこう悲壮(ひそう)な声。周りに気づかれないように、そっと囁(ささや)いているようだ。


「小泉さん、さくらのような死にたての魂では?」


 真田くんが僕に尋ねる。

 僕は真田くんの問いに答えず右目を閉じて、白く濁った左目を見開き、扉を凝視する。

 何をやっているのだろう、と不審げに真田くんとさくらさんが僕を見た。

 次いで、僕は左目だけで周囲を見回す。


「死にたての魂じゃないな。異質で穢れた魂だ。……しかも一体だけじゃないぞ。この小屋を囲むように集まっている」

「本当ですか?」


 真田くんは驚いたように声を漏らした。


「うん。間違いない。ほら、隙間風(すきまかぜ)が吹いている穴から外を覗いてごらん」


 僕は小屋の壁にあいた穴から、外を覗くように勧めた。

 二人は寄り添って穴を覗いた。

 なにも二人寄りそって、小さな穴から外を覗かなくてもいいのになぁ、と思う。

 穴なんてそこらかしこにあいているのに。 

 真田くんの手を、さくらさんがぎゅっと握るのを、僕は見逃さなかった。肝が据わっていても、真田くんの前では弱い女の子のようだ。


「籠城して花廻り屋さんを待ちますか?」


 真田くんが訊ねる。


「ここで籠城していても、八雲さんは助けに来ない。来たとしても、この状況を楽しそうに見物して、ケラケラ笑い帰るだけだ」


 僕の答えに、真田くんは少し考えたが納得してくれた。

 さくらさんは、「そんな人いるのですか?」と呟くが、いるのです。


「よし決めた! 僕が道を拓くから、ついてきて。いいかい? 二人とも。誰かを助けるためだとしても、自分が犠牲になればいいという考えはしないで」


 僕は少し語気を強めた。真田くんとさくらさんは、頷いてくれた。


「ノ……タスケ……」


 扉が叩かれると同時に、僕は助走をつけ、バリケードごと扉へ蹴りを入れる。

 扉とバリケードが倒壊すると、奇跡的に形を保っていた小屋が軋みながら崩壊した。

 扉が壊れて土煙があがる。ちらりと足元を見るとバリケードの瓦礫の中に、下半身がムカデのようなヨモツシコメが蠢(うごめ)いていた。

 即座に、ヨモツシコメの首をナイフで切り裂いた。首を刎ねようが死なずに再生するこいつらには、意味がないけれど回復するまで少しの時間稼ぎにはなるだろう。


「蟲まで出てきたか……」

「蟲?」


 真田くんが尋ねる。


「体の一部が蟲に変態した、ヨモツシコメだよ。黄泉国の最深部、竈と大鍋の近くの御殿で妣を守っている、あまり遭いたくない奴かなぁ」

「ボク、昆虫系が苦手で……」


 さくらさんは呟いた。僕も得意ではない。

 土煙が晴れると、相当な数のヨモツシコメと目があった。嬉しくない出会いだ。


「……こんだけのヨモツシコメが集まって統率が取れている? 頭が良い奴もいるな」


 ヨモツシコメは力が強いが馬鹿だ。だから怖くない。でも、蟲の中には、ヨモツシコメを統率する力を持ったタイプがいる。

 そいつが出張って来たら、ヨモツシコメを軍団として統率することができる。死を恐れない怪力無双の軍隊ができてしまう。

 頭の良い奴は、巧妙に姿を隠しているようだ。

 先陣に立って化け物共を指揮しない臆病さんタイプか。

 面倒くさい。頭を潰して逃げるのが一番簡単だが、そうは問屋が卸さないか。


「あー、最悪。二人とも、行くよ!」


 僕は、頭の良い奴を潰すのを諦め、目の前に迫るヨモツシコメの顎(あご)をナイフの柄で破壊する。

 邪魔をするモノの頭を砕き、腹を薙ぎ、足を破壊して道を拓いていく。

 僕の体力が尽きることはないけど、真田くんの体力が心配だった。

 早く前へ、もっと前へ進みたいが、二人を取り残してはいけない。

 護衛の仕事は苦手だ。

 一人ならとっくに、花廻り屋八雲さんと合流しているのに。

 こんなに働いているのに、賃金が最低賃金以下なのはどうしてだろう? いかがなものでしょうか? 

 そんな余計なことを考えていたせいもあり、ひときわ大きなカタツムリのように身体の一部が変態しているヨモツシコメの目をナイフで薙ごうとしたら、ナイフが顔面にめり込み抜けなくなった。

 顔面がくの字に曲がっているので人間なら死んでいるが、相手はすでに死んでいる。

 化け物だ。

 意味が無い。

 僕はナイフをさっさと手放して、ひときわ大きいカタツムリのようなヨモツシコメと対峙する。


 どうしたものか? ナイフが化け物の体液で穢れていくのが視えた。


 ナイフを取り戻すか、それとも捨てるか、ケチな僕は一瞬悩んでしまった。


「小泉さん! 危ない!」


 ひときわ大きいなカタツムリのようなヨモツシコメが手をのばしていた。それなのに、反応が出来なかった僕を助けようと、真田くんがタックルをヨモツシコメにブチかます。


「なにやってるの!」


 真田くんは僕がピンチだと思い加勢しに来た。感謝すべきだが、つい怒鳴ってしまった。

 背の高い彼のタックルをもろに受ければ、普通の人間程度なら簡単に吹っ飛んでしまうだろう。でも、相手は化け物だ。普通じゃない。まるで効果がなかった。

 それどころか、真田くんを捕まえようと手をのばしてきた。

 僕は咄嗟に真田くんの学ランの背中を掴むと、後方へ全力で投げ飛ばす。さくらさんが悲鳴を上げるが、気にしてはいられない。

 ひときわ大きいカタツムリのようなヨモツシコメが、僕の腕をがしりと握り、馬鹿力でへし折ろうとしてきた。

 折られまいと僕も腕に力を込め、力比べが始まる。

 なんだこいつ! 

 肉体の限界を超えているのだろう、僕の腕を握るひときわ大きいカタツムリのようなヨモツシコメの腕は自己崩壊を始めている。骨が折れ、腐った皮膚から飛び出してきた。

 我慢していれば勝手に壊れて拘束がとけるだろうけど、今の僕の腕力では振りほどくことは難しいかもしれない。

 ……こいつは僕を足止めするための捨て駒か! と気づいた。

 僕は後ろにいるはずの真田くんとさくらさんへ視線を向ける。

 二人のもとには、ヨモツシコメが殺到していた。

 ヨモツシコメの手には粗雑な武器を持っている。

 錆びた刃物とか、金槌とか。

 こいつら……さくらさんだけじゃなく、真田くんも狙っている?

 真田くんはさくらさんを、ヨモツシコメから庇おうとしていた。

 マズイ。

 僕は片手だが、全力でひときわ大きいカタツムリのようなヨモツシコメの顔面を数発殴る。

 軟体生物化しているせいか、まるで大きなゴムを殴りつけているような感触だ。それでも、頭が砕けて、脳漿(のうしょう)が飛び散っている。しかし、一向に力が弱まる気配がない。

 それどころからますます強くなっている気もする。

 最悪なことに、僕の足止めのためだけにヨモツシコメが、足腰に縋り付いてくる。おかげで踏ん張りがきかない。

 腐った皮膚が僕の肌に触れるたびに嫌悪感がわく。気持ち悪い。


「真田くん! そいつらは君をも黄泉国の住人にしようとしている!」


 僕は叫んだ。

 ひときわ大きなカタツムリのようなヨモツシコメの両腕が、メキョリと奇妙な音を立てて壊れる。

 僕はようやく、縋(すが)り付くヨモツシコメを引きはがし、真田くんたちのもとへ向かおうとするも、二人から僕を分断するように、ヨモツシコメが大量に雪崩れ込んできた。

 飽和攻撃もいいところだ。

 もしかしたら僕たちを圧死させる気なのかもしれない。殺到するヨモツシコメが将棋倒しを起こしたせいで、群衆(ぐんしゅう)雪崩(なだれ)が起きつつある。

 物理的に二人との距離が開いていく。

 底のない沼にはまったときのような、足掻けば足掻くほど、深みにはまっていく徒労感に襲われる。ヨモツシコメどもに圧迫されて呼吸ができない。苦しい。

 それでも、両手でヨモツシコメをかきさばいていく。

 満員電車内で人を避けながら前へ進む要領だ。二人のもとへ近づこうとするが、圧倒的な物量に押しつぶされていく。

 僕は神様が嫌いだ。

 神様が目の前に降り立ったら、たぶん助走をつけて蹴るくらい嫌いだ。

 でも、自分の力ではどうにもならない事態を前にしてしまうと、神頼みをしたくなってしまう。

 花廻り屋八雲さん、助けて! と。


「ふぅ〜〜〜」


 桃の香りの紫煙(しえん)が鼻腔(びこう)をくすぐる。

 僕は目を開き、正直、驚愕した。

 ヨモツシコメたちの動きが止まる。黄泉国の悪臭が瞬間的に桃の香りに支配された。とたんに、ヨモツシコメたちは動きが止まった。

 桃の香りの紫煙に心を奪われた、というわけではなさそうだ。

 ヨモツシコメどもは苦しそうに喉を掻きむしったり、鼻を両手で押さえたりし始めた。中には地面に穴を掘って顔を押し込むモノもいる。

 毒ガス兵器が初めて投入された、戦場のようなありさまだ。

 あんなに真田くんやさくらさんに対して執心(しゅうしん)していたのに、今はそれどころではなさそうで、奴らの興味はいかにして桃の香りから逃げることに置き換わっていた。

 一匹が逃げると、連鎖的に逃走者が出始めた。その後は、亡者同士の醜い争いが始まった。誰がいち早く逃げるかという醜い争い。完璧な壊走だ。

 そのヨモツシコメどもの中に、頭の異様に大きな個体を認めた。


「小泉くん、そいつがアタマでございます」

「はい!」


 僕は、放たれた矢のようにただただ真っ直ぐ、頭の異様に大きな個体へ向かっていた。


「どっせい!」


 頭の異様に大きな個体の顔面を思い切り蹴り飛ばした。

 顔の骨がめり込む感触がする。

 思い切った、着地を考えない、やけっぱちの飛び蹴りだった。頭の半分が吹き飛んだヨモツシコメは二、三回痙攣して倒れた。

 同時に僕も地面に激突する。


「クフフフ。本当にダメな男でございますなぁ」


 花廻り屋八雲さんだった。

 人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、僕を見下ろした。

 うるせー! と思ったが助けてもらった手前、何も言えない。

 花廻り屋八雲さんは、桃の香りのする不思議な煙草の葉っぱを煙管から地面に叩き落とす。

 そうだ。そうだった。桃には魔除けの効果があったんだ、とぼんやりと考えた。

 花廻り屋八雲さんの不思議な煙管のおかげで、僕たちは助かったというわけか。

 あのー、花廻り屋八雲さんが最初から同行すれば、僕たちはあんなに大変な思いをせずに済んだのではないでしょうか? 


「若い頃の努力は買ってでもしろと言うではございませんか。今日の努力分は、お賃金から引かせていただいても……よろしいのでございますが」

「人の心を読まないでくださいよ! 八雲さん! っていうか僕は今日めちゃくちゃ頑張ったんだから……少しくらいお賃金を弾んでくださいよ。人件費はケチらないでください!」

「クフフフ……冗談でございます。お寸志(すんし)を考えましょう」


 花廻り屋八雲さんの言葉に僕は耳を疑う。

 あの花廻り屋八雲さんの美しい口から、『寸志』つまり、ボーナスという単語が出たからだ。

 人を人と思わない、あの花廻り屋八雲さんの口から! 

 わーい。万歳! 万歳! 万歳! お寸志だー!


「言質とりましたからね! 八雲さん。寸志を考えるって! あとで可愛らしく『知らない』って言っても聞きませんからね!」


 僕は起き上がり、花廻り屋八雲さんに詰め寄った。


「ええ。寸志について考えるだけは、してあげますわ」

「ん? え? あれ? 考えるだけ?」


 花廻り屋八雲さんは、黄金色の瞳を歪めた。口角がつり上がっている。僕の間抜け面が面白いのかもしれない。


「小泉さん! 大丈夫ですか!」


 さくらさんと真田くんが、やって来た。

 花廻り屋八雲さんは二人を見ると、笑みを浮かべた。

 さくらさんは、その笑みを好意的なものと受け止めたらしく、純粋無垢な笑顔で応える。

 僕には、花廻り屋八雲さんの笑みが、壊してもいい玩具を前にした子供の笑みに見えた。あの子供が見せる、純粋無垢で残酷な笑みだ。

 だが、あえて黙っていることにした。

 今はここからの離脱が最優先なのだ。無駄ないざこざは起こさない。

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