無世界から

 電車は、一両しか無かった。

 そして、運転席が無かった。

 あるのは、壁際かべぎわに並んだ座席と、大きな窓と、吊革つりかわだけだった。

 音も無い。

 線路が無かったから、浮いているのだろう。

 だが、どこにいたって、穂乃美を見つける可能性は変わらない。

 彼は、手近な座席に座った。

 さっきのベンチよりも、随分ずいぶんと柔らかかった。

「おじさん」

 右腕に、小さくて温かい温度が触れて、彼は少年のことを思い出す。

 彼以外で唯一の乗客である少年は、想の隣に座って、興味津々きょうみしんしんな目で彼を見上げている。

 日に焼けたような色の肌に、紫色と生成きなり色を基調とした、布の多い服、服とそろいの布の帽子、その下から覗く茶褐色ちゃかっしょくの短髪、少し彫りの深い顔に、丸くて大きな黒い瞳。としころは、十二、三歳、といった所だろうか。

 外国の子らしかったが、想は別に、変だとも思わなかった。

「おじさんはさ、何持ってきたの?」

 少年は、真っ先にその質問をした。

 一つしか物を持っていけないというのは、この子についても同じらしい。

「鍵だよ」

 ポケットから、キーリングが付いているだけの、金色の鍵を取り出して見せる。

 銀色ではなく金色なのは、彼女が、自分たちだけの家の鍵だから、他の鍵とは違う、特別なものにしたいと言ったからだ。

「鍵? これが?」

 少年は、鍵をしげしげと観察して、首を傾げる。

「そうだよ」

 丸いコインに、ぎざぎざに削った、細い板を付けたような形のもの。

 彼にとってはこれが鍵なので、仕方ない。

「鍵、大事だもんねえ」

 少年は、想の鍵については共感できなかったらしいが、鍵の大事さについては、想と似た考えを持っているようだ。

 窓の外は、青い空と白い雲が流れているだけだった。

 だから想は、少年と話しながら、到着を待つことにした。

「穂乃美を知らない」

 想の一つ目の質問は、これだ。

 警察や探偵事務所は、プライバシーだかコンプライアンスだかで、聞き込みをする際にはあまり名前を出さないが、プラ何とかなぞ、彼女が見つかった後で考えればいいことだ。

「ホノミ? 何だっけ、植物?」

 少年は、目をぱちくりさせて、質問を返す。

「穂乃美は、僕の奥さんの名前。僕は、奥さんを探しているんだ」

「奥さん? そう言えばおじさん、どこから来たの?」

 少年が、ぼくの汚い身なりを、はばかりも無くじろじろと見る。

「……日本にほん

 で、いいのだろうか。

「ニホン、って……え、無世界むせかい? 無世界の、地球の、ニホン? 無世界から、異世界いせかいに出る人がいるの? 奥さんは、連れ去られちゃったの?」

 無世界。異世界。

 聞いたことがあるような、無いような言葉だが、彼には、そんなことはどうでも良かった。

「連れ去られたのかも分からない。急にいなくなったんだ」

 彼女の失踪から一か月が経った今も、彼女についての情報は、ある日突然いなくなったこと、それしか無かった。

「そっかあ」

 少年は、ふっと表情を暗くして、座席に深く座る。

「悲しいね」

 悲しい。

 彼は、悲しみを感じていなかったことに、今、気が付く。

「おじさんはさ、奥さんとさ、二人で住んでたの?」

 少年は、まだ少し悲しい声のまま、質問する。

「そうだよ」

 彼女との生活が幸せすぎて、子供はおろか、ペットを迎えることすら考えていなかった。

「悲しいね」

「そうだね」

 まだ、悲しみを感じることはできなかったが、彼はそう返した。

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