旅の始まり

 扉が閉まる。

 窓は無かったが、天井に埋め込まれた照明が、箱の中を明るく照らしていた。

 しかし彼は、そんなことには気付いていなかった。

 よどんだ空気の中で、扉が開くのを、ただ待っていた。

 すぐに扉が開いたが、何時間かかろうとも、彼は驚かなかっただろう。

 彼はさっきと同じように、足を踏み出した。

 足を踏み出した先もまた、駅のホームだった。

 小さなホームだったため、立っているだけで、端が見えた。

 妻は、穂乃美は、いなかった。

 コンクリートの地面。黄色い点字ブロック。プラスチックのベンチ。自動販売機。時計。

 それは、さっき見ていたものと、さほど変わらなかった。

 唯一ゆいいつ違うのは、誰もいないことと、線路が無いこと、そして、発車標はっしゃひょうの文字がおかしいことだ。

 トタンの屋根に吊り下げられている電光掲示板でんこうけいじばんには、見たことも無い国の文字が、順番に現れては消え、現れては消え、を繰り返している。

 アラビア数字すら、無い。

 流石さすが途方とほうに暮れた彼は、その文字を、ぼうっと見ていることしかできなかった。

 どれほどったのだろうか、その中に英語らしき文字が見えた時、彼は小さく声を上げた。

 だが、アルファベットが示す単語は、見慣れないもので、きちんと認識する前に、次の文字に変わってしまった。

 ――駅にいるからと言って、電車に乗る必要は無い。

 そう考え直した想は、出口はどこかと、辺りを見回した。

 しかし辺りには、駅のホーム以外に、何も無かった。

 乗ってきたエレベーターすら、無かった。

 全く、何も――。

 否。

 青い空と、白い雲があった。

 街並まちなみが見えるはずの場所に、青い空と白い雲があった。

 出口があるとしたら、それは、空を飛べる人のためのものだ。

 こうなれば、電車を待つしかない。

 彼は、ズボンのポケットの上から、唯一の持ち物である鍵を握り締め、プラスチックの椅子に腰を下ろした。

 食事を取り忘れるせいで、脂肪と筋肉が無くなった尻が、硬いプラスチックに当たって、痛かった。

 穂乃美。

 穂乃美。

 穂乃美。

 穂乃美。

 穂乃美。

 穂乃美。

 穂乃美――。

「おじさん、乗らないの?」

 不意に聞こえた声に、想は少しだけ、飛び上がる。

 そこにいたのは、一人の少年だった。

 いつの間にか、目の前には青色と銀色の塗装とそうがされた電車が来ていて、開いた扉から、少年が、きょとんとした顔を出している。

「乗るよ」

 想は咄嗟とっさに言って、閉まり始めた扉に駆け込んだ。

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