第7話 神なんていない

「ちょっと片付けてくるね。絶対に、扉を開けてはいけないよ」


 ロッツはそう言って、馬車を降りていった。

 確か、近頃国境付近で盗賊団が暗躍しているとかなんとか父が言っていたような気がするが、運悪くそれに遭遇してしまったのだろう。

 キンとかカンとか剣を打ち合う音や、オリャーだのドリャーだの男達の怒号が聞こえてくる。

 ロッツもウルも腕に覚えがあるようだし、あのケットとかいう凄まじい面構えの御者も只者ではなさそうだった。

 しかしながら相手の数が多いのか、なかなか決着がつくそぶりがない。

 私は一人馬車の中、乳母が掛けてくれたケープを握り締めて息を潜めていたが……


「私はこれから、こんな風にロッツに守られるだけの人生を送るのかしら」


 ふいに、ぽつりと自分の口から溢れ出したそんな言葉に、ぞっとした。

 私は、ロッツのような天才ではないし、ウルみたいに周囲を惹きつけ従わせる天賦の才能を持っていない。ケットのような屈強な身体でもない。

 今出ていったって、きっと足手まといになるだけだろう。

 けれど……


「私はずっと、対等でありたかった。ロッツとも、ラインとも……」


 ヒヒンと馬のいななきが聞こえる。

 それに交じって、カリカリと何かを引っ掻くような音が耳に届いた。

 はっとして顔を上げた私は、思わず座席から腰を浮かせる。

 カーテンの隙間から、黒々としたつぶらな瞳が覗いていたからだ。


「まあ……あなた、ついてきたの?」


 よっ。

 などと言って、窓の向こうでちっちゃな片手を上げたのは、紛れもない。

 あの、黄金色の毛並みをした野ネズミだ。

 野ネズミがよっなんて言うわけも、片手を上げて挨拶するわけもないので、やっぱり私は凄まじく疲れているのだろう。

 そんな中、何やら野太い悲鳴がいくつも上がり、居ても立っても居られなくなる。

 私は自分の荷物から取り出したあるものを握り締め、ついに馬車の扉を開いた。


「これは……」


 暗闇の中、盗賊達が持ち寄ったであろう松明でもって、驚くべき光景が浮かび上がっていた。

 ロッツとウルとケット以外──つまり、盗賊達だけが何かの大群に襲われているのだ。

 それは、茶色い毛並みの野ネズミだった。


「すごい……あの子達、もしかしてあなたのお友達?」


 げぼくじゃ。

 とかなんとか聞こえたような気がしたが、ともあれ味方ならばネズミでも何でも構わない。

 私はとたんに、わくわくとした心地になった。

 そのわくわくに背中を押され、馬車から御者台へと飛び移る。

 ところが……


「お、女!? おい、すげぇ上玉、乗せてやがるじゃねぇかっ!!」


 たまたま近くにいた盗賊に見つかってしまった。

 しかも、彼が頭領なのだろうか。

 図体の大きさも品の無さも悪意も、救いようのない方向にずば抜けている。


「荷も男もどうでもいい! この女だけもらってずらかるぞ!!」


 男は爛々と目を輝かせ、身体中に張り付いていたネズミ達を振り払った。

 そうして、その薄汚れた巨大な手を伸ばしてくる。


「アシェラ!!」


 ロッツが鋭く私の名を呼んでこちらに駆け出したのと、


「──触らないでくださいな」


 私の右の拳が唸るのは同時だった。

 ゴツッという鈍い音とともに、私の拳──ではなく、そこに装着した鉄の武器が、男の顔面にめり込む。

 相手の鼻の骨が、そして前歯の折れる音が、拳の骨を伝って私の脳髄にまで響いた。

 ぞくぞくとした心地がして、心臓が激しく脈打つ。

 私は、自分の口角が上がっていくのを感じていた。

 ドターン! と男が仰向けに倒れ、そこにすかさずネズミ達が群がる。

 バリバリと齧られる音と断末魔の叫びが響く中……


「私……人を殴ったのって、初めて!」


 満面の笑みを浮かべ、私は夜空に向かって拳を突き上げた。

 私の拳を守ってくれた鉄の武器は、横並びに空いた四つの穴に指を通し、握り込んで使用する。

 ラインに叩かれ、頬を腫らして登校した十三歳のあの日、次はやられる前にやるんだよ、と言ってスピカがくれたものだ。

 あれから今日まで使う機会がなかったが、七年を経てようやく活躍の場を得た。

 スピカ曰く、アシェラのへなちょこパンチの威力を百倍にしてくれるよ、とのことだったが眉唾物ではなかったらしい。

 とにかく、爽快な気分だった。

 わーっと歓声を上げたのは、もしかしてあの野ネズミだろうか。

 人間達は呆気にとられて固まっていたから、きっとそうだろう。

 ヒンメルの野ネズミはしゃべるのだ。もうそれでいい。

 

「ア、アシェラ……!?」

「うれしそうな顔しやがって。あいつ、何かヤバいものに目覚めたんじゃないのか?」

「姐さん……すてき……」


 ぽかんとするロッツと、顔を引き攣らせるウル、そして何やらうっとりとしているケット。

 三者三様の男達ににっこりと微笑んで、私は馬車を発進させる。


「ロッツ、ウル、ケットちゃん──乗って!」

「「──ケットちゃん!?」」

「はいっ、姐さんっ!!」


 ぎょっとした貴人達を差し置いて、よいお返事をしたケットが真っ先に馬車に乗り込んだ。

 我に返ったロッツとウルも、それぞれ御者台と馬車に飛び乗る。

 手綱を握る私の手を、ロッツのそれが慌てて掴んだ。


「アシェラ? ねえ、君! 馬車の操作なんてできたっけ!?」

「私だってこの四年ただ遊んでいたわけじゃないのよ。──第三十一回ヒンメルばんえい競走で優勝しました」

「なにそれ、すごい! ますます好きになっちゃうぅうう!!」

「はいはい、口を閉じていないと舌を噛むわよ」


 はわ、かっこいい……しゅき……と、うっとりして見つめてくるロッツを無視し、私はひたすら馬車を走らせた。

 ネズミに齧られる盗賊達の間をすり抜け速度を上げた馬車は峠を越え──ついに、国境へと到着する。

 あの野ネズミの姿を見ることは、もうなかった。





 盗賊団の捕獲は国境に配備されていたヒンメル側の騎士達に任せ、私達はヴィンセント王国へと入った。

 御者台には、そのまま私とロッツが座っている。

 ウルとケットが、酒を飲んでしまったからだ。

 

「うう……申し訳ございません、姐さん。殿下が、嫌がる私に無理やり酒を……」

「まあ、ケットちゃん、かわいそうに。悪い王子様にはお仕置きが必要ね。──ウル、お尻を出しなさい。ぶってあげます」

「いやお前、絶対殴りたいだけだろ? おい、ロッツ! アシェラのそのヤバい武器、取り上げとけよ!」

「ねえ、アシェラ……それ、アーレン製の武器だよね? スピカがどうして次期皇帝に抜擢されたか知ってる? 七人の兄上達を全員ボッコボコにして勝ち抜いたからだよ?」


 やがて箱の中の主従が酔い潰れて静かになった頃、空が白み始めた。

 手綱を譲ったロッツのブロンドが、黎明の光を受けてきらきらと輝いている。

 そのえも言われぬ美しさに感慨を覚えていると、いつの間にかこちらを見返していた彼が、ため息交じりに言った。 


「アシェラは、きれいだね……やっと君を、ヴィンセントに連れて帰れた。これは、夢じゃないよね?」


 しかし、私はそんな彼をじとりと見上げて言い返す。

 

「都合のいいこと言うわね──私以外の子と、お付き合いもキスもしたくせに」

「えーと、それはさぁ……」


 とたんにばつが悪そうな顔をする相手に肩を竦め、私は前を向き直してから改めて口を開いた。

 

「王立学校を卒業した後、私は大陸中の国々の歴史を研究して、王立学校は今後どう各国と関わっていくべきか、それに付随するヒンメル王国のこれからを模索してきたの」

「うんうん」

「その過程で、各国の王侯貴族の動向も詳しく調べたわ。それで一つ、気づいたことがある」

「へえ、何だろう」


 こちらも前を向き直し、微笑みを浮かべて相槌を打っていたロッツが、次の言葉を聞いた瞬間、表情を消した。


「ロッツが王立学校時代にお付き合いした相手の家が──ことごとく失脚していた」


 最初は、ロッツが何かしたのかと思った。

 しかし、詳しく調べていくうちにそうではないことがわかってくる。

 どの相手の家も、大なり小なり、元々きな臭い噂のあるものばかりだったのだ。

 そのため、私はこう仮説を立てた。


「あなた──ウルに近づけないために、先に彼女達と付き合ったのかしら?」


 十三歳の私が、ロッツとキスをしている現場を目撃してしまったあの二つ年上の公爵令嬢もそうだ。

 かの公爵家も汚職で断罪され、彼女は卒業を待たずに王立学校を去っている。

 

「……」


 私の問いに、ロッツは答えなかった。

 この沈黙を肯定ととればいいのか、私が勝手にそうすることを期待しているだけなのかは、判断がつかない。

 凡人の私に、天才の思いは理解できない。

 だから、私は彼の答えを必要としなかった。


「そう思ったら……ロッツは、彼女達を本心から好きだったわけじゃないんだって思ったら、少しは気持ちが楽になった。私はそうやって、自分を慰めたわ」

「ア、アシェラ……」


 今度は、私の言葉にロッツが動揺するそぶりを見せる。

 それも、彼の本心なのか演技なのかを見破る力は私にはない。

 しばし、私達の間に沈黙が流れた。

 太陽がついに山際から顔を出し、ヴィンセントの朝を照らし出す。

 一面に広がる小麦畑は、ヒンメルのそれと少しも変わらず、祖国を出てきた私を不安にさせることはなかった。


「……ウルはね、僕の王なんだ」


 やがて、ロッツがぽつりと口を開く。


「初めて出会った時は二人とも赤子だったけれど、僕はその瞬間を覚えている。この人のために、僕は生まれてきたんだって、そう思ったんだ」

「そう……」

「昨夜ダールグレン公爵邸で告げた通り、僕の忠誠はウルに捧げてしまった。でも、それ以外は全部アシェラに捧げるという言葉にも嘘はないよ」

「……」


 ここで、ロッツは私を見た。

 私も、彼を見る。

 朝日に照らされたその顔を、やはり素直に美しいと思った。

 そして、そこにゆっくりと滲んだ微笑みを、私はこの時、どうあっても愛おしいと感じたのだ。

 

 

「アシェラは──僕の、女神だから」



 私は、そんな自分に対して苦笑いを浮かべ、意地悪く言う。


「その言葉も、私を絆すための嘘かしらね?」

「ちがう」

「どうやって、それを信じろと?」

「僕の一生をかけて証明する」


 ロッツの考えていることなど、今も昔もこれからも、きっとわからない。

 それを苦しいと感じる私の思いを、ロッツもきっと一生理解できないだろう。

 でも……

 

「それを証明するために、私は一生、あなたに付き合わないといけないわけ?」

「うん、そうだよ。アシェラはこれから一生を僕と一緒に過ごすんだ。言ったでしょ、もう離れたくないって」


 この男と過ごす一生は、きっと楽しそうだ。

 私は今、自分がこれまで感じたことのないくらい、わくわくしていることに気づいた。

 ぽっかり空いていたはずの心の穴なんて、塞がるどころか内側から湧き出したものが溢れてしまいそう。

 私は、ロッツの肩に頭を預けて笑った。


「ロッツとこうしているなんて、不思議。ほんの三日くらい前までは、私はまだラインと結婚するつもりだったのに」

「……アシェラの口から、もうその名前は聞きたくないんだけどな」


 ラインの名前を出すと、ロッツはとたんに拗ねた顔をする。

 これが演技だとしても面白いと思っていた私に、彼は唸るように言った。


「アシェラは信じないと思うけどね。ラインは、ちゃんと君のことが好きだったんだよ」

「……何を言い出すの?」


 突拍子もない話に、私も眉を寄せる。

 ロッツも拗ねた顔のまま、そんな私の頬を撫でた。


「本当だよ。僕も同じ……君を好きだからこそわかったんだ。ラインは、彼なりに君を愛していた。実際、大聖堂がナミを聖女だと持て囃すまでは、君との婚約を解消しようなんて微塵も考えていなかったと思うよ」

「そうかしら……」


 ラインに好かれている自覚なんてそれこそ微塵もなかった私は腑に落ちない思いだったが、ロッツは構わず続ける。


「アシェラをぶって婚約解消の話が出てから、ラインが慎重になってしまってね。彼の有責で婚約解消させるきっかけがなかなか掴めなくて、僕も焦っていたんだよ。あのまま王立学校を卒業してしまったら、アシェラとラインは自然と結婚の流れになると思ったから」


 そんな中でナミが現れ、ロッツは彼女を全力で利用することに決めた。

 そして彼の目論み通り、ラインはついに私からナミへと逃げたのだ。


「ナミ自身は聖女でも何でもないけれど、彼女がヒンメルに現れたこと自体は僕にとっては奇跡だったよ。あの出来事がヒンメルの神の思し召しならば──僕は、全財産を寄付してもいいくらい感謝する」

「大げさね……神なんて、いないわ」


 不信心な私の答えに、ロッツが声を立てて笑った。


「そうだね、神なんていない」


 そんな神を信じない男が、私を女神だと言うなんて、それこそ笑い話だろう。

 私は小さくため息をついた。


「あのね、ロッツ」

「うん」

「ラインが私との婚約を破棄して、ナミと結婚するって宣言した時ね」

「うん……」


 相変わらずラインの名を口にしたせいか、ロッツがまた拗ねた顔をする。

 それに構わず、私は続けた。


「祭壇の前で、光を浴びて微笑み合う二人を見て……私、不覚にも幸せそうって思ってしまったのよね」

「え」

「羨ましくて、悔しかったわ」

「アシェラ……?」


 この、まったく理解できない、という表情はきっとロッツの本心だろう。

 天才も、素の表情はどこか幼くて可愛らしい。

 私はそんな彼を上目遣いに見て言った。


「それでね、ロッツ。私ね、実はとっても負けず嫌いなの」

「うん、知ってる」

「あの二人に勝ったと思えるくらい──私、幸せになりたいわ」

「──なろう」


 ロッツが手綱を引いて馬車を止める。

 そうして、私を両膝の間に座らせると、高らかに言い放った。


「二人でなろうよ! ラインとナミが──ううん、世界中が羨むくらい、幸せな夫婦に!」


 馬達が、なんだどうしたと振り返ってくるが、彼はお構いなしだ。


「アシェラ、キスしていい!?」

「どうして?」

「どうしてもこうしてもないよ! 今、めちゃくちゃ君にキスしたい!!」

「そう……私、キスってまだしたことがないのよね」


 とたん、ロッツがひゅっと息を呑んだ。

 かと思ったら、バッと両手を広げて小麦畑の真ん中で叫ぶ。


「全世界のみなさん、おはようございます! 聞こえておりますでしょうか!? 僕は! 今から! アシェラの! 初めての! キスの相手に! なりますっ!!」

「うるさっ……勝手に宣言しないで。まだ、いいって言ってな……」


 キスの許可を出す前に、私の唇は塞がれてしまった。

 生まれて初めてのキスは性急で、けれども自分が選んだ相手なのだと思うと、なかなかに誇らしい気分だった。


 そうだ、私が選んだ。


 ロッツは、私が自分で選んだ、ただ一人の男。


 とはいえ……


「舌を入れていいとは、言っていないわ」

「──ふぐっ!?」


 ゴツッという鈍い音とともに、調子に乗った男が御者台に沈んだ。

 親友スピカからの贈り物は、またしても私のへなちょこパンチを百倍にしてくれたのだ。

 私は、今度は小麦畑の真ん中で拳を突き上げた。


「アシェラ……それ、没収……」

「いやよ」


 舌噛んだ、血の味がする、とロッツが文句を垂れている。

 私はそれを見下ろしにっこりと笑って言った。


「ロッツ、鼻血を垂らしてるあなた、なかなか可愛いわ」

「へ? あ……ああ、あ、ありがとうございますっ──!!」


 今までで一番無様な姿をした男から手綱を取り上げる。

 そうして、新たな人生の幕開けとなるヴィンセント王国の朝に、私は自ら馬を進めたのだった。

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婚約破棄後に好きだった人から求婚されましたが、もう手のひらの上で踊らされるのはごめんです くる ひなた @gozo6ppu

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