第4話 突然の裏切り

「──アシェラぁああああ!?」


 突然、足下から名を叫ばれ、私は驚きのあまりロープから手を離してしまいそうになった。


「わっ……」

「ぎゃー! あぶないいいっ!! なにやってんのぉおお!?」


 悲鳴のようなそのひどくやかましい声は、聞き覚えのある、しかしここにいるはずのない者の声だ。

 私がなんとかロープを握り直したところ、バンッ、バンッ、と掃き出し窓を開ける音が続けて二つ響いた。

 三階のベランダに、父とジャックが飛び出してくる。

 父はベランダの柵から上半身を乗り出すようにして下を覗いているが、まだ私の存在には気づいていないようだ。

 一方、真っ先に私に気づいたジャックが、あんぐりと口を開いたのが逆光の中でもわかった。

 しかし、私は弟の間抜け面にかまっている余裕はない。

 だって……


「──ロッツ?」

「と、ウルだな。二人とも立派な青年に成長したものだ──って、アシェラ!? お前、そこで何をっ!?」

「父様のご期待に応えようと、家出を決行している最中です」

「父さんは、そんな期待をした覚えはないんだがっ!? あああ、危ないっ……」


 ダールグレン公爵家の庭に現れたのは、大陸を旅して回っているはずのロッツとウルだった。

 二人とも、私では無理だと判断した正門を乗り越えてきたのだろうか。

 父は思わぬ二人の登場に驚きつつ、さらにベランダからぶら下がっている私を見つけて飛び上がった。


「アシェラ、おい! やめなさい! ──ジャック、早く隣の部屋に行って、姉さんを引っ張り上げ……」

「ジャック、余計なことをしたらあなたの黒歴史を本にして出版するわ」

「ひー、やめてぇー、どれのことぉー?」


 などと、家族で言い合っているうちに、ロッツが私の足下まで駆け寄ってくる。

 そうして、その胸が膨らむほど大きく息を吸い込み……


 

「アシェラを──心の底から、愛しておりますっ!」



 そう叫んだ。


「……は?」


 今度は私が間抜け面をさらす番だった。

 対して、ジャックはひゅうと口笛を吹く。

 父の表情はベランダからぶら下がる私の角度では見えなかったが、おそらく呆気にとられているだろう。

 しかし、ロッツはそんな私達の反応にも構わず続ける。


「この大陸のどこを探しても、アシェラほど美しく、賢く、何より愛おしく思う人はただ一人としておりませんでした!」


 私は、カーテンのロープを両手でぎゅっと握り締めた。

 ロッツはなおも続ける。


「僕の忠誠心はウルに捧げてしまいましたが、それ以外の心は何もかも生涯アシェラに捧げると、この場にいる全ての人に誓います!」


 ロッツの後ろで両腕を組んで傍観しているウルの姿も、騒ぎを聞きつけてあちこちに灯された明かりによって浮かび上がる。

 次期ヴィンセント国王は顔つきも体つきも随分と精悍になり、すでに王の風格を携えていた。

 かつてはお人形さんのように愛らしかったロッツも中性的な印象が弱まり、洗練された大人の男性の雰囲気を纏っている。

 二人とも、身分を隠して旅をしていたためか服装こそ簡素なものだが、只者ではないのは見るものが見れば歴然としているだろう。

 この四年、彼らが物見遊山をしていたわけではないことが、ひしひしと伝わってきた。


「もしもこの言葉を違えたならば、あなた方は僕に石の礫をぶつけるがいい!」


 なんだなんだと使用人達が庭に集まってくる。

 彼らを見回し、ロッツが息もつかせぬ勢いで捲し立てた。


「ええ、万が一、億が一にもありえませんが、僕が血迷ったならばどうぞ殺してください! アシェラを裏切った生き恥を晒すくらいなら、めちゃめちゃのぐちゃぐちゃのやばやばになって死んだ方がましだ!」


 とにかくめちゃくちゃな言葉が、ダールグレン公爵邸全体に響き渡るように宣言される。

 人々は呆気に取られ、しんと静まり返った。

 ごくり、と誰かの喉が鳴る音が、いやに大きく響いたような気がした。

 その瞬間、ロッツはカッと両目を見開く。


「でも、今は生きたい! だって、アシェラが好きだもん! 大好きだもん!!」

「……っ」


 もんって何だ、と突っ込む者は誰もいない。

 誰も彼も、ダールグレン公爵邸ごと、突然の告白劇に圧倒されてしまっている。

 ロッツは、満を持して叫んだ。




「──アシェラ! 僕と! 結婚! して! くだ! さいっっっ!!」




 あいにく、私とロッツはただの一度も恋仲になったことはない。

 私は彼に想いを告げなかったし、彼からも何も匂わされたことはないのだ。

 私達は、切磋琢磨し合える親友のはずだった。

 ずっとそうだったじゃないか。

 こちらの気も知らずに、他の女の子達と散々付き合っておいて、今更何だ。

 などと、いろいろと言いたいことはある。

 しかし、結局私の口から出たのは、こんな一言だった。




「重いわ」



 

 その瞬間──ブツッという音とともに、私の体重を支えていたものがなくなった。

 カーテンのロープがちぎれ……いや


「突然の、裏切り……」


 ベランダの柵から顔を出していた野ネズミが、それを噛み切ってしまったようだ。

 宙に放り出された私は、恨みがましく相手を睨み上げる。

 背中を押してやったんじゃい!

 などと言い返してきたような気がしたが、野ネズミがしゃべるわけがないのでやっぱり気のせい、あるいは私が相当疲れているのだろう。


「──アシェラ!!」


 カーテンのロープと一緒に落ちてきた私を、ロッツが無事受け止めてくれた。

 庭に集まった使用人達がわあああっと歓声を上げ、盛大な拍手が沸き起こる。

 何しろ、つい三日前に一方的に婚約を破棄され、傷心のあまり自室に閉じこもっていた──ということになっている私に、突然訪ねてきた隣国の超名門公爵家の跡取り息子が熱烈な求婚をしたのだ。

 私を案じ同情してくれていた彼らが、盛り上がらないわけがない。

 おめでとうございます! お喜び申し上げます! とあちこちから祝福の声がかかった。中には涙ぐむ者までいる。

 私自身も、そして父も、ロッツの申し出にまだ何も答えを返していないというのに、ダールグレン公爵邸はすでにお祭り騒ぎの様相を呈していた。

 ロッツも、私を抱いたまま下ろそうとしない。

 それどころか、私をぎゅうと抱き締めて言うのだ。

 

「アシェラ、僕とヴィンセントに行こう」


 そんなロッツの肩越しにウルと目が合った。

 ニヤリと笑ったその顔に、かつての少年っぽさが垣間見える。

 裏表のない彼からロッツに視線を戻し、私はゆっくりと口を開いた。

 

「いや」

「……っ」

「って言ったら、どうする?」

「いやって言っても、このままさらっていく。僕はもう、君から離れたくないんだ」


 幼子が駄々を捏ねるような物言いながら、こちらの表情には幼さの片鱗もない。

 四年ぶりの相手の顔をまじまじと眺めてから、私は小さく肩を竦めた。


「残念ね。私、これから一人旅に出る予定なの」

「一人旅……?」


 ロッツの秀麗な眉がピクリと震える。


「まず、アーレンへ行ってスピカに会うでしょ」

「だめ」

「そのあと、ちょっと遠いけれどヴォルフにまで足を伸ばして、マチアスにたかろうかと思うの」

「だめだよ」


 さらに続けようとする私の言葉を、ロッツはきつく抱き締めて遮った。


「一人旅なんて、だめに決まっているでしょ? アシェラはこんなに可愛くて美しくて魅力的なんだよ? 君を放っておけるほど、世の野郎どもが枯れているわけないでしょ!?」

「でも、男のふりをするのよ。まずは髪を切って……」

「髪を切って男のふりをしたからなんだって言うの! 僕がモブ男だったら、君が男に見えようと、もしも実際に男であったとしても、絶対に声をかけている! 絶対! 絶対に、だっ!!」

「……そうかしら」


 耳元でキャンキャンうるさく吠えるロッツから目を逸らし、私は屋敷を見上げた。

 使用人達が持ち寄った明かりに照らされているせいで、庭を見下ろしている者達の表情もよく見える。

 ベランダの手摺りに頬杖を突いたジャックはニヤニヤとして、私ではなくおそらくロッツを眺めている。

 父は穏やかな笑みを浮かべているが、どうせ心のうちは私ごときには悟らせないだろう。

 その後ろからそっと顔を出した母とだけは目が合った。

 彼女が慈愛のこもった眼差しをして、小さく一つ頷く。

 最後に、私は自室のベランダに目をやり──


「……アシェラ? 今、誰に手を振ったの?」

「小さなお友達、かしら」


 ベランダの柵の隙間から、手を振っている野ネズミに応えた。

 野ネズミが手を振ってくる幻覚が見えるだなんて、私はいよいよ疲れ切っているのだろう。

 そんな自分も、この状況も、だんだんとおかしく思えてくる。

 私はくすくすと笑いながら、何やら面白くなさそうな顔しているロッツの頬をペチペチ叩いて告げた。

 


「行くわ──ヴィンセントに」

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