第3話 一人で旅くらいできる
この度、ラインがナミとの結婚宣言に踏み切ったのは、彼女が子供ができたかもしれないと騒いだかららしい。
結局はナミの勘違いで、単なる生理不順だったようだが。
しかし、ラインが私との婚約破棄を宣言した事実は、その日のうちに社交界のみならず市井にまで大きく広まってしまった。
バザーの手伝いに訪れていた多くの一般市民も、あの茶番劇を目撃していたからだ。
ついでに、彼らの前を通り過ぎて大聖堂を後にする際、私が目一杯悲しそうな顔を作ってジャックに肩を抱かれていたものだから、ダールグレン公爵家には多くの同情の声が集まった。
「──すまなかった」
そして、この日の夜。
屋敷に戻ってきたダールグレン公爵は、娘である私に頭を下げた。
私は、そんな父を見下ろし……
「ジャック、ほらご覧なさい。父様のつむじなんてなかなか見られないわよ」
「本当ですねー……あっ、ちょっと、父上? よく見たら、二つもつむじがあるじゃないですか!」
ジャックと二人、目の前の渦巻をつんつんした。
心労の絶えない立場にありながらこんなに髪がフサフサの父は、きっと心臓にもボーボーに毛が生えていることだろう。
「アシェラ……ジャック……?」
子供達との温度差に、いつも澄ました顔をしている父が戸惑う。
してやったり、と私もジャックもとたんに気分がよくなった。
「つむじって遺伝するんですかねー。ねえ、姉上。僕は? 僕はいくつあります?」
「どれどれ……あら、あなたも二つよ。じゃあ、私は?」
「えーっと……ああ、残念。姉上は一つですねー」
「……別に、残念なんかじゃないわよ」
などと姉弟できゃっきゃしていると、ばっと顔を上げた父がいきなり私を抱き締めた。
「──アシェラ、すまなかった。ここまでお前の人生を縛ってきたこと……そうまでして守ってきた矜持を踏み躙られてしまったこと……すべては、私の責任だ」
「いいえ、父様。ラインとの婚約をお決めになったのは、父様ではなくお祖父様でしょう? それに、お祖父様もまさかこんなことになるとは想像もしていらっしゃらなかったでしょうから」
王立学校の学長室で逸早く騒動の報告を受けた父は、すぐさま国王陛下に謁見を願い出たのだという。
寝耳に水だった国王陛下は慌てふためき、いつぞやラインが私を引っ叩いた時と同様に謝り倒して婚約破棄を撤回しようとした。
ところが、そこにラインがナミをつれてやってきたものだから、さあ大変。
父こそが婚約破棄を阻止しにきたのだと勘違いしたラインは、彼の前で私のことを散々こき下ろし、いかに自分の妻にふさわしくないか、それはもう饒舌に語ったという。
もはや取りなすことも不可能と悟った国王陛下はその場に崩れ落ち、言いたいことを言い切ったラインは得意げに胸を張った。
異世界の王妃になれると信じて疑わないナミは悦に入り、這々の体で彼らを追ってきたらしい大司祭は紙のような顔色に。
そんな彼らに、父は静かに引導を渡したのだろう。
「アシェラには何の落ち度もない、一方的な婚約破棄だ。王家とライン殿下ご自身、それからナミの後見人である大司祭より、相応の慰謝料をいただくことになった」
彼らはこれを拒むことはできない。
なぜなら、世論がダールグレン公爵家に味方するからだ。
さらに、噂は十日と経たず大陸中に広がり、各国の要人となっている父の教え子達の耳にも届くだろう。
ヒンメル国王のもとには、公式非公式を問わず多く抗議や意見が寄せられるに違いない。
王家も、そして大聖堂も、もう父に頭が上がらなくなる。
(どこからどこまで、父様が計算していたのかは、わからないけれど……)
ところで、私は今年で二十歳になるのだが、貴族の娘ならすでに結婚して子供の一人や二人産んでいてもおかしくない年だ。
だからきっと、私にはすぐに新たな縁談相手があてがわれると思っていたが……
「慰謝料は、全てアシェラが受け取るといい。これからどう生きるかは、お前の好きに……」
「これからのことでしたら、もう決めております」
どうやらまだ結婚しなくていいようなので、父の気が変わらないうちに畳み掛ける。
「──私、旅に出ます。一人で」
しかし、そのせいで、大司祭と国王陛下に続いて父までも、ひいっと喉の奥で悲鳴を上げることになるとは思わなかった。
「好きにしていいって言ったのに……父様は嘘つきだわ」
ビリビリという耳障りな音が響く中、私はもう何回目になるかもしれない愚痴をこぼした。
ラインから婚約破棄を言い渡されてから、今日で丸三日。
不本意ながら私は、ダールグレン公爵家の三階にある自室に軟禁されている。
あの夜、一人旅に出たいという私の申し出に、父もジャックも女だから危険だと猛反対した。
近頃国境沿いで盗賊団が暗躍しているとかなんとかうるさいので、だったら男のふりをして行くと言って早速髪を切り落とそうとすると、慌てふためいた二人は私をこの自室に閉じ込めてしまったのだ。
「私だって、一人で旅くらいできるわよ」
王立学校を卒業後、ロッツとウルはヴィンセント王国に戻るのではなく、二人で大陸中を旅して回っている。
そんな彼らから時々届く手紙を、私はこの四年間、何よりも楽しみにしてきた。
ずっと、彼らが羨ましかった。
私がラインと婚約していなかったら──いや、もしも男だったら一緒に連れていってもらえただろうか。
私は、自分がまだ井の中の蛙であることを知っている。
大きな父に守られたこの狭い井戸を出るのは、本当を言うと少し恐ろしいが、けれども婚約という足枷が外れたばかりの今しか、私は駆け出せないような気がするのだ。
そのためには、父を説得して許しを得るか──
「いいえ、もしかしたら父様は私を試しているのかもしれないわ。本気で旅に出たいなら自力でここから抜け出してみろ、ということなのね。きっとそう、そうに違いないわ」
そういうわけでこの日、ベランダからこっそり脱出する決意を固めた私は、部屋中のカーテンを引っ張り外してロープを作っているところだ。
現在、時刻は午後十時。
ジャック、乳母、母、父の順に先ほど就寝の挨拶をしにきたので、朝まではもうここを訪れる者はいないだろう。
奇しくも今宵は新月である。私はこの闇に紛れて家出を決行することにした。
最初に髪を切ると言ったせいか、ハサミやナイフなどの刃物を没収されてしまったが……
「あなたがいてくれてよかったわ」
思わぬ助っ人が、代わりにカーテンに切れ目を入れてくれたのだ。
私はその切れ目を利用して、さっきからカーテンを裂いている。
つまり、ビリビリという耳障りな音を立てているのは、私自身であった。
「それ、素敵な歯ね。そんなに丈夫なら、なんでも食べられるでしょう」
そう話しかけた私を、黒々としたつぶらな瞳が見上げてくる。
三日前、大聖堂にいたあの野ネズミである。
いつの間に馬車に乗り込んでいたのか、屋敷までついてきてしまったらしい。
私がこの自室に閉じ込められたばかりで最高にプンプンしているところに、そいつはひょっこりと現れた。
相変わらず薄汚れていたものだから、有無を言わさず洗面所でジャブジャブと丸洗い。
やめろぉー、とか言っていたような気もするが、野ネズミがしゃべるわけがないのできっと気のせいだろう。
しっかり汚れを落とせば、まるでよく実った小麦畑のような美しい黄金色の、ふかふかの毛並みになった。
とはいえ、きっと母や乳母などがこれを見たら卒倒するだろう。
父やジャックだって眉を顰め、追い出そうとするに違いない。
姿だけ見れば愛らしいが、何しろネズミは病気を媒介する生き物だ。
実際、ヒンメル王国は過去に何度も、ネズミによる疫病の蔓延で甚大な被害を出していた。
王家の始祖との知恵比べに負けたという、野ネズミの悪魔の意趣返しかもしれない。
私も彼らの恐ろしさを重々理解しているが、しかしどういうわけか、この目の前の野ネズミは邪険にしてはいけないような気がするのだ。
分けてやった食事を頬張る姿は愛らしく、それを眺めているうちに何やら心も穏やかになった。
「そうだ、まずはアーレンに行こう。スピカに会って、それからしばらく彼女のもとで働いてみるのもいいわね」
何かと野ネズミの神様とやらを引き合いに出していた隣国アーレン皇国の皇女スピカは、つい先日、七人の兄達を差し置いて皇位継承権第一位になった。
彼女とは卒業後も頻繁に手紙のやり取りをしているが、ラインに婚約破棄されたことはまだ伝えていない。
「どうせなら直接会って伝えましょう。あの子もずっと、私のことを心配してくれていたもの」
スピカの明るい笑顔を思い出し、一刻も早く彼女に会いたくなった私は、ついに結び終わったカーテンのロープをベランダの柵に括り付けた。
あらかじめ用意していた簡素な衣服に着替え、少しの衣類と食べ物、手持ちのお金などを詰め込んだ袋を背負う。
隣のジャックの部屋からは明かりが漏れていたが、カーテンが閉まっており、私の計画に気づいている様子はない。
そのさらに二つ向こうの両親の部屋もまだ明るかったが、幸いベランダに人影はなかった。
広い庭の向こうにある正門はすでに閉じられ、明かりも消えてしまっている。
あれを超えるのは至難の業であろうから、裏に回ろう。確か昔、ジャックがふざけて壊したせいで、柵が一本外れやすくなっている場所があったはずだ。
私はそんなことを考えながらベランダの柵を乗り越える。
運動神経が特別優れているわけではないが、なにしろ負けず嫌いなものだから、そんじょそこらの令嬢よりは度胸があると自負している。
そんなこんなで、カーテンのロープを支えにして早速二階付近まで壁を伝い降りたところ、ふと視線を感じて顔を上げた。
ベランダの柵の隙間から件の野ネズミが顔を出し、こちらを見下ろしていたのだ。
「……ネズミ。あなたも一緒にくる?」
ううむ、どうしようかのぅ。
なんて声が聞こえたような気がしたが、野ネズミがしゃべるわけがないのでやはり気のせいだろう。
しかし、逡巡するようにその場でくるくる回り始めたそいつに、焦れた私が片手を伸ばそうとした、その時だった。
「──アシェラぁああああ!?」
聞き覚えのある、しかしここにいるはずのない者の声が響いた。
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