第35話 愛しの人

「おや、君は逃げなかったのかい? ふむ、勇気は称えたいが、それは賢い選択じゃない」


 野辺地学の手は震えていた。歯がカタガタと音を立てている。誰がどう見ても無理して虚勢を張っているようにしか見えない。日下部はそんな男を馬鹿にするように笑った。鼻をふんっと鳴らして拳を構える。そして彼は周囲を見渡しぶっきらぼうに「お前たち、そろそろ起きろ」と言い放った。彼の言葉に、黒ずくめの数名が上体を起こす。燃え盛る佐藤の発した灼熱が、周囲の氷を溶かしてしまったらしい。


「さて、君はこの多勢に無勢をどう突破するつもりだ?」


 野辺地は辺りをきょろきょろと見渡した。一人、また一人と男たちが起き上がる。紫の光を放つ杖を手にして。


「おや……」


 日下部がふと、耳元に装着したインカムへそっと指を添える。そして二度三度相槌を挟み、にやりと笑った。


「君の相方はたった今別部隊が取り押さえたところだ。ビルからの狙撃には冷や汗をかいたが、近接集団戦は苦手だったようだね」


 日下部の言葉に、瑠璃がハッとした表情で目線をビルの方へ向けた。遠くてよく見えないが、ビルの明かりが消えていた。それに何より、瑠璃を掴んだまま微動だにしないこの男を黄色は狙撃しない。狙うなら今がチャンスなはずだというのに。


「お前たち、このバンディットを連行しろ。私はそこの悪い子ちゃんを指導する」


 日下部が瑠璃から手をはなすと同時に、彼女は複数の男たちに取り押さえられた。もがき抵抗を見せる彼女ではあったが、武器であるメイスを取り上げられ、両手に手錠をかけられた今、何もできることはないだろう。


「さて、助けに来るのが遅かったなぁ少年。君の名前は?」


「言わねぇよバーカ」


「まぁいい。確か野辺地君と言ったかな。覚悟はできているんだろうね?」


 日下部が両手を叩く。「爆拳」の言葉に合わせて拳は燃え、男の表情に殺意が見えた。「業務執行妨害により、君は極刑だ」日下部が地面を蹴って前に出る。その瞬間だった。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 野辺地学は、背を向けて逃げ出した。


「なにッ!」


 想定外の出来事に思わず日下部が足を止めた。野辺地の放った弾丸は、日下部の足元に命中し、灼熱の炎を発する。


「くッ、クソガキが……!」


 日下部が腹立たしそうに舌打ちをした。背後で連行される雛菊瑠璃と、今もなお燃え続けている佐藤優介。彼らに目をやってから、野辺地は再び夜の闇を見つめた。



 佐藤が目を覚ましたのは、もう居酒屋の電気すら落ちた頃だった。周囲を照らす明かりは街灯のみ。東京の街ですら眠りにつく深夜。佐藤は全身の痛みに呻き声を上げた。頬をピリリとした痛みが走る。濡れたタオルが地面に落ちた。


「これは……?」


 上体を起こしながらタオルを拾った佐藤に、聞きなれた声がかけられた。


「優介くん、目、覚めたんだ」


 慌てて振り返ると、そこには閃石亜愛の姿があった。彼女はバケツの中でタオルを洗いながら嬉しそうな表情を見せる。思いがけない再会に、佐藤は慌てて立ち上がろうと地面に手を突いた。右ひじが痺れたように痛みを放ち、体がそのまま地面に倒れる。


「まだ動かないで!」


 閃石が慌てて佐藤の体を支えて、そっと彼の頭を撫でた。


「もう、私心配したんだからね?」


「あ、えっと……」


 困り眉で頬を膨らませた美少女が、じっと佐藤を睨む。その仕草に、佐藤の胸がドキリと音を立てた。


「ご、ごめん……」


 佐藤が小さく誤ると、彼女は困った顔のまま目を細めて笑った。


「うん、本当にごめんだよ。私、とってもとっても心配したんだから。はい、じっとしてて。せっかくのいい顔が怪我で台無しになっちゃう」


 彼女は濡れタオルをそっと佐藤の頬に当てた。チクリと骨にまで響く痛みも、なぜだか心地よく感じる。佐藤は彼女の手にそっと自分の手を添えて再びごめんと謝った。


「ほんと、ガス漏れ事件があって急に会えなくなって、連絡もつかなくなって、どうしたんだろうって思ってたら怪我だらけ。どうしてこんなことになっちゃうのかな君は」


「あはは、ほんと、俺もよく分からないや」


「笑い事じゃないんだよ?」


 彼女の平手が佐藤のおでこでペチリと音を立てる。その優しさに、思わず佐藤は目を閉じた。


「優介くん、他に痛いところある?」


「ううん、大丈夫。ありがとう……」


 佐藤は自分の体に目をやった。家からわざわざ持ってきてくれたのだろうか。かすり傷には絆創膏が張られており、大きな火傷の跡には消毒した上からガーゼを貼ってもらったらしい。頬の傷も濡れタオルで砂を落として、ちょうど今から消毒しようとしているらしかった。見れば佐藤の傍に救急箱が置かれていた。


「亜愛ちゃん、俺結局ペンダント、見つけられなかったよ」


「……うん」


 消毒液の塗られた綿をピンセットで摘まんで、彼女はじっと佐藤の顔を見つめた。くりりとした大きな瞳が、じっと佐藤を見つめ返す。彼女は佐藤の言葉を聞こうとしてくれていた。優しい表情で、小さく首を傾けて、佐藤に「ん?」と言う。


「俺たちが連絡したティックトックの人たちはさ、俺のペンダントが欲しかっただけで、盗んでいなかったらしいんだ」


「……そう、だったの」


「……うん。それで、彼女たちにも相談したんだ。俺の大切な物だから、どうしても取り返したいって」


 佐藤の頬に消毒液が触れる。まるで電気が走ったかのような痛みに、彼の体はびくりと跳ねた。閃石がびっくりして眉尻を下げる。佐藤はそんな彼女の髪を撫でながら笑った。


「大丈夫、ありがとう」


「……続けるね?」

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