第12話 「無い」
朝の情報番組が流れ、テロップには晴れのマークが浮かんでいる。
「優介君は、優しいんだね」
それはどういう意味なんだ、佐藤優介は生唾を飲み込んだ。彼女は一瞥もくれずにナイフでパンケーキを切り始める。溶けたバターとメイプルシロップが絡み合い、艶やかな黄土色を平皿に広げた。佐藤もそれに倣って右手にナイフを握りしめる。
「ねぇ優介くん、今日暇?」
一口サイズに切られたパンケーキの中から、焼けたバナナの香りが立ち昇る。佐藤は目線を皿の上に落としたまま口を開いた。
「うん、暇だよ。土日は特に、予定は入れてないんだ」
というより、入れる予定なんか存在しなかった。大学に入学してから今日という日まで、授業を受けるかバイトを探すかしかやることはなかった。新入生歓迎会だけが唯一の楽しみだったし、その後お持ち帰りした女の子と土日を使って楽しむ予定ですらいた。計画性は一切ない。
「じゃあさ……」
閃石亜愛は口に含んだパンケーキを数度咀嚼した後、牛乳で胃に流し込んだ。その仕草をまねして、佐藤も咀嚼を繰り返す。甘い香りが口いっぱいに広がっているはずなのに、なぜだか全く味はしなかった。乳白色の液体に口をつけ、濃厚な舌触りをそのまま喉に押し込む間ですら、佐藤の目線はパンケーキから離れようとしなかった。なんだか、悪いことでもしでかした犬が主人の前で同じ行動をとっていたのをティックトックで見た気がする。
「昨日の続き、しよ?」
佐藤は牛乳を盛大に噴出した。
「ちょ、優介くん?」
慌てて食器を皿に置き、ティッシュボックスを漁る彼女。その慌てふためく姿よりももっと激しく、佐藤は両手をばたつかせて口元を拭った。
「大丈夫? おいしくなかった?」
ティッシュで佐藤の口元やシャツを拭きながら閃石は訊ねる。
「おいし、おいしかった。おいしかったよ」
「じゃあどうしたの?」
「いや、亜愛ちゃんが急に、急にあんなこと言うから」
熱くなった耳を両手で摘まみながら、佐藤は言葉を選ぶ。
「お、俺何か気に障ることしちゃったかもって、不安になって……」
そんな彼の表情を、大きな瞳がじっと見つめる。それから次第に彼女の顔も赤く染まり始めた。
「いや、その。なんていうか……」
閃石はゆっくりと距離を放してもじもじと指を動かす。
「優介くんのこと、いいなって思って」
「……それってもしかして」
「……うん」
据え膳食わぬは男の恥。佐藤はその場で立ちあがった。
「閃石亜愛さん」
「は、はい!」
彼女も慌てて立ち上がる。二人は見つめ合ったまましばらく動かなかった。ただ、情報番組がそろそろ朝の八時を迎えようとしていることだけを教えてくれる。
「閃石亜愛さん、俺は、佐藤優介は……」
彼女の何かを期待する熱い眼差しが、佐藤優介に真っ直ぐと注がれている。
「あなたを一目見たときから、気になっていました。だから、その……」
「……うん」
閃石亜愛の小さな頷きが、佐藤の背中を押した。
「俺と付き合ってください!」
佐藤優介、人生十八年間を生きてきて、初めての告白をした瞬間であった。
「喜んで」
閃石亜愛が彼の手を握る。その瞬間だった。
――バサッ。
「え?」
「あ?」
腰に巻いていたバスタオルが、地面に落ちた。
「いや、あのその!」
閃石亜愛が慌てて背を向け、佐藤優介は慌てて拾ったタオルで前を隠す。しかし遅かっただろう。見られるものは、見られてしまった。期待と興奮で肥大化した男の欲望が、きっと意中の彼女に見られてしまったに違いない。
「見て、見てませんから!」
「ひゃい! ありがとうございます!」
朝から大声でやりとりをする二人を笑うように、朝の情報番組は楽し気な音楽を流していた。
昨日から失敗続きな佐藤優介は、自分の失態を心の中で叱咤しながらタオルを腰で止めて座る。その時、ふと違和感に気づいた。
「あれ?」
「ど、どどど、どうしましたか?」
「あ、いや。もう振り返っていいよ亜愛ちゃん」
「ひゃ、はい!」
「それよりもさ……」
佐藤は自らの胸元に手を当てて目の前に座る女性をじっと見つめた。
「俺のペンダント、知らない?」
閃石亜愛の大きな瞳には、佐藤優介の絶望した表情が浮かび上がっていた。
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