第11話 気まずい朝
佐藤優介はシャツを脱ぎ捨て、蛇口を捻る。勢いよく出てきた冷水に体が冷やされ、思わず高い悲鳴を上げた。
「優介君、タオル脱衣所に置いとくから。あと、シャツは勝手に洗っちゃうね?」
「あ、ありがとう」
「あと、お湯のスイッチついてなかったぞ?」
少し愉快そうな声が曇りガラス越しに聞こえてくる。
「通りで。てっきりエネルギー枯渇問題の影響が亜愛ちゃんの家にまで来てるのかと思っちゃったよ」
「えへへ、なわけないでしょ、ばーか!」
お湯のスイッチを入れる音がしてからすぐに、シャワーの温度が上がった。彼女は一人暮らし用の小さな洗濯機を操作してから脱衣所を出る。
「お湯張ってもいいから、ゆっくりしておいでね」
「うん、ありがとう」
佐藤は閃石亜愛の言葉に甘えて、湯船につかることにした。今日はたった一日で本当に色々なことが起きた。大学生デビューという大事なイベント当日に、かなりたくさんの失敗を犯した気がする。それでも結局気になる女性の部屋に上がり込めたのは、日頃の行いが良いからだろうか。
この後、どうしたらいいんだろう。と思いながら佐藤は湯船に腰を下ろした。まだくるぶし辺りにしか溜まっていないお湯が、小さく波を立てる。頭からかぶったシャワーの温かさが、なんだか優しくなでられているように感じた。
目を瞑れば未だに思い出す。居酒屋でかいた恥を。人生初の未成年飲酒。人生初の酔いつぶれた嘔吐。それでも、神様は見捨てていなかったらしい。
佐藤は湯船の中で体を清めつつ体臭を確認した。うん、もうすっぱいにおいはしない。まだ少しアルコールのツンと刺すようなにおいはするが、それはきっとお互い様だろう。
今日、佐藤優介十八歳。童貞を捨てます。
誰にでもなく心の中でそう宣言した彼は、湯船の栓を抜いて浴室を出た。全身の熱が今や下半身に集まっている。ギンギンとした熱い感覚を落ち着かせながら、脱衣所のタオルで体を拭いた。
「亜愛ちゃんの香りがする……」
タオルを顔に押し当てて深く呼吸をしてから、彼は気づいた。
洗濯機に全部入れられちゃったってことは、下着やズボンもないじゃないか。彼女から借りたのは大きめのシャツだけ。それでも彼にとってはちょうどいいサイズ感。つまり、出るところが出ちゃっている。
どうしよう。
閃石亜愛の反応から、今夜はオーケーであると察している。とは言っても、いきなり下半身を露出した男が出てきたら嫌じゃなかろうか。普通は嫌なはずだ。お互いその気だったとしても、ある程度ムードというか風情というか、そういう雰囲気は大切なはずだ。
それなのにいきなりシャツの下からコンニチハしたものをぶら下げて「しよっか?」なんて言えたもんじゃない。
どうしよう、どうしたらいいんだ。
彼は頭をフル回転させた。洗濯機の中には既に水で濡れた自分の下着とズボン。脱衣所には特に何もない。あるのは大きなシャツとバスタオルだけ……。
「そうか、これがあるじゃないか」
佐藤優介は、意を決して腰にタオルを巻いた。焦げ茶色のタオルが下半身を綺麗に隠してくれる。まるで腰蓑だ。でも、深夜ドラマで見たことがある。ラブホに行ったとき男はこういう格好をするものだと相場が決まっている。別に変じゃないはず。元野球部ということもあって、体つきはいい方だ。足腰の筋肉には自信がある。
佐藤はそっと脱衣所の扉を開けて声をかけた。
「亜愛ちゃん、お待たせ……って、あれ?」
閃石亜愛は、小さなベッドの上で丸くなって、スヤスヤと寝息を立てていた。
「これはつまり、お預けってことか……」
佐藤はベッドの横に腰を下ろして、じっと彼女の表情を眺めることにした。無防備だ。強引に脱がす事だってできるだろう。今ならきっとお酒のせいにもできる。
でも、彼にはそんなことできなかった。
――なんだか、優しそうな名前だね。皆の気を使って頑張り気味な佐藤くんにピッタリかも。そういう優しそうな人柄だからかな、今日はじめて会ったはずなのに家まで連れ込んじゃった。
彼女がそう評価してくれたことが、正直嬉しかったのだ。だから、佐藤優介は彼女に指一本触れることなく目を閉じた。彼女の寝息に混ざって、彼の呼吸が落ち着いていくのにそう時間はかからなかった。張りつめていた緊張の糸が一気に解けたのだろう。彼はベッドに寄り掛かったままの姿勢でそのまま眠りについた。
波乱万丈な新入生歓迎会の一日が、ようやく終わった。
翌日佐藤が目を覚ましたのは、小麦粉の焼ける甘い香りがしたからだった。
「あれ、佐藤くん起きた? 顔洗ってきて」
閃石亜愛は、昨晩の事を忘れてしまったのだろうか。佐藤優介の事を苗字で呼んでいた。
「昨日はごめんね。私ったら佐藤くんの下着まで洗っちゃったみたいで。今乾燥器の中だからあと三十分くらい待っててね。あ、朝ごはん食べるよね? もう二人分作っちゃったんだけど」
「あ、うん。いただきます」
どこかよそよそしさを感じて、佐藤も敬語が入ってしまった。やはり、一夜限りの関係で終わってしまうのだろうか。もしそうだとしたら、昨晩手を出しておくべきだった。佐藤はまだ眠い頭をポカポカと叩いた。
「朝食、ホットケーキだけど平気?」
コタツ机の上にプレートを置きながら閃石亜愛が訊ねる。昨晩奢ってもらった上に一泊させてもらい、さらに朝食まで出してくれるのだ。文句のつけようがない。
「むしろありがたいよ。何から何まで」
「気にしないでいいよ。そ、それよりさ」
コップに牛乳を注ぎながら彼女は頬を赤く染めた。
「昨日、佐藤くんがお風呂行ったところまでは覚えてるんだけど、その後記憶なくて」
ナイフとフォークを二人分用意した彼女は、机の上にメイプルシロップのボトルを乗せた。
「私たち、その、どこまでしたの?」
これは、本当に覚えていないのだろう。恥ずかしそうに目を合わせない、どこかよそよそしさを感じさせる仕草。その原因は恥ずかしいからだ。一線を越えた相手と迎える朝食というシチュエーションが照れくさいのだ。しかし、この場合の正しい答えはどれだろう。嘘をついてでも二人の関係が進展したことを伝えるべきなのか、それとも誠意をもって何事もなかったというべきなのか。
「えっと……」
一瞬迷った佐藤優介ではあった。しかし、昨晩彼女に言われた言葉が再度脳裏をよぎる。
「何もなかったよ。俺がお風呂から上がったら、亜愛ちゃんはもう寝てた。本当に無防備に寝てたから。そ、それで、俺も疲れてたから、そのまま寝ちゃった」
「そ、そっか……」
二人の間に沈黙が訪れた。何か間違えたのだろうか。
もっと正しい答えがあったのだろうか。しかし何を言えば正解だったのか分からない。
一度過去に戻って別の選択肢を試したい。そもそも閃石亜愛はどういう関係を求めていたのだろうか。
佐藤優介の脳裏を様々な思考が一瞬で駆け巡った。
そんな彼の内心を知ってか知らずか、閃石亜愛がテレビのスイッチを押した。
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