第10話 二人だけの部屋
「な、名前で呼んでも……いいかな?」
「……え?」
「いや……その。……亜愛って」
「……っぷふ」
「へ?」
「あはははははは!」
突然緊張の糸が解けたのだろう。その場で閃石は膝から崩れ落ち大声で笑う。どうしてそんなことが起きたのか理解できない佐藤は、ただあたふたとするばかりだった。
「あははは、くぅ……もぉ!」
ひとしきり笑い終えたのだろう、彼女は涙を拭いながら立ちあがって佐藤の肩をトンと押す。
「ばーか!」
「え? え、なんで?」
意味が分からないといった様子で両手を広げる佐藤に背を向けて、閃石は部屋の奥へ向かう。
「佐藤くん、とりあえずお部屋までおいで。まだ酔ってるでしょ」
「あ、うん」
慌てて後を追う佐藤に聞こえない小さな声で、閃石は呟くのだった。
「……しちゃうのかと思った」
「え? 何か言った?」
「なんでもない!」
頬を赤くしてリビングまで向かう彼女は、佐藤の目には怒っているように映った。何か怒らせるようなことでもしてしまったのだろうかと不安になる男を背に、閃石は部屋の明かりをつけた。
生活感の溢れる部屋だった。小さなテレビの前に小さなちゃぶ台が出してあり、その上には授業で使う教科書やウサギのぬいぐるみが転がっている。壁には一人分の小さなベッドが設置されており、足元には漫画の並んだ本棚。机の上に放置されていたリモコンを手に、閃石亜愛はエアコンのスイッチを入れた。
「なんか今夜は暑くなるらしいよ」
「さっきまで少し肌寒かったのに?」
「異常気象ってやつだね」
目を合わせようとしてくれない彼女に気を使いながら、佐藤は床に腰を下ろした。
「なんかテレビ見る?」
「あ、うん」
「あと、水も飲むよね?」
「うん、ありがと」
適当につけられたテレビでは、明日役に立ちそうな日用品の豆知識を特集したバラエティー番組が流れた。
「チャンネル、適当に変えていいよ」
閃石の声がキッチンから聞こえてくるが、佐藤は「大丈夫」とだけ返事して画面に目を向ける。普段からテレビを見る方ではないが、妙な気まずさから離れるにはちょうどいいコンテンツだった。
「佐藤くんってさ、下の名前なんだっけ?」
冷蔵庫の中で冷え切った麦茶をコップ二杯に注ぎ終えた彼女が、零さないようゆっくりと歩みながら訊ねる。
「ゆうすけ……優しいに、介護士の介で優介」
佐藤の目の前に麦茶が置かれた。湿度が高いのか、もうコップの表面には水滴が浮かんでいる。
「なんだか、優しそうな名前だね。皆の気を使って頑張り気味な佐藤くんにピッタリかも。そういう優しそうな人柄だからかな、今日はじめて会ったはずなのに家まで連れ込んじゃった」
閃石は照れくさそうに笑いながら、ベッドに腰をかけてコップに口を付けた。それを見て佐藤も一口喉に麦茶を流し込む。熱を持った内臓がじわりと冷やされていく感覚に、思わず息がこぼれた。
「どう? おいしいでしょ」
「うん、おいしい」
えへへと自慢げに笑う彼女が、もう一口麦茶を喉奥へ流し込んだ。
「これね、昔おばあちゃんがよく家で作ってくれたんだ」
「へぇ、おばあちゃんかぁ」
「うん、私おばあちゃんの事大好きだったんだ。だから、お葬式の日におばあちゃんの料理レシピとかももらっちゃってさ。この麦茶もいくつかのブランドを配合したやつなんだよ」
「こだわりが凄いね」
「でしょぉ」
鼻を高くして胸を張る彼女を眺めていた。ただ、彼女が祖母を懐かしむ表情や誇りに思う仕草が愛おしくて、佐藤はじっと見つめることしかできなかった。
二人の間に生まれた静寂は、テレビの雑音が埋めてくれる。
――計画停電中でも電機が使いたい。そんな過程で今大流行中なんです! メガバッテリー!
「わざわざ手回し機械使ってまで電気欲しい人なんているのかな?」
話題の尽きた空間を埋めるように、閃石は口を開いた。テレビを見ての感想だろう。
「どう……だろうね。あまり俺はそういうの分からないや」
「意外と佐藤くんミニマリスト?」
「いや、そんなんじゃないけどさ。ただ、ないものねだりするよりは、あるもので十分っていうか」
「ふーん、欲が無いんだ?」
「欲、無いのかなぁ?」
自分の事なんか分からないよと言いたげに頭を掻く佐藤の前で、おもむろに閃石はシャツを脱ごうとした。
「天気予報は嘘つかないねぇ、本当に暑くなってきたかも」
白いシャツがめくれ、ハリのある素肌が目に入る。佐藤は慌てて麦茶に口を付けた。顔をテレビの方に向けつつ、横目でチラチラと閃石の様子を伺う。
彼女は佐藤がいることなど大して気にも留めていない様子で、シャツを胸元まで捲っていく。淡い桜色の下着がちらりと目に入った。それを見ながら、佐藤は空っぽのコップに口を当てて生唾を飲み干す。自分の鼻息が荒くなっていることが分かる。コップに呼吸音が反響するのだ。
「欲、無いって嘘じゃん」
ふと、シャツを脱ぐ手を止めた閃石が呟く。
バレた。慌てて彼女の方を見た佐藤は、その表情を見て固まってしまった。そこにいた意中の相手は、両手でシャツを握りしめたままリンゴのように赤く染まった顔を笑顔にしてこちらを見ていたから。
「優介君のえっち」
「あ、いや……その」
いたずらな笑みを浮かべた彼女に、佐藤は何も言えず口をパクパクさせた。ただ、辛うじて口にできたのは「亜愛ちゃんこそ」だけだった。
「えへへ」
照れくさそうに笑う彼女から、佐藤は目を離すことができなかった。テレビの音だけが、ただひたすらにけたたましく時間の流れを教えてくれるばかりで。
「優介君、シャツ洗濯してあげるから、シャワー浴びてきていいよ。」
彼女の発言に、初めて佐藤は自らのシャツがゲロに汚れていたことを思い出した。自分の胃液で汚れた臭い恰好のまま、いい雰囲気を作ろうとしていたのかと思うと恥ずかしさが込み上がってくる。
「でも、着替えが」
「ちょっと小さくてもよければ、私のシャツ貸すから。部屋着はダボっとしたい派だから、割と大きいのも持ってるんだよ?」
自慢げに彼女の広げたXLサイズのシャツを見て、佐藤はありがとうと返した。内心「カレシャツならぬカノシャツじゃん!」と思ったが、そもそも彼女ですらないことを思い出して必死に言葉を飲み込んだ。
「じゃ、お先お借りします」
佐藤はそれだけ口にすると、シャワー室の扉を開けた。少し期待していたが、下着の類は干されてなかった。
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