第9話 お持ち帰り

「佐藤くん……」


 閃石の声が佐藤の耳元からした。キスではないと悟った彼が、ゆっくりと目を開いた。


「私のお家……来る?」


「……行く」


 佐藤は小さな声で、そう返事した。


 まるで時が止まってしまったかのような錯覚を覚えた。空を飛ぶ昆虫の模様すら肉眼で確認できてしまうほどのゆっくりとした時間。アルコールの比にならない異世界感が佐藤の脳を揺らす。全身が熱を持ったみたいに熱い。シャツ越しに感じる彼女の体温が、佐藤の心臓を刺激していた。


 ゆっくりと佐藤から離れた閃石亜愛は、ベンチから立ち上がると大きく深呼吸をして佐藤を見下ろした。


「よし、佐藤くんは待ってて。ちょっと先輩たちのところ行ってくるから!」


「え、あっ」


 佐藤が慌てて財布を出すのを見て、閃石は優しく微笑む。


「今日は私のおごり。だから今度、佐藤くんが私に奢って。二人きりの時に」


「いや、そういうわけには……」


「今日は一人五千円だから、そういうわけでよろしくね!」


 佐藤の返事も待たずに、閃石はたむろする大学生のもとへ走って行った。その足取りはどこか軽やかで、スキップをしているようにも見えた。


「やべぇ、大学デビュー……しちゃったよ俺」


 佐藤は独り言の後、小さくガッツポーズをした。誰にも見られないよう、本当に小さく。


「えぇ、亜愛ちゃん来てくれないの?」


「うっわ残念、おれ狙ってたのに」


「欲望だしすぎだろ! がはは!」


 離れた公園のベンチにまで聞こえてくる大きな声。遠くで男たちに囲まれている閃石の姿を眺めながら、佐藤は思った。まるで夢を見ているようだと。


「よ、佐藤くん。そんなに落ち込むなって」


 ふと佐藤と並ぶように男が腰かけた。彼は金髪の髪を短く切りそろえており、特徴的な顎鬚を指先で撫でながら笑う。


「見ろよ佐藤くん、お前のおかげで動画が絶賛大バズり中。ありがとなぁ、素敵な動画撮らせてくれてよぉ」


 彼は佐藤の肩に腕を回してベタベタと体を触る。


「汚れた甲斐があったってもんだな。お前のこれは勲章だぜ?」


 佐藤は彼の腕を振り払って睨みつけた。


「おぉ怖い怖い。まぁ、また月曜日から遊ぼうぜ、佐藤くん」


 彼はそう言い残すとベンチから立ち上がり、大学生たちの待つ方へ歩いて行った。途中、こちらへ引き返してきた閃石に語り掛ける。


「閃石ちゃん、よかったら今夜どう?」


「あ、結構です」


「そういう固いこと言わないでさ、ほら大学生っぽくいこうよ」


「本当に結構です、また月曜日に会いましょ、野辺地先輩」


 しつこく手を引こうとする男を振り払って、閃石亜愛は佐藤のもとへ帰ってきた。野辺地先輩は思ってたよりしつこくなく、閃石亜愛の背中に向けて大きく手を振るとそのまま居酒屋前で待つ仲間たちの所へ駆けていく。


 閃石亜愛は、佐藤の前まで戻ってくると、小さな声で「お待たせ」と言った。それから手を差し伸べた彼女は、目線を泳がせながら言う。


「じゃ、行こっか」


「うん」


 佐藤は彼女の手を取って、ゆっくりと立ちあがった。これから何が起こるのか期待で胸がいっぱいの男は、先ほどまでの失態などすべて忘れて軽やかな気分のまま閃石亜愛の手を握り締めた。


 人生で初めて握った異性の右手。手の先から伝わる彼女の体温が、これから先に起こることを示唆して胸をときめかせてくれる。彼らは三次会に向けて騒ぎ立てる大学生の集団を背にして、目的地へと向かうのであった。


 閃石亜愛の住まいは、先ほどの公園から電車で二駅離れたところにあった。意外と近い距離のせいも相まってか、佐藤優介の心は一向に落ち着きを取り戻してはくれなかった。右手と右足が同時に出てしまうほど緊張しきった彼を見て、意中の女性はクスッと笑う。


「佐藤くん、おいで」


「は、はい。お邪魔します」


 安っぽいアパートの二階。階段を上がってすぐの玄関。そこが閃石亜愛の部屋だった。扉の前には2―Cと書かれている。カメラ付きのインターホンと、鍵穴が二つ。慣れた手つきで錠を外した彼女が靴を脱いで振り返った。


「ちょっと狭いけど、平気?」


「ぜ、全然平気。むしろ狭い方が好き」


「えへへ、変なの」


 ニッと笑った彼女の表情に、佐藤の胸はますます高鳴りを抑えることができなくなった。彼はその場で一度深く呼吸をしてから玄関に足を運ぶ。ふわっとした甘い香りに包まれ、まるで別世界に迷い込んだかのような錯覚さえした。廊下からリビングに続くベージュの壁紙が、どこか優しさを感じさせる。


「靴は適当に脱ぎ散らかしていいから……ってか、自分で脱げる?」


「あ、うん。うん平気。大丈夫」


 佐藤は慌てて靴を脱ぐと、フローリングに足を付けた。靴下越しに伝わる微かなぬくもり。先ほどまで彼女がここに立っていたからだろう。間接的に味わう閃石亜愛の足裏に、背筋がゾクゾクした。


「おっと、大丈夫? まだふらふらしてるよ?」


 突然閃石は佐藤の手をもって首を傾げる。その仕草一つひとつにドギマギしっぱなしの彼だったが、ここまで来て決意が固まったのだろうか。ふらつく足で地面を強く押し返しながら、彼女の手をぎゅっと握り締めた。


 雰囲気が変わったことに気づいたのか、閃石が驚いたように佐藤を見つめる。佐藤はそんな彼女の頬に触れてみたくなった。少しでいいから、すべすべの肌を感じてみたい。目の前の女性に触れてみたい。しかし、この男にそんな勇気はなかった。


「さ、佐藤くん?」


「閃石さん……」


「……は、はい」


 でも、閃石は逃げようとはしなかった。ガチガチに固まって、中途半端に上げた佐藤の右手。彼女はそれにちらりと目をやると、怪しく微笑みを浮かべた。まるでむしろすべてを受け入れるつもりでもあるかのように、佐藤の手に自分の左手を添える。

 お互いにじっと顔を見つめ合ったまま、二人は膠着した。

 閃石に支えられるまま、佐藤の右手が誘導される。

 佐藤の右手が閃石の左頬に触れた。

 彼女が目を閉じて笑う。

 廊下を照らす蛍光灯が、時折チカチカと微かに揺れる。

 心臓の音だけがハッキリと聞こえる空間。


 荒い鼻息。


 飲む生唾。


 佐藤は勇気を振り絞って、一歩前に出た。

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