第8話 夜の公園、二人きり

「わたしたちはぁ」


「るりちゃんマジで黙っててください。……ぼくたちは別に怪しい者じゃないです」


「酔いつぶれて一人きりになった男ににじり寄る女が怪しくないわけないでしょ」


「それもそっかぁ」


「るりちゃんは黙っててください」


「君たちの目的は何?」


「ぼくたちは彼のペンダントを買い取りに来たものです。偶然ネットで見かけたもので」


 そう答えるきぃちゃんから一瞬だけ目を離した閃石亜愛は、佐藤に目線を移してから再び彼女たちを睨みつけた。


「それはできないわ。彼のペンダントはとても大切なものなの。彼自身がとっても大切にしている。これを売るなんてことができるはずないでしょう」


「そのようですね。ぼくたちも諦めていたところです。どんなに交渉したとしても彼には売る意思がないですから。だから引き下がろうと思ってたところですよ。ご安心ください」


「え、諦めちゃうのぉ?」


「るりちゃんは黙っててください」


「へぇ、諦めきれるんだ?」


「えぇ、ぼくたちは諦めがいい方です。帰りますよ、るりちゃん」


「えぇー、分かったよぉ。またねピンクのお姉さん。香水はほどほどにねぇ?」


 るりちゃんが手を振り、きぃちゃんが背を向ける。霞む視界の中、重たい目を開けていた佐藤ではあったが、気が付くと二人の姿は消えていた。まるで夜の霧に紛れるように。


 ふと、冷たい風が頬を撫で、佐藤は体をビクつかせた。


「佐藤くん、平気? 気分悪くない?」


 閃石亜愛に手を引かれるままベンチに腰かけた佐藤優介は、小さくうなずく。


「大丈夫、それより、お会計……」


「あぁ、私が代わりに払っておいたから気にしなくていいよ」


「さ、財布にお金あるから……」


 慌ててお財布を出そうとする佐藤だったが、その動きは閃石の手によって静止された。ひんやりとした手のひらが、佐藤の腕を優しくつかむ。不意な行動に目を丸くした彼に、彼女は優しく声をかけた。


「まだふらふらするでしょ、お金は後でいいから。ほら、先にこれ飲んで?」


 佐藤の頬に、冷たいものが押し付けられる。彼が受け取ったそれは、ペットボトルであった。


「水飲んで、いったん酔いを醒まさなきゃね」


 彼女は酔っていてキャップの外せない佐藤の代わりに蓋を開けると、優しく手に持たせた。


「自分で飲めそう?」


「大丈夫、ありがとう」


「もし飲めなかったら、飲ませてあげるからね?」


 ボトルに口を付けた男の耳元で、そっと囁く。その言葉の意味を考えて、彼は思わず咽た。


「ゲホッゲホッ、だ、大丈夫、大丈夫」


「ほんと? あ、先輩たちは飲みなおしに三件目行くらしいけど、佐藤くんは行けないよね?」


 彼女の言葉に頷きながら、佐藤は二口、三口と水を喉に流し込んだ。


 夜の風が少し暖かく感じる。先ほどまでは冷たかった世間が、ほんの少しだけ佐藤の味方をしてくれているような気がした。


「佐藤くん、この後どうする?」


「えっと、先輩たちに謝ってから帰ろうと思う」


 居酒屋で晒した醜態を思い出すと、頭が痛くなる。これは酔いのせいではないだろう。


 そんな佐藤にそっと寄りかかりながら、閃石は呟く。


「私はどうしよっかなぁ」


「閃石さんは、三次会行ったらいいんじゃないかな?」


「えー、どうして?」


「だって、みんなとまだ話してないことたくさんあるだろうし」


「うーん、それもそうなんだけどね」


 閃石亜愛は、そっと佐藤優介の肩に頭を乗せて続けた。


「なんか、私も疲れちゃったんだ」


「疲れちゃったのか……」


 佐藤は思わず目を閉じる。彼女のいい香りが鼻をくすぐり、胸が高鳴るのを感じたからだ。必死に心臓の音を押さえつけようとするも、体は全くいうことを聞いてはくれない。落ち着けと思えば思うほどに、胸のトキメキは大きくなるのだ。


「だって、先輩たちの会話聞いた? 特に男ども」


 少し声を荒げた閃石さん。それもまた可愛らしい。


「あいつら私たちの顔見て、誰をお持ち帰りするかって話題で盛り上がってたのよ?」


「そ、そうなんだ……」


「女子も女子で酔っぱらったら『終電逃しちゃう?』ですって。なんで終電逃すかどうかを男に聞いてんだよって」


 佐藤も男だ。イベントサークルの飲み会と聞いていた時から、正直そういう展開は期待していた。酒に酔った勢いで男女がお泊り。朝日が昇るまで一線を越えて……。とはいえ、今となっては夢物語だろう。


「閃石さんは、そういうの興味ないの?」


 居酒屋の前でたばこを吸っている集団を眺めながら、佐藤はそんなことを訊ねた。酔いが醒めたおかげか、視界がクリアになっている。一年生が三年生のススメに乗って、たばこを一本吹かして咽ている姿が目に入った。


「私かぁ……」


 佐藤に寄り掛かった少女が、小さくつぶやいた。


「……ちょっとは興味あったかな」


 佐藤の中で、大きな火種がバチリと心臓にぶつかった気がした。佐藤は少し体勢を整えて閃石亜愛を見つめる。彼女の小動物にも似た大きな瞳が揺らめいて見える。アルコールのせいに違いない。二人の顔は、真っ赤に染まっていた。


「ねぇ佐藤くん」

「閃石さん」


 二人同時に口を開き、再び静寂が訪れる。

 ドキドキという心臓の音が耳元で激しく鳴り響いていたが、これはどちらの心臓の音なのか、佐藤には全く分からなかった。ただ、時間が止まってしまったかのような錯覚。あと二十センチ。ほんの少し顔を前に着きだせば、唇に触れられる距離。彼女の鼻息すら聞こえてしまう距離。


「ねぇ佐藤くん」


 閃石の小さな唇が揺れる。


「私、一人暮らしなんだ」


 佐藤の心臓が今にも肋骨を突き破ってしまいそうなほどに音を立てた。酔いは醒めたはずなのに、めまいがする。でも不快なめまいではない。むしろ心地よさすら感じるほどだ。


「き、奇遇だね。俺も一人暮らしだから……その、一日くらい帰らなくても、誰にも、何も言われないっていうか……」


 佐藤が続きの言葉を言えずに口籠ると、閃石は彼の頬にそっと手を当てた。


「佐藤くん、顔真っ赤だよ」


 意地悪な笑みを浮かべて笑う彼女を前に、佐藤は頭を掻くことでしか誤魔化せそうになかった。そんな彼に寄り掛かったまま、彼女は続ける。


「こんなに顔が赤いってことは、まだ酔ってるってことだよね」


「そ、そうなのかな」


「そうだよ、きっと」


「うん、俺もそう思う。まだ酔ってるんだ」


「だよね」


「うん」


 佐藤の呼吸に合わせて、寄り掛かった閃石の体が揺れる。彼女の胸が、佐藤の腕にギュッと押し付けられた。


「佐藤くん、一人で帰れないでしょ……?」


「……うん」


 彼女が、ゆっくりと身を乗り出した。唇が次第に佐藤の顔へ近づいてくる。思わずめを閉じた男は、唇をぎゅっと突き出した。

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