第7話 売ることは出来ない
「それで、お二人は俺に何しろっていうんですか。馬鹿にしに来たんですか?」
「え? そうなのきぃちゃん?」
「そんなわけないじゃないですか。ぼくたちは単純に君のこれを……」
――おげぇぇ……。
――うわ! コイツゲロ吐いた!
――きったねぇ!
――ちょっとティッシュとって!
――タオル! 誰かタオ――
「――ちょっとうるさいです」
きぃちゃんがぶっきらぼうに動画を止めた。イライラした様子でスマホをダブルタップしたりスワイプしている。
――おげぇぇ……。
――うわ! コイツゲロ吐――
「――だからうるさいです」
「きぃちゃん、スクショ撮ったらいいんじゃないかなぁ?」
「スクショ? なんですかそれは」
「えっとねぇ、ここをこうやって……」
何やら楽し気に会話している二人を眺めながら、佐藤は再び表情を曇らせ地面を向いた。居酒屋で行われた惨劇を思い出すだけで、胃がキリリと痛む。再び吐き気が込み上げてきたが、これは酔いのせいではないだろう。
「あった。これですよ、佐藤さん」
きぃちゃんが佐藤の顔を覗き込むように屈んだ。その手には拡大された佐藤の写真が写っていた。吐瀉物にシャツを汚しながら仰向けにひっくり返る情けない自分の姿に、思わず目をそらしたくなった。
「ほらここ、これ見てくださいよ」
「なんだよ……」
彼女がさらに画像を拡大し、指をさす。そこに映し出されていたのは、佐藤のペンダントだった。
「これ、見たとき驚きましたよ」
「これって、ペンダントのこと?」
「ええそうです。このペンダント、もしかして宝石みたいな甲虫じゃないですか?」
「えっと、そうだけど」
佐藤はシャツの内側からペンダントを取り出した。夜の公園でも、街灯やスマートフォンの明かりを受けてキラキラと輝く。その美しさに、女性二人が息を飲む。
「これがどうしたんですか?」
佐藤がペンダントを二人に見せると、彼女たちはまじまじと虫の姿を観察し、なにかを確信したように手を取り合う。明らかに喜びの表情を浮かべた彼女たちは、声を大きくする。
「本物だ! きぃちゃんこれ本物だよ!」
「間違いありません!
二人は佐藤のペンダントに手を伸ばしながら嬉しそうに黄色い声を上げる。
「これ、ぼくたちに譲ってくれませんか?」
「は?」
佐藤は言葉を失った。どうして初めて出会ったばかりの女性二人に母の形見をくれてやらなきゃいけないのか、全く見当がつかない。例え相手が惚れた女性だとしてもこればかりはあげられない。とても大切なものなのだ。それを見ず知らずの人間に渡すはずがなかった。
「絶対ダメだ。そもそもお前たちは何者なんだよ」
二人は明らかに残念そうな表情を浮かべた。
「なんでダメなのぉ?」
るりちゃんと呼ばれた方がキョトンとする。
「ダメなものはダメ。これは……」
「大事なもの、なんですね」
きぃちゃんがスマートフォンをポケットの中にしまった。それから少し考えたそぶりを見せて口を開く。
「では、いくらで売ってくれますか?」
「……は?」
今度は佐藤がキョトンとする番だった。
「ですから、いくらでこちらをぼくたちに売ってくれますか?」
「売るって……」
「言い値で買いますよ。十万でも、百万でも」
彼女の眼差しは真剣そのものであった。
「なんで、なんでそんな……」
理解できない。佐藤はゆっくりとブランコから立ち上がる。それから、一歩、また一歩と彼女たちから離れるように後退った。しかし彼女たちもまた、一歩ずつ近づいてくる。本気の表情だ。
「これは、これは絶対に売れない」
「絶対に絶対ですか?」
「絶対に絶対だ」
ふらつく足で佐藤は距離を放そうとする。それでも彼女たちは離れてくれない。手を伸ばせば届くギリギリの距離を保っている。
「ぼくたちにとっても大切なものなんです、その虫は」
「じゃあ自分で捕まえたらいいだろ」
二人の圧に屈したのか、佐藤の声は震えていた。
「これは俺がガキの頃自分で捕まえたんだ。お前らだって探せばいいだろ」
「捕まえた? 自分で捕まえたんですか?」
「ああそうだよ! 俺にとってこれは思い出なんだ。だから売れない」
ふと、母親との思い出が脳裏をよぎった。蝉の鳴く森の中、小さな虫取り網を両手で握りしめて駆け回った記憶。母親が心配そうに声をかける中、バッタやトンボやカブトムシを捕まえては自慢した。こんなに捕まえたんだよと母親に見せつけるたび、嬉しそうに笑ってくれた。
初めてダイヤモンドのような虫を捕まえたとき、母親はそれを思い出にしようと言ってくれた。もし何かあって離れ離れになったとしても、絶対に母親を忘れないおまじない。ペンダントを握りしめるたびに今でも思い出すことができる。人工樹脂で固めた標本を、二人で作ったあの頃。
「これは俺にとって、世界で一番大切なものなんだ。だから売れない。絶対に売れない」
ペンダントを強く握りしめ、佐藤はキッと二人を睨みつけた。
「えぇー、そんなこと言わないでよぉ。ほら、お金ならたくさんあるからさぁ」
るりと呼ばれた女性は、右手でお金のハンドサインを作ってにじり寄ってくる。揺れるべきところが大きく揺れ、佐藤は目をそらした。今の佐藤には色仕掛けなど通用しない。
「るりちゃん、やめよ」
「え? どうしてきぃちゃん?」
小柄な女の子は、歩みを止めて佐藤を見上げた。
「あなたにとってそれがとても大切なものだってことは分かりました。だから諦めます」
「えー、諦めちゃうのぉ?」
るりちゃんの質問に、きぃちゃんはハッキリと頷いた。
「諦めます。その代わり、自分で探します」
思いがけない返答に、佐藤は驚いて訊ねた。
「え、探すって……本当に?」
「えぇ、だから佐藤さん、教えてくれませんか? その虫を捕まえた場所について」
彼女の真剣な眼差しに佐藤は言葉が詰まった。
彼の脳裏で、母親との約束が過る。
――絶対にどこで見つけたか言っちゃダメよ?
その言葉の理由を、彼は知らない。だが母親との約束だ。破るはずがない。
「それは……言えない」
「えぇ、どうしてぇ? こっちは諦めたのにぃ?」
頬を膨らませて抗議の意を見せるるりちゃんを制止しながら、きぃちゃんは人差し指をペンダントに向けた。
「佐藤さん、あなたはそれが何なのか、分かってるんですか?」
「……え?」
質問の意味が分からず首を傾げた佐藤に対して、彼女が何か言おうとした時だった。
「ちょっと、佐藤くん大丈夫?」
佐藤の腕を誰かが握りしめた。慌てて振り返ると、そこにはツインテールをなびかせながら不安げな表情を浮かべる美少女の姿が。閃石亜愛が立っていた。ふわりと鼻先をくすぐる彼女の香りに、思わず佐藤の胸がドキンと音を立てる。
「せ、閃石さん?」
「ごめんね佐藤くん、待たせちゃった」
「あ、いえ。こちらこそ色々ご迷惑をかけて――」
「――あぁ、その話は後ででいいや。そんなことより、君たち誰?」
閃石さんが険しい表情を見せた。こんな顔もするのかと、佐藤は思わず見とれてしまう。
「わたしたちはねぇー」
「るりちゃん黙っててくれますか?」
るりちゃんを制したきぃちゃんは閃石を睨みつけてから、少し距離を開ける。るりの方も彼女に倣って一歩後退りながら閃石ときぃの表情を見比べる。
「えぇ、なんで? ……あぁ」
なにかを察したのだろう。るりちゃんの表情からも笑顔が消えた。二人は警戒した様子で腰に手を回した。
「君たち、誰なの? 佐藤くんに何の用?」
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