第6話 夜風を浴びる公園にて

 あれから十数分後。夜の公園で佐藤優介はブランコに腰を下ろした。錆びた鎖がギィィと耳障りな金属音を発する。


 四月中頃の夜風は冷たい。アルコールに熱された肌から、無理やり熱を奪い取られる感覚は非常に不愉快だった。

 視界に移るのは、スナック菓子の袋が埋まる砂場と、遠くでたむろするたばこの火。空を見上げてみても星は一つも見えなかった。

 たまにゆっくりと車の走る音が聞こえてくる程度で、夜の公園は本当に静かだった。まるで佐藤の萎びた心を反映しているように、しつこいくらい風が吹く。誰も座っていないはずのブランコが、風に揺られて小さく鳴いた。


 佐藤は、染みのついたシャツを指先で拭ってからため息をついた。それから指先を自らの鼻に近づける。


「おえっ……、マジかこれ……」


 酷いにおいだった。自分の嘔吐物がシャツやズボンにこびりついている。先輩たちにタオルで拭いてもらったものの、やはり繊維の奥に沁み込んだゲロはそう簡単に取れない。すっぱい衣服が鼻腔をくすぐり、再びむせた。


「はぁ……はぁ……あぁ、クソッ。何やってんだ俺」


 吐き気と共に口を大きく開けて俯く。今度は何も出なかった。それもそうだろう。はち切れんばかりに膨らんでいた胃の中身も、今や空っぽだ。あるだけ全部吐き出してしまった。


 閃石亜愛に連れられてトイレで全部吐ききった後、佐藤は先輩にこっぴどく叱られた。飲み比べ勝負をした時には誰も何一つ口出ししなかったはずなのにだ。自分の限界を超える量を飲むなだとか、酒に飲まれるなだとか、女の前でかっこ悪いと思わないのかだとか。皆口々に言いたい放題だった。


「ま、お前はまだまだガキってことよ」


 飲み比べ対決で勝利した二年生からはドヤ顔されるし、一年生からは少し離れた距離でジロジロと見つめられるしで、正直恥ずかしさから早く帰りたかった。


「とりあえず水飲みな?」


 誰がそう言ってくれたのかももう覚えていない。なみなみに水が入ったコップを渡された佐藤は、小さくお礼を言って口をつける。しかし、喉が焼けるように熱く、気管へと侵入してきた水に激しく咽込んでしまった。


「うえ、きったね」


「お前水くらいちゃんと飲めよ」


 先輩たちの怒号が飛び交う中、すみませんすみませんと繰り返し謝りつつ水を飲み進めた。冷水が喉を通る度、少しずつ酔いがさめていく感覚。視界が徐々にハッキリしていき、周りの声が聞き取れるようになった。


「お前一旦さ、店出とけ」


 三年生がポンと肩を叩く。佐藤はその言葉に小さくうなずいてから、鞄を持って席を立った。


「金は後ででいいから、とりあえず風浴びてこい」


 先輩の言葉に従い、佐藤はふらつく足で店を後にした。

 背後で三年生と二年生が言い合う声。酔いが若干冷めた佐藤の耳には、ハッキリと聞こえた。


「お前完全にあれはアルハラだったぞ」


「はぁ? 違いますよ。何言ってるんですか、そもそも飲み比べ始めたのは佐藤の方じゃないですか」


「お前なぁ、相手は初めて酒飲んだ奴なんだぞ? もっと加減くらいしろよ」


「とか言って止めに入らなかったくせに?」


「それは……」


 二人の会話を聞けば、ますます情けない気分にさせられる。そんな気がした佐藤優介は、少し歩みを早めた。

 すべての原因は自分にある。そんなことくらい分かっているのだ。

 だからこそ、責任の擦り付け合いを聞きたくはなかった。皆が遠回しに佐藤のせいではないとしてくれているのが情けなかった。佐藤が一番理解しているのだ。自制が聞かなかった自分の責任でこうなったのだと。


 それから佐藤は、店から少し離れた公園で一人ブランコを漕いでいた。

 夜風が湿った服をなびかせるごとに、頭がクリアになってくる。先ほどまで上がり切っていたテンションが格段に下がっていく。後悔ばかりが押し寄せてくる。


「何してんだろ、俺」


 佐藤の誰に向けてでもない独り言が、夜風に掻き消された。

 少し両足を地面から離し、ブランコを漕いでみる。まだアルコールが残っているのだろう。すぐにめまいがして、気分が悪くなった。

 慌てて靴で地面を擦って体制を整える。やはり夜空に星は見えない。居酒屋の方を見ても、誰かが出てくる気配はない。まだ揉めているのだろうか、それとも気を取り直して飲み始めたのだろうか。


「もう、帰ろうかな」


 鞄から財布を取り出した。残金は一万円札が一枚と、千円札が二枚だけ。先輩の誰かに謝罪としてこれを渡し、しっぽを巻いて逃げよう。

 そう思った時だった。

 急に耳元で声がした。


「あのぉ、ちょっと聞いてもいいかなぁ?」


「へ?」


 慌てて振り返ると、そこには長い黒髪の女性が立っていた。飲み会に参加していた人ではない。心当たりのない顔だ。


「あ、君だ君だ。君で間違いなさそう」


「えっと、誰ですか?」


 佐藤が恐る恐る訊ねると、女性は黒髪をなびかせて微笑んだ。青色のインナーカラーが街灯に照らされて輝きを放つ。優しそうな表情とは裏腹に、なんだか怪しげな雰囲気。


「わたしはねぇ、んっとぉ、通りすがり?」


「通りすがり?」


 佐藤がキョトンとした表情を見せると、女性は自らの唇に人差し指を乗せて斜め上を見た。どうやら何か考えているらしい。服装はかなりきわどい。ぴっちりしたシャツとスキニーパンツなのだが、へそが出ていたり大きな胸が張り裂けそうだったりと、どこに目をやればいいのか分からない。


「えっと、メルカリプレイヤーだよぉ!」


「は?」


 何か思いついたかのように両手をポンと打ち鳴らした女性だったが、正直何を言っているのか分からなかった。


「メルカリ……え?」


 首を傾げる佐藤にはお構いなしといった様子で、女性は身を乗り出して顔を近づける。


「そう、メルカリプレイヤー。だからね、わたしは君を探してたの」


「ご、ごめんなさいちょっと何言ってるか分からないです」


「んー、まぁ簡単に言うとお宝ハンターだよぉ?」


「うん、ますます分からないです」


 というより目のやり場に困る。本当に困る。巨大な胸が目の前で大きく揺れている。目線を落とせばわざとその視界に入ろうと屈んでくるし、目線を上にやれば顔を近づけてくる。


「あの、いったい何なんですか!」


 思わず佐藤は声を荒げた。正直今はダル絡みが非常に迷惑だった。一人になりたい感情に身を任せて、執拗に絡もうとする女性に対し大きな声で威嚇する。もしかしたら、八つ当たりの意味もあったかもしれない。

 心底嫌そうな表情を見せた彼に対し、女は意地悪な表情を浮かべた。


「あーあ? わたしにそんな口のきき方してもいいのかなぁ?」


「へ?」


「そういう悪い男の子はぁ……」


 何やらただならぬ雰囲気に、ゴクリと唾をのんだ。


「コチョコチョしちゃうぞぉ!」


「……?」


「……!」


「……えっと?」


「がおぉ! がるるるるぅ!」


 くすぐる手の動きを見せながら、彼女は両手を広げた。そのあまりにも滑稽な行動に、佐藤の思考がフリーズする。


「るりちゃん、さっきから何をしてるんです……かッ!」


 突然大きな衝撃音が鳴り響いた。その音の大きさに思わず佐藤の体がビクッと震える。


「うぅ、痛いよきぃちゃんー」


「るりちゃんが適当なことやってるからですよ、まったく」


 よく見れば、るりと呼ばれた女性の陰からもう一人女の子が出てきた。小柄な金髪の女の子は、ショートボブに切りそろえられた髪の毛を指先でいじりながらこちらを睨みつける。

 彼女は大きなバットに似た何かを握りしめたまま、るりを睨みつけていた。もしかしてその棒で殴ったのだろうか。痛そう。


「もう一人……居たんだ」


 佐藤が思わず零した言葉に、きぃちゃんと呼ばれた女の子が牙をむいた。


「あぁん? 今ぼくの事小さいって思いましたね? チビ糞だって思っちゃいましたね!」


「いや、思ってない、思ってないです!」


「どぉどぉ、はいきぃちゃんどぉどぉ! 怒らない怒らないぃ」


「ムキ―!」


 るりちゃんに押さえつけられて、きぃちゃんがじたばたと暴れている。いったいこの二人は何者なのだろうか。まったく状況がつかめていない佐藤に対し、きぃちゃんがそっとスマートフォンの画面を見せた。


「これ、あなたですよね。佐藤さん」


「へ?」


 夜の闇の中、スマートフォンの画面だけが煌々と明かりを灯し、佐藤の顔を照らした。スピーカーから聞き覚えのある会話が流れる。


 ――おげぇぇ……。


 ――うわ! コイツゲロ吐いた!


 ――きったねぇ!


 ――ちょっとティッシュとって!


 ――タオル! 誰かタオル!


 ――やべぇって!


 ――店員さん呼んで! 早く!


 ――ちょっと、佐藤くん立てる?


 そこに映し出されていたのは、つい先ほど居酒屋で行われた光景そのものだった。


「どうして、これを」


 女性二人は一瞬顔を見合わせて口を開いた。


「ティックトックで流れてきたんだよぉ?」


「今、若干バズってますよ。『大学一年生、新入生歓迎会で早速やらかす』って。投稿されて十分でこの視聴回数はかなりいい初速度ですね」


「偶然流れてきてわたし達も慌てたんだよぉ」


「本当に偶然近くにいたもんですから、君にお会いしたくて特定したんです。ここの店は以前来たことがあって、食器に書かれたロゴからも特定は余裕でしたね」


 佐藤は頭を抱えた。新入生歓迎会で恥をかいたかと思えば、今度は全国展開だ。バラ色のキャンパスライフなんて夢のまた夢。遠くに行ってしまった。

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