第4話 佐藤優介の敗北
「おいおいどうした佐藤くん、もうギブアップかい?」
「はぁ、はぁ、まだ。まだ行けますよ……ええ」
「本当かぁ? 全然減ってないぞ?」
「行けます、行けますって」
佐藤優介のペースが格段に落ちていた。テーブルの上には無数の空になったジョッキが置かれている。
一杯飲み終える度に店員を呼び出すのは効率が悪いと判断したらしい。数杯分をあらかじめ注文していたようで、まだ手が付けられていないジョッキも数本置かれていた。だが、それをはるかに超える量の空ジョッキ。少し席を離れただけなのに、尋常じゃない飲みっぷり。
「佐藤くん、大丈夫?」
佐藤の隣に戻ってきた閃石が、そっと水の入ったグラスを差し出してくる。
「あ、ありがと……」
負けを認めたくないのだろう。悔しそうな表情を浮かべたまま、彼は受け取ったグラスの水を飲み干した。酔いで真っ赤になった顔から汗が噴き出す。めまいが止まらないのだろう、鼻息を荒くしたままテーブルに突っ伏した。
「佐藤くん、君の負けだね」
「……まいりました」
にやけ顔のまま、先輩はさらにビールを一気に飲み干した。それを見て、佐藤は椅子に深く沈み込む。彼の表情からも、もうこれ以上飲む気など無いことが見て取れる。
「佐藤くん本当に大丈夫? お水、お代わりする?」
「大丈夫だよ、ありがとう閃石さん。でも、俺負けちゃった」
悔しそうな表情を見せる彼に、閃石亜愛は首を傾げて不思議そうな表情を浮かべた。
「あぁ、いや。なんか、かっこいいところ見せたいなって、思ってさ」
酔いが回って苦しいのだろう。佐藤は息継ぎを挟み挟みそう答えた。しかし、閃石亜愛の答えはあっさりしたものだった。
「未成年が格好つけてお酒飲んでも、背伸びしてるだけにしか見えないよ?」
「うっ! グサッと来た!」
佐藤との会話を盗み聞きしていた先輩にも刺さったようだ。
佐藤優介は、どこか居心地が悪そうに小さく笑った。
閃石亜愛から目をそらすように頭をポリポリと掻きながら、胸のペンダントをシャツの内側から取り出す。
母の形見のペンダント。子供の頃、母親と一緒に捕まえた甲虫を人口樹脂で固めたお手製ペンダント。これを握りしめるのは、もはや癖のようなものだった。
「佐藤くん、それ」
閃石亜愛の目の奥が興味の光を見せた。その一瞬の表情を、佐藤は見逃すはずがなかった。意中の女性と話をするきっかけが欲しかったのだ。飲み比べがダメでも、まだチャンスはある。
「あぁ、これ綺麗でしょ。昔捕まえたんだ」
「昔、捕まえた?」
明らかに閃石亜愛の表情が変わった。まるでおとぎ話を聞く幼子みたいに、夢を抱いた表情を見せる。
こんな顔もするんだと、佐藤は思った。
今日であったばかりの子だが、たった一日で色々な表情を見た気がする。隣に座って様々な話をするたびに、どんどん興味がわいてくる。もっとこの子の事を知りたい。そう思った。
「閃石さんは、虫好きなの?」
「私?」
「うん、なんだか目がキラキラしてたから」
酒のせいか、呂律がうまく回らない。それでもしっかり伝えようと、優しいトーンでゆっくりと話をする。
「閃石さんも、俺みたいに虫が好きなのかなって思ったんら」
閃石は、しばらく悩んでからそっと右手を佐藤の胸元に向けた。白くスラリと伸びた指先が、佐藤の首から垂れ下がっているペンダントを撫でる。優しくなでながら彼女は口を開いた。
「私はあまり、虫は好きじゃないかな。でもね、すごく綺麗でびっくりしたの。こんなにダイヤモンドみたいな虫初めて見た。半透明の見た目で、いろんな色に光って見える。不思議だなって」
「……ね、綺麗だよね」
佐藤は少し手を動かせば抱きしめられる距離にまで近づいてきた彼女から目が離せなかった。彼女も佐藤のことを意識しているのだろうか、頬が少し赤らんで見えた。
意中の相手が優しくこちらの胸元に手を乗せている。そんなシチュエーションに耐えきれるはずはなかった。
バクバクと鳴り響く心臓の音が鼓膜を揺さぶる。絶対向こうにも聞かれているに違いない。
「それにね、佐藤くんさっきからそのペンダント凄く大切そうにしてたから。きっととっても大事なものなんだろうなって思ったの。そう思ったらね、なんだか私にとっても大切なものに思えたんだ。おかしいよね、私のものじゃないのに。えへへ……」
「閃石さん……」
閃石亜愛はゆっくりとペンダントから指先を離し、佐藤と距離を置く。それでもやっぱり、胸の鼓動は早鐘のごとく鳴り響いていた。
「本当にきれいでびっくりした。どこかで買ったの? それとも、誰かのプレゼントとか?」
彼女がじっと佐藤の表情を見つめている。佐藤はゆっくりと首を横に振った。そして昔の記憶を思い返す。
「これは、偶然見つけたんだ」
「見つけた?」
「うん、昔お母さんと一緒に田舎で暮らしてたんだけどさ、そこで虫取りしてた時偶然捕まえたんだ」
「へぇ、こんなきれいな虫が日本にいるんだ」
「うん。俺も驚いた。それで、お母さんと二人で標本にしたんだ。俺にとっては、とっても大切な思い出の品」
佐藤優介は昔を懐かしむ表情のまま、右手でペンダントをゆっくりと傾ける。
金剛石にも似た甲虫が、居酒屋の照明を乱反射させて幾層もの輝きを見せる。赤や青、緑や黄色といった様々な色。キラキラと輝くそれは、もはや宝石そのものである。
「私もその虫、見つけることできるかな?」
閃石亜愛は佐藤優介が飲み残したビールに手を伸ばしながら訊ねた。
「どうだろうね、あれから村には行ってないから。でも、行けばいるんじゃないかな」
「そっか、ならさ。今度私も佐藤君の実家に連れて行ってよ」
「え?」
佐藤が慌てて目線を閃石に移す。彼女は少し照れくさそうに両手でジョッキを持ちながら、琥珀色の液体に目線を落としていた。
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