第1話 佐藤優介の大学デビュー
一方その頃、東京都内にある居酒屋の前で、
時刻はもうすぐ十八時になろうとしている。四月中頃の気温は自由気ままだ。お昼までは暖かかったはずなのに、夕暮れ時の今となっては少し肌寒い風がシャツをなびかせる。何か羽織るものを持ってくるべきだったかと、彼は少し後悔した。
この日、佐藤優介は人生初の飲み会に参加することとなっていた。とは言っても、飲むつもりはない。彼はまだ大学入学したての十八歳なのだから。酒を飲もうものなら未成年飲酒で補導されてしまうだろう。
「ちょっと、髪切りすぎたかな」
佐藤優介は、都内の私立大学に入学し、一人暮らしを始めたばかりである。高校生の三年間は野球部として毎日走り込みばかりさせられていた。正直そんなに野球が好きではなかった彼にとって、トレーニングばかりの日々は苦痛だったのだ。そんな彼にしてみれば、大学デビューは絶対に失敗できない。
故にサークル選びは慎重に行った。入学前からリサーチし、厳しいトレーニングは無く、適度に出会いがあり、思い出を多く作れる、そんな場所を探し求めた。
つまり彼からしてみれば大学サークル最初の飲み会こそが、今後の人生を大きく左右する特大イベントなのだ。
大学のパンフレットで一際楽しそうに笑う「イベントサークル」を見つけてから、彼は絶対に入会することを決めていた。
受験シーズンで伸びきった髪の毛は、都内の美容室でサイドだけ刈り上げてきた。流行りのツーブロックというやつらしい。服装も美容室に置いてあった雑誌で見た感じを再現した。シンプルなTシャツにスリムフィットなジーンズ。少しまだ寒いこの時期にはそぐわないかもしれないが、これが今年のトレンドだ。流行を抑えるのは大学生において基礎中の基礎。
こちらに一切興味を見せない人込みを眺めながら、彼は胸元からペンダントを取り出した。
「お母さん、俺無事に大学生になれたよ。ちょっと奨学金借りるのには苦労したけどさ。でもこれから俺、楽しい人生送るからね」
彼の手には、透明の人口樹脂で固められた甲虫が握られている。その甲虫は半透明で、まるでダイヤモンドのように様々な色を放っていた。これを握る度に思い出すのは母との思い出だ。幼いころに捕まえたこの虫を、母親と二人で標本にしたのだ。幼少期から今まで、肌身離さず持ち歩いてきた。彼にとって大切なお守りであり、母の形見である。
「お、君が佐藤君かい?」
ふと正面から声がかかる。
「は、はい!」
優介が顔を上げると、そこには四人の男女が立っていた。
「ようこそ我が校イベントサークルへ! 入学初日に入会希望持ってきてくれたの、凄くうれしかったよ。ごめんねぇ、今年度第一回のイベントが開かれるまで退屈させちゃって」
「いえ、この日を凄く楽しみにしてました! むしろ待ってる間が逆に楽しいっていうか、本当に大学生になったんだなって思えてよかったです!」
「お? おぉ、君めっちゃポジティブだね! いいねいいね。今日は思いっきりはしゃいじゃおっか!」
先輩たちに背中をドンと叩かれた優介は、歯を見せて笑った。
「はい! よろしくお願いします!」
時計の針が十八時ちょうどを指し示したころ、気づけば集合場所にはオシャレな格好をした若者で溢れかえっていた。パンフレットにも乗っていたイベントサークルの会長が人数を手短に数え、最後の一人が合流すると同時に号令をかけた。
「新入生を入れて二十三人、ちょうど全員集まったことだし出発するぞー!」
全員が彼に合わせて拳を掲げる。
「おー!」
佐藤優介の、バラ色のキャンパスライフが幕を開けた。
一同はあらかじめ予約していた居酒屋へ列をなして入っていく。
高校時代、大して仲のいい友達というものがいなかった佐藤優介にとって、ここは第一関門だ。もともと人の感情には敏感なタイプで、話を合わせたり一緒に笑ったりするのは得意なほうではある。しかしそれが原因で高校生の頃はいい人止まりだったのだ。
女子からは「異性として見れない」と言われるし、男子からは「相談相手って感じ」と距離を置かれてきた。
いや、距離を置いて来たのは優介自身の方なのかもしれない。皆友達を作るとき、少しダメなところを見せてそれをお互い受け入れ補っていくものだと古本屋で読んだ。にもかかわらず、優介はこれまで弱みを極力見せないように生きてきたのだから。
大学生活初の飲み会。ここで優介が目指すべきは、ちょっと友達になりたい面白い奴という評価である。
「はい、一年から奥詰めてけ」
会長の指示で、四人しかいない一年生が奥に詰められている。次に二年生、三年生と順番ずつテーブルをはさむように腰を掛けた。
「とりあえずビールでいいよな。一年はウーロン茶にしとけよ。えっと、お前成人してたっけ?」
「いえ、まだっす」
「んじゃ未成年が六人だな。店員さん、生十七、ウーロン茶六で。あと、みんな腹減ってるだろ。適当に頼んじゃうからな。すみません店員さん、これとこれと――」
テキパキと注文が進んでいく。優介はただ、呆然とそれを眺めることしかできなかった。
「ねぇ、緊張してるの?」
ふと、優介の耳元で透き通った囁き声がした。
「ふぇ?」
慌ててそちらを向くと、同じ一年生の女の子が照れくさそうに笑っている。
「あ、え?」
動揺を悟られまいと言葉を選ぶ優介に、女の子は再び訊ねる。
「君、こういう所来るの初めてでしょ? 緊張してるのまるわかり」
ひそひそと耳打ちする彼女の声は、小声の割に優介の耳にはハッキリと聞こえる済んだ音色だった。図星を指された佐藤は思わずドキッとし、その表情を見て彼女は微笑む。ふわりといい香りが漂ってきて、優介はなんだか不思議な感覚に襲われた。
先輩たちのざわざわと騒ぎ立てる声、遠くから聞こえてくる食器の当たる音、店員が注文を読み上げている、別の席で大きな笑い声があがっている。その全てが、どこか遠い異世界のように感じた。まるでラジオのつまみを捻ったかのように、周囲の音が小さくなっていくのだ。
それにも関わらず、目の前に座る女の子の言葉だけがハッキリと脳に届く。
「実は私も初めてなんだ。とりあえず大学入ったならサークルだよねって思ったんだけど、スポーツ系も文科系も、なんかガチっぽくて。できるだけ気楽なのがいいなって思って探してたんだけどさ。でも未成年なのにこういうお店入っちゃうの、なんだか悪いことしてるみたいでちょっと緊張しちゃうよね」
彼女はそう言って笑った。大きな瞳に長いまつ毛。笑った時にえくぼが見えた。大人びた雰囲気を出しつつも、仕草一つひとつがあどけなく、可愛いという言葉が最も似合う人だと佐藤は思った。
「あ、うん。俺もサークルは、ガチガチな所よりももっと、その。気楽な場所がいいっていうか、楽しいところが良いなって言うか、なんというか」
「えへへ、めっちゃ緊張しちゃってんじゃん。早口になっちゃってるよ?」
「いや、うん。俺も初めてで、緊張してて」
「やっぱり? だと思った。仲間だね」
そう言って笑顔を見せる彼女。どうやら佐藤優介十八歳、恋に落ちたようだった。
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