勇者マリオネット【前編】


「……もう、やめてください…勇者様……ッ」


「ひ、姫様……? え、どうしてこんなところに――危険です、離れてください! ここは魔王城の目前、どこにどんなタイプの魔物が潜んでいるか分かりません……っ! ここまでくれば、私でもあなたを守れるとは言い切れないのですから!!」


 曇天よりもさらに黒い――闇が空を覆っている。

 その闇に、赤い亀裂が走っている……魔王の膨大な魔力が、世界に影響を与えているのだ。


「城から溢れ出している赤黒く、どろりとしたこの液体は、魔王の魔力です……触れてしまえば、姫様の魔力も汚染されてしまう……ッ。一度でも汚染されてしまえば、内側から体を破壊されてしまいますッ、ですからっ、早く近くの町へ避難を――」


「あなたこそ……またこんなところまで……」


「――私は、勇者ですから」


「どうしてですかッッ! 確かに、過去の勇者が残した『意志』に、あなたは選ばれた――体に現れた紋章がその証拠でしょう……ですが、それだけです。それだけのことなんです――あなたが何度も何度も死を経験し、苦しみながらも魔王を倒そうとする必要はないでしょう!? 何度も、です……何度も見ています……。

 刺殺、殴殺、塵も残さず蒸発してしまう場面もありましたよね……、さらには焼死、溺死――落下死に、圧死。あらゆる罠と自然の脅威があなたを死に追いやりましたっ、小細工を使う魔物に多人数で襲われたことがあれば、たった一体の、巨大な魔物になす術もなく握り潰されたことだって――。……怖いでしょう? 死にたくないはずです……、あなたは、死んでもすぐに生き返る勇者の特性を持っていますが、だからと言って痛みに慣れているわけではない。あなたがッ、簡単に死んでもいい理由にはならないはずですッッ!!」


 姫が、勇者に駆け寄った。


 彼女はボロボロだった……。白く神聖な衣服は破れてしまい、しかも途中で脱げてしまったのか、裸足だ。荒れた大地を走ってきたせいか、足の裏は傷だらけで、肌が見えないほどに血に塗れている……。

 彼女だけの血ではないようだが……、その血の量が、姫の痛みを容易に想像させる。


 怪我よりも心の痛みの方が、よほど痛いのだろうけど。


「……ええ、確かに、私が与えられた使命を全うする必要はないのでしょうね……代わりなんて、恐らくはいくらでもいるのでしょうから……」


「あなたでなくとも構わない……あなたが辞退すれば別の人間が役目を全うする……それが分かっていながら、どうして……っ。使命ではなく、先人の意志に感化されたのですか……? 受け継いできた意志を、あなたで途絶えさせるわけにはいかないからと――」


「理由の一つとして、ありますが……魔王は数年もあれば、この世界を完全に支配してしまいますよ……当然、姫様、あなたの命だって奪われてしまうでしょうね……。――それだけは、避けなくてはならないことです」


 どうして、とは、聞かなかった。


 姫は、自身の価値を分かっている。

 多くの男性を魅了してきた自覚もある……人望だって、希望だって――持っている。


 自分が、世界から消えていい存在でないことは、重々承知だった。


「……魔王と和解することは、そう難しい話ではありません。我々人間が、多めに搾取されることにはなりますが……、全てではないのですよ。あらゆるものを奪われるよりはマシでしょう――魔王は、人間を生かす気でいるのですから。……勝てないと分かっている以上、逆らうのではなく、従うことこそが、人間がするべきことでしょう……いつだって、弱い国は強い国に取り込まれてきました。今回だって、それと同じことなんです……」


「魔王は人間とは違います。安全を約束してくれるわけではありませんよ――、利用価値がないと判断されれば切り捨てられるでしょう、そして、実際に利用価値がないかどうかは関係ない。魔王の私情一つで、人間という種の存続は左右される……。こんな状況で、人間の歴史が続いていくと思いますか? ここで、止めなければいけないんです――勇者である、私の手で。この『意志』で――魔王を倒さなければ……ッッ」


 勇者の手の甲に刻まれている紋章が、激しく輝き出した。


「……ここで仕留めなければ、魔王はさらに力をつけて、手に負えなくなります……、だから今しかありません。幸いなことに、私は死にません……いえ、正確には死んでもすぐに生き返ることができます……そういう勇者の力なのですよ。魔王に対抗する攻撃の力でこそありませんが、この不死の力さえあれば、いずれ、魔王を倒すための突破口が見えてくるはずなんです――だから私はまだ、死に足りていない。見えてくる活路まで、まだまだ遠い――」


「……もう、やめてください……、やめなさいよ……っ。あなたの死体を見るのは、私たちなのですよ? あなたは生き返る、と言いますが、あなたの死体が息を吹き返すわけではない。世界に点在している、紋章が刻まれた石碑の前に、あなたは新しい肉体と共に復活するんです……だからあなたの死体は世界中、あちこちに落ちたままなんですよ――。

 魔物に食い荒らされたあなたを、川に沈んでいるあなたを……何度見つけたことかっ。それに、小さな子供が発見して、トラウマになっていたりもするのです――あなたの不死はいくつもの死体を生み出し、その死体はあなたの意思に関係なく、人々に迷惑をかけている……っ。私だって、あなたがこうして生きているとは言え、かつてあなただった本物の死体を処分するのは、心が痛むのですよ……っ。もう、私を、あんな気持ちにさせないでください!!」


「……それでも、姫様……これは未来のためなんですよ」


「…………」


「私はもう、この意志からは逃げられない――だから」


 勇者はもう既に。


 ――自身の意思を、持っていないのかもしれない。


「もう戻れません。各地を周り、受け取った先人の想い……。知ってしまった以上は、ここで逃げることはできませんよ。私は、逃げる自分を許さないでしょう……、たとえ姫様のお願いでも、今回ばかりは聞くことはできません――私、は、」


 ――がふ、という声と共に、勇者が血を吐き出した。


 目の前には、隠し持っていたナイフを勇者の心臓に突き刺している、姫様の姿があって――



 綺麗な水色の髪が、勇者の赤い血で染まる――。

 全身、返り血で染まっていた彼女からすれば、今更の話だったが。


「……やりたくなかったの……なのに――、私の手で、あなたを殺させないでよ、バカ……ッ」


 勇者は、姫を糾弾することもなく、絶命した。


 彼は微笑んだまま――

 姫の頭を撫でるつもりだったのか、宙に手を上げたまま、彼は背中から倒れた。



「……勇者を殺しました。この場所から最も近い石碑の前に復活すると思います……、姿を見せたらすぐに眠らせてください……、いえ、意識を奪うなら手段は問いません。その後は、手足を縛って、地下牢獄にでも転がしておいてください……誰も近づけさせないように。――あとは、私が【元凶】を、どうにかします」


 はっ! と、地中に潜んでいた『忍び』が、行動を開始した。


 魔王城を目前にして、姫は一人きりである――。

 帰るつもりはなかった――、元より、魔王城に用事があったのだから。


(私が魔王を倒す? そんなこと、無理に決まっているでしょう。それに、魔王は元凶ではありませんし……、勇者様が世界各地の石碑を起動してくれたおかげで、先人の意志を読み解くことができるようになりました……。勇者様は気づいていませんでしたが、石碑に刻まれた文字は、立方体の各面にあります……ですが、唯一、底面は地面に埋まっているせいで見えないのですが……、確かにそこに、文字はあったわけです――)


 見えている面だけに文字があるとは言い切れない。


 だから姫様は(正確には忍びが、だが)石碑の地下を掘り進め、底面の文字を確認した――地下から石碑を確認すれば、底面は天井にある。そう――文字が、読めるのだ。


(先人の意志ではなく、勇者を操っている元凶がいる――それは、先人が言うには『神』と呼ばれる者だそうですが……しかし、この世界の神とはまた違う存在——、私の立場上、神とは会う機会もありますからね……。

 この世界の神に聞いてみれば、勇者を裏で操っているわけではない、と言うではないですか。では、神と呼ばれていても、この世界の神ではないということになる――となれば、)


「この世界とは違う、異世界……もしくは別次元に存在する神――」


 その存在を止める、もしくは倒すことができれば、勇者は無駄死にを繰り返すことはなくなる――。


(一つだけ、大掛かりな大魔法があります……普通なら使い道がなく、事前準備も多く、確実性だって保証されているわけではない……代償も大きな大魔法です。使う機会もなさそうな魔法ですが、やはり、大掛かりなだけあって、こういう場面で日の目を浴びますか……っ!)


 生きていて、一度も使う機会などないだろう大魔法だ。


 こんな状況でもなければ。


 こんな状況だったとしても、使うかどうかは分からない魔法とも言えた。


(……だけど私は使います。でも……私の魔力では足りない……、この命の全てを使っても……だから、助けが必要です。膨大な魔力を持ち、条件次第では手を貸してくれる強大な存在――だって、手はこれしかないんですから。

 世界を跨ぎ、別次元にいる元凶を呪殺する大魔法……その要となるエネルギーは、あの人しか――)




 …続く

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