第33話 酔夢の幻想譚:三題噺#98「世界」「酒」「紙」

 六月某日。仕事を終えたサカシタ君は、駅に向かう道中で見慣れぬ雑貨屋を見つけ出した。こんな店はあっただろうかと思いつつ、気が付けば店の中に足を踏み入れていた。普段であれば、早く帰りたいという気持ちが勝って寄り道などしないというのに。

 もしかしたら、ほぼほぼ定時に仕事を上がる事が出来たのも、彼の心に余裕をもたらしていたのかもしれない。


「いらっしゃい」


 何処か狸めいた店主に声を掛けられた。軽く頭を下げたサカシタ君の視線は、既に店主ではなく品物に注がれている。羊皮で作られ、不可思議な言語が表紙に刻まれた怪しげな本。半透明で内部に魚ともサンショウウオともつかぬ物が見え隠れする石、煌びやかな宝石(イミテーションかもしれないが)で飾られた試験管を用いたバーバリウム……まさしく珍しい品物の見本市と言った様相だった。

 その中で、サカシタ君が気になったのは一つの瓶だった。三百五十ミリリットルのペットボトルよりも小ぶりなそれには、金色とも琥珀色ともつかぬ液体がなみなみと入っていた。


「それは蜂蜜ですよぅ」


 囁くような声音が、瓶に入った液体の正体を教えてくれた。もっとも、声が聞こえる数秒前に「蜂蜜酒」と記されている事に、サカシタ君は気付いていたのだが。

 声の主は、金髪の小柄な少女だった。エプロンを付けている所からして店員なのだろう。淡い色の髪は染めているようには見えなかったが、面立ちは日本人のそれである。不躾とは思いつつも、サカシタ君は少女をまじまじと見つめてしまった。

 サカシタ君の眼差しなど気にせずに、少女は微笑みながら言葉を続ける。


「そのお酒、結構美味しいんですよ。と言っても、蜂蜜を使っているので甘みは強いんですけどね。甘いのが好みであれば、飲んでみるのも良いかもしれませんよ」


 この娘お酒なんか飲むのか。飲酒している事を隠さぬような少女の言葉に、サカシタ君はたじろいでしまった。しかしこの店員は単に童顔なだけで、実際にはきちんと成人しているのだろうと思い直す事にした。童顔だったり年齢不詳だったりする人は、世間にはごまんといるのだから。

 ともあれサカシタ君は蜂蜜酒を購入した。普通のビールや日本酒よりも高価だったが、珍しいお酒だからそう言うものなのだろう。


 家に帰って、早速蜂蜜酒の味を堪能してみた。店員の言う通り甘い甘い酒だったから、つまみを選ぶのには難儀した。だが結局ミニドーナッツを肴にして飲んでみたのだ。少し度数の高い酒だったらしく、ティーカップの半分ほどを飲む前に、眠気が襲ってきた。


 ふと目を覚ましたサカシタ君は、今自分が自室のアパートにいる訳ではない事を唐突に悟った。それどころか室内ですらない。仄暗く、しかし色とりどりの灯りが灯った商店街のような場所で、サカシタ君は棒立ちになっていた。

 ここは何処だろう。疑問を抱きつつも、サカシタ君の足は動いていた。歩くたびに石畳が淡く輝き、道や店を照らす灯りは燃える小鳥だった。普通の往来とは明らかに違う。もしかしたら、異に迷い込んでしまったのでは、とサカシタ君は思った。実はサカシタ君、サラリーマンだが執筆を嗜む事も度々ある。それ故に様々な本を読む癖も具えていたのだ。だからこそ、ついつい異世界と言う単語が脳裏に浮かんだのだろう。


「おやおや、新入りさんじゃね」

「珍しい、実に珍しいねぇ」


 好奇に満ちた声が投げかけられる。珍獣でも見かけたような眼差しに憤慨しつつ、振り返ってみて驚いた。声の主は人間ではなかったのだ。

 それは一見するとカピパラほどの大きさのネズミのようだった。しかしよく見れば、鼻先にはイソギンチャクの触手の様なものが生えており、独立した生物のように蠢いている。

 そんな生き物が、二匹も連れ立っていたのだ。珍獣ないし異形の存在を前に、サカシタ君はどうすれば良いのか解らずぼんやりしてしまっていた。

 すると異形の獣たちが、サカシタ君の手を引こうと触手を伸ばしてきた。


「折角だし、俺らの店に案内してやるよ」

「いいねいいね、それが良い」


 おいおいちょっと待てよネズ公どもが。別にあんたらの案内なんて要らねぇよ。ていうか店って何だよ。大ネズミに物理的に絡まれながらも、サカシタ君の脳裏には疑問が幾つも浮かんでは消えていた。

 と、何かがひらりと身を翻すのが見えた。はっきりと見たわけではないが、それもまた異形であるらしかった。柴犬ほどの大きさのそれは、青や緑を基調とした体表と、宝石めいた何かを身体の側面にぶら下げていたのだから。

 大ネズミは、何を思ったのか触手を引っ込めた。サカシタ君はよろけて、後ろ向きに転んでしまった。


「あいつ、※※猫じゃないか」

「何だよ。何であんな奴がこっちにいるんだよ。いつもは月にいるくせに」


 触手ネズミは慌てた様子で踵を返し、そのまま二匹仲良く逃走した。サカシタ君を置いたまま。あれは猫だったのか。言われてみれば、猫っぽい姿をしているかもしれないな。サカシタ君は青緑の毛並みを持つそれを眺めながら、ぼんやりと思った。

 幸いな事に、謎の猫はネズ公と異なりサカシタ君には無関心を貫いていた。彼(彼女?)は空を仰いでいる。何かを期待するかのように。

 と、青緑の猫が跳躍した。一度の跳躍で、猫は数メートルも飛び上がったのだ。のみならず、未だに高度は上がっている。猫はジャンプ力に優れているというが、それでも尋常ではない光景だった。

 猫が何を期待して跳躍したのかはすぐに解った。魚が二匹ほど、サカシタ君の隣に落ちてきたのだ。上空には魚が泳いでいて、青緑の猫はそれを狙っていたらしい。

 とはいえ冷静に分析している場合でも無かった。魚は群れを成して泳いでいたのだが、猫の襲撃に恐れをなし、分裂して高度を下げて泳ぎ始めたのだ。サカシタ君が立ち上がった時には、魚たちの群れが彼に肉薄していた。

 避ける間もなく、サカシタ君は魚の群れに取り込まれた。ぶつかった感触は薄い。しかしそのまま身体が浮き、単車を乗り回しているかのような速度で景色が動いていく。動いているのは、移動しているのはサカシタ君だった。いつの間にか、彼は魚の上にまたがる形を取っていたのだ。


 そしてそのまま魚たちの群れは月面へと向かい、そこでもサカシタ君の冒険があったのだが、それは省略する。話せば長くなるからだ。


 但し――これらの出来事は全て夢だった。月面に棲む兎たちと友誼を結び、バニーガールともお近づきになれそうだとほくそ笑んでいた丁度その時、サカシタ君は再び目を覚ましたからだ。そこは異世界めいた商店街でも月面でもなく、見慣れた部屋の一室だった。テーブルの上には飲みかけのティーカップとミニドーナッツを入れていた小皿、そしてコンタクトレンズほどの魚の鱗が何枚か落ちていた。


 そこでサカシタ君は、夢だと悟った。彼は夢を忘れぬうちにメモに書き留め、支離滅裂にならぬように注意しつつ文章に仕上げた。

 それこそが、彼の発表した「酔夢譚」なのだ。

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