第2話 きつねの火遊び:2

 あんたには才能がある。しかも血筋に恵まれているじゃないか。

 まだ陰キャでおどおどしていた俺に対して、そんな言葉を差し伸べてくれたのは、高校一年の春の事だった。

 そう言ってくれたのは、クラスメイトの間宮という男子で、もちろん彼も妖怪だった。もっとも、こちらは名門ながらも半妖で、向こうは野良の純血妖怪という違いはあったけれど。

 ともかく、間宮の言葉がくすぶっていた俺の青春を一変させたことには変わりない。それだけではない。彼の言葉や手ほどきによって、俺は妖怪としての力を伸ばす事を決意したのだ。

 そして月日は流れ、俺と間宮は異なる進路を選ぶ事となった。それでも俺と間宮の交流は嬉しい事に継続している。


 駅に向かう地下街の道中には、電柱と言わず壁と言わず、様々なチラシがベタベタと貼り付けられていた。

 チラシの種類は実に様々だった。喫茶店のメニュー、ホテルの案内、大学のオープンキャンパスのチラシ、コンカフェや系列のキャバクラの求人募集……万人向けのものも大人向けなものも、等しく仲良くピンで留められてぬるい風にあおられている。しかも、目立つようにどのチラシも色鮮やかに印刷されている訳だから、チラシの集まった壁自体が極彩色のアートであるかのように見えたのだった。


「マサくーん! 昼日中からヘンなお仕事のチラシでも見てるのかな?」

「何だ、かよ」


 いつの間にか立ち止まっていた俺は、ゆるゆると声のした方を振り仰ぐ。そこには一人の少女がさも当然のように佇んでいる。ぱっと見では十代半ば、高校生くらいに見える少女で、小花の散ったワンピースの上に、パステルカラーのフワッとしたジャケットを羽織っている。顎の辺りを覆うかどうかというほどのショートカットで、面立ちは美人というよりもむしろ可愛い系の部類に入るであろう。もっとも、可愛らしいのは見た目だけに留まるのだが。そして背後では白い一尾が揺れていた。

 少女はヤコと名乗っていた。それが本名なのか、妖狐の本性を示すためのあだ名なのかは解らない。しかし俺は彼女が名乗るがままにヤコと呼んでいた。ヤコは俺に絡んでくる割には多くを語りはしないし、俺も俺で、ヤコの事については特に興味は無いからだ。

 さてヤコはというと、軽やかな足取りで俺の許ににじり寄り、悪戯っぽい笑みを浮かべた。おとがいの辺りにさり気なく指を添え、小鳥のように首を傾げながら。猿みたいな普通の男子には、そんな仕草が可愛らしく見えるのだろう。

 忌々しいほどにあざといだけじゃあないか。醒めた心でもって、しかし表向きは無害そうな笑みをたたえながら俺はヤコを見つめていた。あざとかろうが可愛がろうが、所詮彼女は凡狐の小娘に過ぎない。だが敢えて俺は、愚鈍で気のいい男であるように振舞っていた。隙を見て彼女をときのために。

 ああそれにしても、ヤコのやつは、俺が変なチラシでも見ていると思っているのだろうか?


「別に変なチラシばかり狙って見てたわけじゃねぇよ。ただ、何処の店も毎度の事ながら派手なチラシを出してるなーって思っただけさ。印刷代も馬鹿にならんだろうし」

「そうは言ってもねぇ、チラシでも何でも紙で打ち出した方が案外安全な場合もあるんだよね。ペーパーレスがあちこちで叫ばれて、それこそこうした広告も、大きなタブレットで表示していた時期もあったんだけど」

「それって確か、俺が産まれる前だよな」


 多分ね。俺の言葉にヤコは何処か悪戯っぽい様子で頷いた。


「ええと、厳密には二十年くらい前に転換点が来たんじゃないかな。私も詳しい事は知らないけれど、太陽の活動の影響で、電子機器が軒並み駄目になった時期があってね。そこでやっぱり、無闇に機械に頼っちゃあ駄目だってなった訳」

「ヤコ、あんた思ったよりも物識りなんだなぁ」


 俺は思わず感嘆の声を漏らしていた。この時はヤコの講釈に、素直に感心していたのだ。

 太陽フレアが地球上を襲ったのは二〇二五年の事だという。二〇二〇年代に押し進められていた人工知能だのVRだのと言った技術たちの進歩は、太陽が機嫌を損ねた事で一挙に後退したのだという。もちろん昭和のようにテレビもラジオも無い、などと言った原始的な生活にまで後戻りしたわけでは無い。ただ、何もかも電子機器に頼るのはマズいと大人たちが判断した事には変わりない。

 そう言う意味でも、情報を伝える手段として紙媒体は二〇四六年の世でもメジャーな代物なのである。


「まぁね。マサ君も知ってる通り、私は妖怪だからね。こう見えてマサ君よりも年上だよ? ふふっ、もしかしたら、私はしね」


 言いながら、ヤコは一人で勝手に愉快な気分に浸っているようだった。

 だが確かに、彼女が俺よりも年上であるというのは事実なのだろう。俺はもうすぐ十九になる若者に過ぎず、ヤコは少女の姿ながらも妖怪……妖狐なのだから。

 妖怪というのは恐ろしく長命な生き物である。生まれながらの妖怪の場合、肉体的に成熟するのに百年かかり、大人と見做されるには更に百年を要するともいう。十代半ばの姿を取っていたとしても、その時点で生後四、五十年は軽く超えているというのが妖怪なのだ。きっとヤコもそれくらいの歳なのだろう。

 それにしても。ヤコは顔をこちらに近付け、俺の顔を覗き込む。


「マサ君ってば大学の方から歩いて来たよね? 大学の授業はもう終わりなの?」


 つたなく計算したであろう可愛さを振舞いながらヤコが問う。こういう馴れ馴れしさと図々しさをはき違えた態度こそが男をいらつかせる要因なんだぞ。心の中で吐き捨てながらも、それでも俺も律義に応じてはいた。


「自主休講ってやつだよ。良いかヤコ。大学なんてのはな、真面目に出席するのが能じゃないんだよ。きちんと単位が取れればそれで良いのさ」

「そうなんだー。私、大学は通った事が無いから詳しい事は知らないの」


 ああだけど。ヤコはのんびりとした口調で言うと、何かを思い出したようにうっそりと微笑んだ。


「でも、マサ君が色々と工夫している事だけは知ってるよ。あの時だって、マサ君は分身を使って――」

「解った、解ったからみなまで言うな」


 口早に俺は言い、ヤコの言葉を遮った。

 ヤコが纏わり憑いて来る理由。それは彼女がある意味俺の弱みを握っていると思い込んでいるからだった。

 俺は大学生なのだが、講義などと言う物にはかったるくて殆ど顔を出さなかった。しかし顔を出さぬままだと単位は取れないから、分身を作ってそいつに講義を受けさせていたのだ。分身の方にはノートを取らせるように指示しているから、分身から記憶を吸い上げなくとも俺も授業内容をフィードバックできる。

 そしてヤコは、俺がそうやって分身術を活用している所をたまたま目撃したのだ。それ以来、ヤコはふらりと現れては俺と言葉を交わすようになっていた。

 彼女が話しかけてくる事などは他愛のない事ばかりである。「マサ君って玉藻御前の末裔なんだね」「またブラブラ遊んでるんだ。遊んでばっかりで大丈夫なの?」といった塩梅である。無邪気な調子で言ってのけるのだが、俺としては神経を逆撫でされるような気持になる時もしょっちゅうある。こいつ明らかに俺の事を馬鹿にしているだろう、と。ヤコの態度は、小生意気な妹の態度にそっくりだったのだ。しかも追い払っても効果は無かったし。

 結局のところ、俺はヤコに構うようになっていた。言葉を交わし、必要とあらばちょっとしたスイーツや飲み物とかを奢ってやるようにしたのだ。

 別に憑きまとってくるヤコに情が湧いたとか、好意を抱き始めたとかではない。そうやって俺が構うのは、ヤコに対する餌付けに過ぎなかった。押しが弱くてチョロい男であると思わせて、ヤコを油断させていたのだ。

 油断させてどうするのか? それは決まっている。ヤコを分からせて屈服させるためだ。別にこの女をカノジョとして迎え入れるという考えはない。しかしこの女はいささか生意気が過ぎる。そうした相手にお仕置きを施して服従させたくなるのは、ある種の本能なのだろう。そんな風に俺は解釈していた。

 要するに俺は、ヤコという獲物を狩るための段取りを行っているだけに過ぎないのだ。俺が動いた後では、ヤコはもはや小生意気な笑みを俺に向ける事は無いだろう。恐怖と恭順の眼差しをこの女狐が向けるであろう事を思うと、俺は興奮と歓喜で身震いしてしまうほどだった。

 そうだ。俺は確かに玉藻御前の末裔なのだ。残忍で淫蕩な大妖狐の血を引いているのだから、その気質や本能に抗う事の方が不自然なのではないか。

 だから俺がヤコを分からせようと思うのもごくごく当たり前の事なのだ。そんな風に思っていた。それに所詮はヤコも野良妖怪の一匹に過ぎない。妖怪同士が殺し合う事もままある世の中なのだ。俺が彼女を好きに扱ったとしても、烈しく咎められる事も無かろう。


「なぁヤコ。折角会えたんだしまたなんか奢るよ。地下街と言えども暑いし、喉も乾いただろう?」

「あ、マサ君ってば今日はちょっぴり親切なんだね」


 何かを奢るというと、すぐにヤコはその話題に喰いついた。疑似餌に喰いつく魚みたいだと思っていると、俺の携帯から電子的な着信音が響いたのだった。

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