第8話 体育祭
我が美しの丘学園は夏休み前に体育祭がある。
私は運動が苦手なので、体育祭前になると憂鬱で仕方がない。
しかもクラス委員として種目別の選手を決めるという面倒な仕事もあり、やっと昨日のホームルームで、リレーの選手やその他の選手を決定した。
けれどどうしても借り物競争の選手が決まらなくて、結局クラス委員である私が仕方なく選手になることとなった。
走るだけでも緊張するのに誰かに何かを借りなければならないなんて、考えただけでも胃が痛くなる。
けれど与えられた仕事はしっかりとこなす、それが私の唯一の取り柄なのだから、頑張らなければ・・・。
借り物競争を引き受け真っ青になった私に、あずみが心配そうな顔を向けた。
「皐月、ごめん。アタシが引き受けてあげたかったんだけど・・・。」
「ううん。気にしないで。大丈夫だから。」
あずみは運動神経が良いから、200M走と障害物競争の選手を掛け持ちしている。
それ以上の負担はかけられない。
放課後になると、リレーの選手がグラウンドで練習を始めていた。
教室の窓からその光景を眺めていると、白いTシャツに学校指定の黒いジャージズボンを履いた廉がウォーミングアップの為のストレッチをしているのが見えた。
相変わらず廉を見学する女子のギャラリーが多い。
やがて選手たちは白い線が引かれたグラウンドのスタート地点に立ち、ホイッスルの音と共に一斉に走り始めた。
走るのが苦手な私から見ると、どの選手も自信満々に見えて別世界の人間に見える。
4番目の列に廉の姿があった。
ホイッスルが鳴り、廉を含んだ選手達が一斉に走り出す。
廉はグングンと2位以下の選手を引き離し、圧倒的な速さでゴールした。
女子達の黄色い歓声が響く。
その颯爽としたしなやかな走りは、見ているすべての人間を魅了した。
もちろん私もその例外ではない。
あんなに恰好いい男子が自分の義弟だなんて、本当なら周りの皆に自慢したい。
けれど廉に学校では話しかけないで、と頼んだのは自分だ。
あれ以来廉は、私の教室へ来ることはおろか、廊下ですれ違っても視線さえ合わせなかった。
それは安堵とともに、淋しさをも運んで来た。
廉がクラスメートの女子と話しているのを見ると、なんだか胸がちくちくする。
廉は私との約束を守ってくれているだけ。
私が淋しいと思うなんて、身勝手すぎる。
そう思いながら窓の外の廉をみつめていると、廉が顔を上げた。
廉の視線が私の方を向いてるような気がして、思わず目を逸らす。
すると廉は一瞬だけ、私だけにわかるように、片手を上げ小さく手を振った。
心臓がどきんと音を立てる。
遠慮がちに私も小さく手を振り返す。
廉は大きく身体をジャンプさせると、再びグラウンドの方へ歩いて行った。
しばらくすると障害物競争の練習がはじまった。
あずみの姿も見える。
あずみが綺麗なフォームでハードルを越えていく姿が格好いい。
心底運動神経の良い人が羨ましかった。
彼等なら大きな障害も困難も軽く飛び越えていきそうだから。
体育祭当日。
運が悪いことに、生理が来てしまい、お腹がズキズキと痛む。
元々運動神経が良くないのに、体調不良・・・幸先が悪すぎる。
肩を落としながら身支度をし、玄関でスニーカーを履いた。
「皐月。大丈夫か?顔色悪いけど。」
いつの間にかエナメルのスポーツバッグを肩にかけた廉が私の背中に声を掛けた。
私は振り向き、微笑んでみせた。
「なに言ってんの?私は元気だよ?ほら見て?」
そう言ってガッツポーズを決める私に、廉はそっけなく「あっそ。ならいいけど。無理すんなよ。」と言って私を追い越して玄関を出ていった。
心配してくれたのに、強がりを言ってしまった。
どうして「ありがとう」って言えなかったんだろう。
素直じゃない自分が嫌で自己嫌悪に陥った。
体育祭が始まった。
所定の席に座って自分のクラスを応援する。
あずみの心配そうな顔をよそに、私は何回も席を立ち、お手洗いへ行った。
午後一番に私が出場する借り物競争の順番が回って来た。
鎮痛剤を飲んだからか、午前中より少しだけお腹の痛みが和らいでいた。
借り物競争の列に並び、とうとう自分の列の番になった。
ピストルの音と共に私はゆっくりと走り出した。
当然他の選手から遅れ、一番最後に机に置かれた借り物が書かれている紙を拾う。
その用紙に書かれたモノは「ハチマキ」
簡単なもので良かったと安堵した私は、応援席の方を向き、あずみの姿を探した。
そのとき、脇腹に差し込むような痛みが走り、おもわずお腹を押さえてその場にしゃがみこんでしまった。
痛いほどのギャラリーからの視線を感じ泣きそうになっていると、応援席から私の方へ走って来る廉の姿が見えた。
廉はあっという間に私の元へたどり着き、私の顔を覗き込んだ。
「皐月。大丈夫か?立てる?」
「うん・・・廉、ごめん。」
「いいって。」
「・・・・・・。」
「自力で歩くの無理そうだな。さ、乗って。」
廉は私に背中を向けた。
とまどう私に廉が大きな声で急かした。
「早く!」
「・・・うん。」
私は思い切って廉の背中におぶさった。
廉は私をおんぶしながら、ゴール地点に向かって歩いて行く。
「皐月。借り物はなんだった?」
「ハチマキ。」
「じゃあ俺のハチマキ、持ってろ。」
自分の頭に巻いてある白いハチマキを取った廉は、それを私に手渡した。
廉におんぶされてゴールする私の耳に、女子達の黄色い声が聞こえた。
廉はそのまま私を保健室へ連れて行った。
「あらあ。どうしたの?」
保健の先生は私達ふたりを見て目を丸くし、それから意味深な笑みを浮かべた。
「ナイトがお姫様をおぶってきたわけね。」
廉は私を保健室のベッドに降ろすと、先生に言った。
「こいつ、朝から調子悪かったんです。ゆっくり休ませてやってください。じゃあ俺、戻ります。」
「廉、ありがとうっ」
私の言葉に廉は「だから無理すんなっつったろ。」と少し怒った顔をして保健室から出て行った。
「あらら。照れちゃってまあ。」
保健室の米山涼子先生は長い髪を後ろで一本に結び、丸い眼鏡をかけた女の先生で、そのあっけらかんとした性格と親しみやすさから、生徒達からの人気が高かった。
「どこが痛いか教えてくれる?」
米山先生の柔らかい声に、固くなっていた私の身体の力もほどよく抜けた。
「朝、生理が始まっちゃったんです。お腹がずっとキリキリ痛くて・・・」
「鎮痛剤は飲んだ?」
「飲みました。」
「じゃあ、ベッドで横になってなさい。」
「はい。」
清潔な皺ひとつないシーツが掛けられたベッドに、私は潜り込んだ。
まだお腹は痛かったけれど、横になっているからか身体も心も楽になった。
私は廉の大きな背中とその匂いを思い出し、顔が火照った。
私ったら何考えてるの?
廉は義姉の窮地を助けてくれただけ・・・ただそれだけ。
「・・・廉にお礼しなきゃな。」
私は保健室の白い天井を眺めながら、そうつぶやいた。
「皐月!大丈夫?!」
日が暮れ、体育祭が終わると同時に、あずみが保健室へ駆け込んできた。
「競技中に倒れたって聞いて、もう心臓が止まるかと思った。」
「大袈裟だなあ。あずみは。」
「どうしたの?足でもくじいた?」
あずみは心配そうな顔で私をみつめた。
「ううん。お腹が痛くて・・・実は朝から調子悪かったんだ。」
「あ・・・もしかして、女の子の日?」
「うん。そう。」
「そっか・・・。」
「でもね・・・五代君が助けてくれたの。」
「五代君?なんで彼が?」
「た、たまたま近くにいたからじゃない?」
「・・・ふーん。皐月、本当は五代君と付き合ってるんじゃないの?」
「まさか!付き合ってないよ。」
「ま、いいけど。もう帰ろうか。皐月、起き上がれる?」
「うん。」
私が身体を起こすのを、あずみは背中に手を添えて手伝ってくれた。
私はあずみが教室から持ってきてくれたカバンを持つと、机で書き物をしていた米山先生に声を掛けた。
「先生。ありがとうございました。帰ります。」
「あらそう。もう大丈夫そう?」
「はい。」
米山先生は私達を見るとにやりと笑い、片手をひらひらと振った。
「気を付けて帰ってね。お姫様。」
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