闇を描く君

森山 満穂

   

 電気のついていない部屋で、キーボードを叩く音だけが暗闇の中に浮かび上がっていた。部屋の真ん中、ローテーブルの上のノートパソコンに向かって無言で手を動かしているそいつは、俺のことなんか目もくれないでブルーライトの光を顔に浴びながら、時折食い入るように虚空を見つめてはタイピングをし、また虚空を見つめてはタイピングをしを繰り返している。


 パチリ、と電気をつける。急に明るくなって眩しいからなのか、電気をつけられて不機嫌なのかわからない顔で、そいつはやっとこちらを見た。


「おいちょっと、電気つけんなよ」

「いや、普通帰ってきて暗かったら電気つけるだろ」

「俺は普通と違うんだよ。空気読め」

「誰の家だと思ってんだ」

「俺たちの家」


 その前の横暴な言動とは対照的に可愛い答えを出されて、つい口ごもる。


 一緒に住もうと言ったのは俺からだった。あいつは最初はぜんぜん乗り気じゃなくて、住んでいたところを追い出されてこのままでは路頭に迷ってしまうからと、しぶしぶ俺の家に来たのが半年前。あいつが住み始めてからも家賃と生活費は変わらず俺が払っていたから、負い目を感じていたのだろう。その当時は俺が何か提案すると、しきりに「お前の家なんだから好きにしろ」と借りてきた猫のように従順にしていたのに。


 言うようになったな、と微笑んでいると、不思議そうな顔で見られていたことに気づく。ごまかすように視線を逸らし、俺はすぐさま話題を変えた。


「で? 何してたの? こんな真っ暗な中で」


 その問いかけに、やつは静かに瞼を下ろす。そうして数秒じっとした後、穏やかな口調でぽつりとつぶやいた。

 

「観察してた。暗闇を」


 観察。こいつがよく口にする言葉。観察はものごとを文字に起こすにはとても重要なのだと、いつか話してくれた。どんなものも目で捉えるだけじゃなく、音、匂い、肌に伝わる感触、全神経を研ぎ澄ませて、そのものを注意深く観察することで良い文章が書けるのだと。

 こいつは小説家を目指していて、早朝のバイト以外の時間は日がな一日パソコンの前に座って文字を打っている。俺は本をあまり読まないので詳しくは知らないけれど、なんでも純文学というものを書いているらしく、文章にこだわるあまり、そうすらすらと書けるものではないらしい。執筆に行き詰まっては苦しそうにしているのをよく見かけて心配になる。だがそんな時、あいつはいつもいろんなものの観察を始めるのだ。空だったり、風だったり、はたまた人の言動だったり。


 そして今日は、暗闇を。ほとんど何も見えないものを観察するのに意味があるのかと思いつつも、俺は曖昧に相づちを打った。だが、やつは目ざとくこちらの心中を察して言う。


「あ、今、何も見えないだろって思ったろ?」


 ぎくりとする俺に、あいつはしたり顔で違うんだなぁ、とつぶやく。


「暗闇ってただ真っ黒なだけじゃなくて、ちょっと青みがかってたり、その中で蠢くものの輪郭が見えたりするんだよ。何にも見えないようで、実は案外多くの表情を持ってるんだ。見る人の心情によって見え方が違うこともあってさ。ただ真っ暗って一言でまとめるより、その闇が持ついろんな顔があるってことを俺は表現したいんだよね」


 言葉を紡げば紡ぐほどいきいきとしていくあいつの姿を見ながら、こういう時饒舌になるのもまた可愛いんだよなぁとしみじみ思ってしまう。こちらの反応も気にせず、あいつは夢中になって話し続ける。


「それに闇の中の光は面白いんだよ~。浮かび上がる光の美しさとか、 ちらつき加減で全然色が変わるし、明るいことへの尊さが感じられて俺は」


 好きなのよ、と最後の言葉に儚げな微笑みを乗せてつぶやく。どきりとした心を隠しつつ、ふーんと何でもないように振る舞う。


「ちょっと見てみてよ」


 そう言ってあいつは立ち上がり、電気を消しにスイッチの方に歩いていった。

 パチリ、と電気が消える。辺りは真っ暗になって、部屋の真ん中にあるブルーライトの光だけが煌々と存在感を露にしていた。その光を頼りにたどたどしい足取りながらもまっすぐ光に向かって戻ってくる足音がする。あいつはパソコンの前に腰を下ろすと、顔を上げてまた虚空に目を向けて静止した。


 やっと目が慣れてきて、あいつの輪郭が闇の中でぼうっと浮き上がってくる。華奢な体、ぼさぼさで伸ばしっぱなしだけれど細く艶めいた髪。大きな瞳は瞬きも忘れ、表面を薄い光がなぞって美しく輝く。確かに、いいな。そう思ってしまう自分に、いい加減嫌気がさしていた。




   *




 一緒に住まないかと誘ったのは、完全に下心からだった。俺は幼馴染みだったこいつのことを、昔からずっと好きでいる。だけど告白する勇気はなくて、かと言って想いに見切りをつけることもできずにいたそんな時、家を追い出されそうと聞いて、チャンスだと思ったのだ。一緒に住んでしまえば、他人の嫌なところが見えるというし、女の影が見えれば諦めもつくだろう。だがあいつは日中ずっと家にいるので、女の影は皆無に等しかった。さらに生活の中でいろんな一面を知ることで、よけいに好きなところが増えていく。そうして今の今まで変わらない現状が続いていた。実を結ばない恋だとはわかっている。世間の目も冷たいだろう。だからこそ、見切りをつけなければいけないのに。



   *




 ふいにあいつがこちらを見たから、反射で肩がびくっとなる。


「どう?」

「うん、まぁ、良いと思う」

「ハハ、何がよ?」

「えーと、光が、綺麗に浮かび上がるところ。なんか、神秘を感じるな」


 本当は、お前が、だけど。だろ~? と楽しそうな声を上げる姿に、また胸がときめく。同時にタイピングの音が重なって、真剣な眼差しが画面に注がれた。画面に文字列が増えていく。あいつの物語の中で、暗闇が描かれていく。その真摯な横顔に、やっぱり心惹かれている自分を、抑えることなどできるはずもなかった。できるならずっと傍にいたい。こいつが考えていること、見ているもの、全部知りたい。こいつが切り取る暗闇は、どんな表情をしているんだろう? ふと気になって、思わず尋ねてみた。


「お前はどんな風に書いたの?」

「……読んでみる?」

「え、いいの?」

「うん」


 近寄って隣に座り、パソコン画面の文字列を黙読する。


『暗闇の中で、あなたに見つめられているのがわかった。蠢く闇の中にちらちらと赤い光が見え隠れして、まるで私の心を覗かれているみたいだった。次第にそれは闇の中を脈々と這い回って、まるで生を持っているように見える。あなたの視線が、私を射竦める。どくどくと、鼓動の音が響く。とくとくと、暗闇に血液が巡る。隠した想いが、浮かび上がる。暗闇さえもこんな鮮やかな色に染まるのはきっと、あなたのせいに違いなかった。』


 これは。思わずあいつを見ると、上目遣いに視線を迎えられる。瞳には少し潤みが差して、頬がほのかに赤く染まっているように見えた。目を逸らし、ごくりと唾を呑み込む。こいつも、俺と同じ気持ちだと思っていいのか? でも、違ったら。もう一度目を合わせた瞬間、あいつは艶っぽく微笑んで。それでもう、俺は我慢の限界だった。


 ぱたりと片手でパソコンを閉じる。すると、途端に部屋中が闇に包まれる。すぐ隣にいるはずのあいつの表情は影に塗りつぶされて、まったく見えはしなかった。静かな息遣いだけが、互いに向いていることを知らせる。どくどくと、鼓動の音が耳の奥に響く。でも、いいんだろうか? 迷いが心を過ったその時、ふいに、あいつの薄い唇の輪郭が、すぅと赤い線で縁取られた。

 ああ、そうか。暗闇なら誰も、見てやしないか。


 その唇に、俺はようやくキスを落とした。

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