第18話:大脱走

「あぁそうだ、これを。食べるだろうかと思って干し肉を持ってきたんだが……」


 そう言って、青蘭が懐から包みを取り出して干し肉を見せようとすると、匂いをかぎつけたらしい子犬が、興奮して黒曜の腕の中から飛び出した。


「うわっ!」


 慌てて子犬を捕まえようとした黒曜は勢い余って傍にあった、衝立を倒してしまった。

 衝立が倒れたことで、連動して近くの机にあった物が床に落ちて大きな音を立てる。


「どうした⁉ 賊が侵入したか⁉」


 扉を開けて飛翔が中に入ってきて部屋の惨状を確認すると、人懐っこい子犬は知らない人が入ってきたことにさらに興奮して、飛翔に飛びついた。


「ひっ、いぬっ! く、くるな!」


 飛翔は後ずさりしながら逃げるが、子犬は遊んでもらっていると思ったのかさらに彼に近づいていく。


「飛翔? あなたもしかして、犬が苦手なの?」


「い、犬は、小さい頃に噛まれて以来、苦手なんだよぉ~!」


 飛翔が逃げ出すと子犬も後を追いかけて、部屋から出て行ってしまった。


「大変! すぐに追いかけないと!」


 私たちは慌てて、逃げる飛翔と子犬を追いかけた。

 飛翔は回廊を走って逃げるが、彼が逃げれば逃げるほど子犬も喜んで追いかけているようだ。


「何事ですか、騒々しい! 止まりなさい!」


 回廊の先に宰相と翠蓮がいたので、飛翔は素早く翠蓮の背後に回り込んだ。


「すいれぇ~~ん! 助けてくれぇ! いぬが、いぬが俺を襲ってくるんだぁぁぁ!」


「はぁ……何かと思えば。愛らしい子犬ではありませんか」


「だらしないぞ、飛翔。それでも国一番の武人か? ……おうおう、よしよし。こんなに可愛いのになぁ」


 そう言って、宰相は子犬を抱きかかえた。


 ――あれ? 青蘭から聞いた話とずいぶん違うような。


 追い付いた黒曜と青蘭も、あっけにとられたような顔をしている。


「おやおや、理央さまに青蘭さま。それに黒曜まで。どうなさったというのですか?」


 私たちは顔を見合わせた。これは隠し通せなさそうだ。

 観念して子犬を見つけたことや、ここに至った経緯を話した。


「宰相よ、其方は犬が嫌いではなかったのか? 幼い頃に私から犬を取り上げたではないか」


「それは誤解でございます。青蘭さまは幼かったからよく覚えていないのでしょうけども、あの犬は人間に感染する危険な病をもっていたのです」


「なんと……そうだったのか。てっきり宰相が犬嫌いで私から取り上げたのだと思っていたが」


「滅相もございません。もしあの犬に噛まれるようなことがあれば、青蘭さまも感染して命がなかったことでしょう。それゆえ必死でお止めしたのです」


 日頃優しい宰相が鬼の形相だったというのも無理はない。青蘭の命の危険がかかっていたのだから。


「――ねぇ、宰相。僕、この子をここで飼いたいんだけど、飼ってもいい?」


「そうですなぁ。ちゃんと世話ができるなら構いませんぞ」


 黒曜が訊ねると、宰相は穏やかに目を細めて頷いた。

 それを見た翠蓮が、まるで母親が子どもに言い聞かせるかのように話す。


「いいですか? 生き物を飼うということは天命を終える最期まで看取ってやらねばなりません。この子犬が大きくなり年月を経て老犬になったとしても、ずっとお世話をする覚悟がある者だけが飼うべきなのです。その覚悟はございますか?」


「大丈夫だよ、僕は長生きだもの。最期までちゃんとお世話するよ。だからお世話の仕方教えてね?」


「えぇ、もちろんですとも」


 翠蓮はにっこりと笑う。

 正式に宮中で飼ってあげられることになってよかった。

 私の部屋でこっそり飼うのも限界はあっただろうし、黒曜が直接お世話をできるなら子犬の為にもそれが一番だろう。


「それで、この子犬の名前は決まっておるのですかな?」


「まだなんだけど。どうしよう?」


 黒曜は私の顔を見た。何か良い名前は……と考えたところで、青蘭の言葉を思い出す。


“まるで麦の穂のような美しい色だ”


「麦、はどうかしら? 青蘭さまが麦の穂のような色だと褒めていたから」


「むぎ……麦! いいね! じゃあ麦にしよう!」


「おお、それは良い名だ」


 思いがけず名付け親となった青蘭もうれしそうに笑った。

 こうして、麦と名づけられた子犬は黒曜に飼われることになった。


 麦は専用の小屋を用意され、大切に飼われてすくすくと育っている。

 時折、黒曜が宮殿の中を麦と一緒に散歩する姿が見られるようになり、皆がその愛らしい光景に癒しを得ているようだ。


 飛翔は相変わらず犬が苦手なようだが、麦の方は飛翔が好きらしく、彼の姿を見つけると駆け寄って飛びつきに行く。

 その結果、彼の苦手なものが犬であることが宮中に広まったのは言うまでもない。

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