魔の物・下

 体を清めると言っても、そう多くのことはしない。これはあくまで草原の国の人間が戦いに行く時のための流儀であり、魔の物を滅ぼすために必要な手順ではないからだ。むしろ、必要な手順とは、自らの手で滅ぼす、これ一点のみだった。

 ユージェニーは屋敷の庭に張ったテントの中でアンリと共に火を囲んでいた。このテントは草原の国から持ってきた物で、その天幕には様々な刺繍が施されていたが、その一方で家具は暖を取るための大きな火鉢以外は何もなかった。


「本当は寝具やら、何やら色々あるんですけど」


 ユージェニーは金属製の二股のフォークで火鉢の中の燃料である、細枝と草をいじくりまわす。それらは小さ過ぎる燃料なので、上手く管理してやらないとすぐにすべてが燃え尽きてしまう。草原の国の人間が一番最初に教わる事がこの火の管理だった。


「そうなんですか」


 火鉢の中を見るユージェニーのことを見るアンリが、天幕に施された刺繍を見上げる。幾何学模様の物もあれば、動物を模したらしきもの、太陽や月、星を模したのであろうものもよく見えた。


「刺繍が草原の国の一番大切な文化で、これが文字で、絵なんですよ」

「とても美しいと思います」

「ま、私は下手だからあんまり触ったことないけれど」


 あっけからんと笑うユージェニー。そうですか、と小さい笑いを返すアンリ。

 僅かに心ここにあらずと言ったアンリは、テントの中に充満する煙と灰の匂いに、これがユージェニーの匂いの元なんだと一人腑に落ちていた。草原では炭や薪を用意することは難しいのだろう、だから草や低木からとれる小枝を使うのかもしれないと、アンリは草原の生活に身を馳せる。


「まだ時々冬の風が吹いているから、この火は暖かいですね」

「草原の冬は厳しいのですか?」


 アンリのその質問に、ユージェニーは顔を上げて、寂しそうな笑みを作る。


「厳しいね」


 言外に、人が多く死ぬ、と言われた気がした。

 アンリは目を伏せ、火鉢を見た。赤い、炎の無い火が緑と茶色へと広がって行き、それらがやがて灰色になる。多くの草木を燃やすから、出る灰の量も多い。それをアンリが少しずつ外の水瓶へと入れて行く。

 水瓶の中の水へと灰が解けていき、やがてそれらが底へと沈殿していく。


「戦いに行く前は、この灰と水で身を清めるんですよ」


 アンリは事あるごとに説明してくれるユージェニーに、堪らず、小さく声を上げた。


「恐ろしくは無いのですか?」


 その問いかけに、ユージェニーは火鉢へと視線を落とし、フォークの先をざくりと灰へと突き刺した。


「少しだけ、ですね」


 気負うことも無く言っているようにも、どこか不安そうに言っているようにも、どちらともとれる言葉に、アンリは何も言えなくなる。

 そして、しばらくの間沈黙が続く。

 灰と煙の臭いにアンリは仮面の中で浅く深呼吸をした。喉が乾く。

 次に言葉を発したのはユージェニーだった。


「王国では魔の物は出ないんですか?」

「滅多に出ませんね。出ても、ほとんどの場合聖騎士が撃ち滅ぼし、封じます」


 首長が滅ぼすわけでは無いので、魔の物はいつか湧いて出てくる。しかし、敬虔な聖騎士が太陽神の加護をもって、その湧き出る頻度を大きく減らしていた。


「征伐に私は反対です」


 だからこそ、アンリはユージェニーが討伐に行くことに反対だったし、多くの王国出身者も同じ意見を持っていた。しばらく様子を見て、本国に助けを求めようとすら考えていた。

 だが、ユージェニーは討伐に行く気を見せていたし、草原の国出身の全員がそれを支持していた。


「大丈夫ですよ」


 ユージェニーは水瓶を拾いあげ、その中の水を飲んだ。


「大丈夫です」


 そして、底に溜まった、不思議と水に濡れていない灰を体に振りかけた。

 火の匂いがした。



 次の日、ユージェニーとアンリ、そして彼女達の護衛を乗せた小舟が川を遡上していた。魔の物を討伐するのに多くの共は必要ない、だから討伐隊は僅か一隻だけだった。


「到着しました」


 船頭がそう言いながら、浅い川底に竿を差して小舟を一時停止させる。ユージェニーが立ち上がり島を見る。一見して、その島は何もない平和な島だ。しかし、現実にはこの島だけで何人もの人が死んでしまっている。慎重にその島をぐるりと小舟が周回していると、その木々の間に巨大な影が見えた。


「あれか……」

「確かに熊ですね」


 その巨大な影は確かに熊のように見えた。草原育ちのユージェニーは知らなかったが、国内に森が幾つもあり、剥製も見たことがあるアンリはその動物をよく知っていた。しかし、記憶の中にある剥製以上にその熊は大きかった。


「熊かあ、始めて見たな。もうちょっと近付いて」


 ユージェニーはそう呑気に言いながら、船頭に命じて船を島に近づけさせる。すると、熊もこちらに気が付いたのか、木々の間からのそのそと歩いてこちらへとやって来る。近づけば近づくほどその大きさが明らかになっていき、四足で歩いている状態でもユージェニーよりはるかに体高があるのが見て取れた。

 彼我の距離数メートル、波打ち際を挟んで熊とユージェニーが対峙する。船の上の人間全員が冷や汗をかきながら生唾を飲み込んだ。


「魔の物です」

「……これは確かに骨が折れそうだ」


 アンリが確証を出し、ユージェニーが槍を取り上げる。魔の物と確定した以上、この熊の処理は領主へと託された。


「狩りですか?戦ですか?」


 そして、船の上の誰かが厳かに声を上げた。アンリはその声の主に振り返る。そこには、いつも二人についている侍女がいた。彼女は目を伏せ、頭を下げていた。


「戦だ」


 その問いに答えるは領主ユージェニー。彼女は小舟の縁に足をかけてそのまま島へと向けて飛び掛かった。


「まっ……!」


 振り返り、「待って」と言いかけたアンリが手を伸ばすがもう遅い。ユージェニーはためらいも無く川を越え島へと足を付けてしまった。


「無謀でしょう!」


 そう悲鳴を上げるものの、草原の国の人々は何も言わなかった。唯一船頭だけが心配そうなうめき声を上げるだけで、アンリはそんな雰囲気にかっと頭に血が上る。


「あなた方は何も対策を取らずに領主に戦わせるのですか!?」


 その悲鳴に似た叫びに侍従が目を伏せながら口を開く。


「シフでありますれば」

「シフ……」


 アンリが、今までも何度も聞いた事のあるその呼び名の意味を問いかける間もなく、島から野太い吠え声が響き、彼女は振り返る。そこには、岸辺と森との境界で立ち上がった熊が、今まさにユージェニーに覆いかぶさらんとしていた。

 熊が立ち上がればその大きさはユージェニーの倍以上にも上り、その艶やかな茶の毛皮に覆われた丸太のような腕が低い風切り音と共に振るわれた。


「ッ!」


 アンリが悲鳴を喉に詰まらせる中、ユージェニーは腰をかがめてその腕の下を掻い潜り、お返しと言わんばかりに槍を熊の腹に向けて突き出す。

 しかし、穂先は熊の毛を幾分か切り裂くだけにとどまり、その下の皮膚や肉を断ち切ることは叶わなかった。


「これは……」


 ユージェニーはそう呟きながらすぐに身を引いて、一方の熊は立ち上がり浮かせた前足を地面に付けて威嚇を始める。そして、穂先と牙を突き合わせ、一人と一匹はお互いの間合いを慎重に計り始める。

 事ここに至ってはユージェニーのことを邪魔できないとアンリは口を噤む。

 船の上の人々が固唾をのんで見守る中、熊の攻撃は激しさを増していき、その噛みつきや突進をユージェニーは右へ左へと避けてそのお返しと言わんばかりに槍を振り回す。

 しかし、ユージェニーの攻撃は熊の毛と薄皮を削り取っていくだけで、痛打を与えることができず、無謀とも思える時間が続いていく。


「お願い……」


 アンリがそう呟いた瞬間、熊がまたも立ち上がり、それを認めたユージェニーは素早く接近していき、その腹に向けて槍を勢いよく突き出した。


「セイヤァッ!!」

『グオオオオオオ!!』


 ユージェニーの裂ぱくの気合の声と重なるように、重低音の熊の叫び声が辺りに響き渡り、それにアンリ達船の上の人間は思わず目を瞑って耳をふさぐ。そして、アンリがそっと目を開けて事態の行末を確認すれば、槍の穂先が熊の胴部に深々と突き刺さり、その突き刺さった箇所からは透明な液体のようなものが中空へととめどなく溢れていた。

 それは不思議と熊とユージェニーの間に滞留し始め、ユージェニーはそれに構うことなく刺さった槍を薙ぐ事で熊の傷口を広げようとしていた。


「“力”が……」


 魔の物の根幹を成す、ある種生命力ともいえる物が流出して行くのに、アンリが希望を見出す。しかし、現実はそう甘くはなった。

 槍を深く突き刺すために、熊から容易に手が届く範囲に踏み込んだユージェニーへと、両腕が打ち下ろされたのだ。


「っ!」


 ユージェニーは何とか後ろに飛び、その掌底と爪の切っ先を紙一重で回避する。

 だが、すぐに腕を引き上げるように振るわれた裏拳に、ユージェニーは目を見開く。彼女には叫び声を上げる暇も、何かを考える暇も無く、ただ反射的に槍を持つ手を引くことしかできなかった。

 けたたましい何かが折れる音と、吹き飛ばされる1つの体。


「いやっ!」

「シフ!」

「まずい!」


 アンリの悲鳴と、草原の民の叫び声が辺りに響く。

 ユージェニーはそれを無意識のどこかで聞いたような気がした。



「?」


 気が付くとユージェニーは、故郷の草原の丘に立っていた。上を見上げると、見慣れた空が広がっていた。視線を下げると、その丘の麓には、小川が流れていた。彼女は何となく丘を降りて行って、その小川の傍に立つ。

 小川の幅はそれこそ一跨ぎできるほどで、その深さも地面に立てた指一本分も無い。そもそも、その水底には草花が生えていて、彼女はこの小川が近くで振った雨によってできた一時的なものだと当たりをつけた。

 そして、それを確認した彼女は、馬に水を取らせようとして振り返る。


「うーん?」


 だが、いつも自分を運んでくれていたはずの馬がいない。

 ユージェニーは首を傾げ、口笛を吹いた。聞ける範囲に馬がいるはずだ。しかし、馬の嘶きや姿の代わりに現れたのは、人だった。

 いつの間にか、青空を背に丘の頂上に立っていた人影が、ゆっくりと丘を降りてくる。金色の髪を持つ男だった。その衣装は、草原ではあまり見かけないもので、白い貫頭衣と、金で装飾された赤いスカーフという出で立ちだった。

 彼は小川を挟んで向こう側に立つ。


「こんにちは」

「こんにちは?」


 ユージェニーはどこかで見たことがあるなと首を傾げながら、目の前までやって来た、垂れ目の優男に挨拶を返す。挨拶の言葉も草原で使われる言葉でなかったので、彼女はますます疑問を抱いていた。


「俺がハンスです。はじめまして、でいいのかな?」

「ハンス……」


 その低い声を聴いて、ユージェニーはようやく全てを思い出した。自分はこの目の前の男と結婚し、海を越えて新しい領地に赴き、そこに現れた魔の物である熊の一撃を受けてしまったんだ、と。

 彼女はため息をつきつつ、小川を見下ろす。


「ユージェニー、です。ここは冥界かぁ……」

「……。正確に言うと、現世と冥界の境界線だね」


 ハンスは一瞬黙ってから、言葉を発しながら足先で小川を蹴る。水しぶきは上がらなかった。二人とも何も言わなかったが、ユージェニーが立っている場所が現世に近く、ハンスが立っている場所が冥界であろうことは明らかだった。


「貴方達の価値観ではこういう小川が境界なんですね」

「まあ、そうですね。晴天なのにどこからともなく現れる川、それが魂を運んでいく、と」


 ハンスはなるほどと言いながら、ユージェニーへと向き直る。彼の垂れ目が僅かに吊り上がっていて、明らかに怒った表情だった。


「無茶をしすぎ、としか言えないな」

「否定はしません」


 垂れ目で碧眼の瞳に射貫かれれば、ユージェニーはバツが悪そうに視線を外す。そして、言い訳を羅列し始めた。


「ああいうのには一人で立ち向かうのが伝統なんですよ。確かに、王国の聖騎士のように撃ち滅ぼして封じるのが一番なのかもしれませんけど、誰かに頼るとなると私が草原の国の皆から支持を失いますし……」

「もういいですよ。私はわかっているつもりですから」


 ハンスが困った表情で笑う。それにユージェニーは頬を指先でかいた。

 そして、沈黙。現世と冥界の境界線らしく、音が何もなかった。

 しばらくしてそれを破ったのはハンスだった。


「ユージェニー、と言う名前だったんだね」

「ええ!そうですよ!私はユージェニーです」


 ユージェニーが、やけくそ気味に声量を大きくしてハンスの方を向く。ハンスは新緑の髪と目を持つ女性へと笑みを返す。

 そして、彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめながら小さく言葉を続ける。


「まあ、私達が発音を変形してしまったんでしょうけど」

「そうだね。こちらではユージェニーとユージニアとでは綴りが違うから」


 ユージェニーはこれを機に本当にユージニアと自称すべきかを考え、止める。青空を見上げ、それから下の小川をみた。美しい小川だった。


「ま、死んでしまったら元も子もないか」


 その小さな独り言に、ハンスは微笑むのをやめ、真剣な表情になる。


「まだ」


 一拍。風のないここに風が吹いた気がした。


「死んではない」


 その言葉にユージェニーが顔を上げる。次はハンスが小川の方を見ていた。


「死にかけてはいるけど、死んではない。今、向こうでは皆が必死に川に落ちたユージェニーのことを船の上に引き上げてるよ」


 ユージェニーは何も言わなかった。ハンスもそれ以上は何も言わなかった。


「なら、熊退治に戻りますか」


 ユージェニーは肩を回し軽く準備運動をしようとする。だが、先ほどまで動いていた左腕が持ち上がらなかった。


「左腕は折れている。それでも行くのかい?」


 ハンスが言外に死にに行くようなものだというが、ユージェニーは視線を何度か彷徨わせてから、口を開く。


「名前しか知らなかった婚約者……今は夫ですか、の顔を見れたのは僥倖でした」

「それは……」

「正直に言って、どこの誰とも知らない人と結婚するのは嫌だったし、ましてや開拓地に行くのは嫌だったんですけどね」


 しかし、しばらくここに住んでユージェニーはこの地に愛着を持ち始めていたし、街の発展を見守るのも悪くないと思っていた。まだまだ心配事や、苦労しそうな問題事は山積みだが、それすらも、楽しめるかもしれないと思い始めていた。

 ならば帰らないといけない。ここで幕を引くには、今の生活があまりに楽しすぎた。


「とりあえず、妹の顔を見てやりますよ。夫の顔も見られたし」

「そうか」


 ユージェニーは白い仮面の女性のことを思い浮かべ、彼女の顔はどんなのだろうかと思いを馳せた。ハンスと似ているのだろうか、それとも似ていないのだろうか。

 もう時間が無い、現世へと舞い戻ってしまう。ユージェニーはそれを本能で察した。夫との語らいの時間も少ない。彼女は慌てて言葉を重ねる。


「それと!浚渫工事ですが、皆が感謝していましたよ」


 ハンスが目を見開く。


「貴方は確かに火を守ったんです」


 死者の日、落ち込むハンスへとかける事の出来なかった言葉を、ユージェニーはようやくかけることができた。

 ハンスはその垂れ目を潤ませ、そして、上を向いて瞬きをした後、しっかりとユージェニーへと頷いた。 


「ユージェニー、頑張って」

「もちろん!」


 ユージェニーは不敵な笑みを、垂れ目をさらに下げて心配そうに微笑む夫に向けた。

 瞬きをした――。

 ――と思ったら目の前には白いのっぺりとしたものが。アンリの仮面だ、と思う間もなく、ユージェニーは左半身から来る鈍い痛みに呻く。


「痛ったい……」

「ああ!ユージニア様!」

「シフ!」

「シフが目を覚ましたぞ!」


 アンリだけでなく、聞き慣れた声々の叫びも響いていた。そして、ユージェニーは、動く右手を伸ばし、アンリの仮面をはぎ取った。


「あはは、まったく似てないでやんの」

「な、何を……?」


 仮面の下には、銀色の瞳に涙を湛えた、釣り目気味の美しい女性がいた。

 垂れ目のハンスとは似ても似つかないその素顔にユージェニーは笑い、アンリは自分の仮面を突如として取り上げて笑うずぶ濡れの女性に戸惑いの声を漏らす。

 段々、アンリは腹が立っていき、その目を吊り上げた。


「笑い事じゃありません!こんなに酷い怪我をして……、何も考えずに飛び出すからですよ!」


 アンリは水に濡れ、その上痛々しく血がにじみ出しているユージェニーの左腕を見た。幸いにも、熊の爪が引っかかる事は無かったのか、服が裂けてはいなかったが、逆に言えば殴打によって服の下では血が出るほどの怪我をしているという証左だった。

 ユージェニーはそれでも笑い続けているし、アンリはますます語気を強めて行く。


「何がおかしいんですか!」

「その、心配そうな表情はそっくり」


 いつの間にか、下がっていたアンリの泣きそうなまなじり。それは、先ほど見たハンスの心配そうな表情ととても良く似通っていて、二人が確かに同じ血を引いている事を感じさせた。


「シフ」


 侍女が小さく名を呼んだ。それにユージェニーが頷き、仮面を持つ指の背でアンリの濡れる頬をひと撫でしてから、体を起こす。


「ユージニア」


 アンリが嗚咽に似た声を上げた。

 しかし、ユージェニーは止まらない。


「剣を」

「は」


 護衛が腰に帯びていた剣を抜き、それを恭しく両手で差し出す。ユージェニーはそれを仮面を指に挟みながら器用に掴むと、杖のように船に突き立てゆらりと立ち上がる。

 水に濡れた新緑の髪が額に張り付き、雫が頬を伝って滴り落ちる。だらんと力なく下がる左手の先からは血がぽたりぽたりと垂れ始める。


「い、行かないで……」


 アンリが震える声でそう言い、血に濡れたユージェニーの左手を握り込んだ。


「大丈夫」


 アンリが震え縋る様に左手を額に擦りつけるのを、ユージェニーは見下ろす。


「私は一人じゃないから」


 アンリが顔を上げる。そこには、不敵な笑みを浮かべながら白い仮面を被るユージェニーがいた。


「君のお兄さんがついてる」


 そして、涙をはらはらと零すアンリがますます握る手に力を籠めるが、ユージェニーはその左手をするりと抜きだし、船の縁へと足をかけてしまう。

 川岸には、こちらを睨みつけ、息を荒くさせる熊がいた。その周りには半透明の力そのものが流出して滞留していた。


「覚悟しろ」


 白い仮面の下から、くぐもって、男とも女ともつかない声が響いた。

 そして、雄たけびと共に飛び掛かる剣士ユージェニー。熊もそれに負けじと圧力さえ感じさせる咆哮をした。

 剣士が地に足を付けるか付けないか、その瞬間に熊は姿勢低く突進し、剣士がそれをすぐさま飛び越え避ける。

 打って変わって、島の方に白い仮面の剣士が立ち、熊が水際にいる。そして、辺りを漂う力の残留が剣に纏わりつきはじめた。

 次は剣士が踏み込む番だった。鋭く振るわれる剣筋に、熊は後ずさりしようとするが、後ろ脚が川の水へと付いてしまう。魔の物はそれ以上下がることができなかった。

 剣の刃が鋭く煌き、顔を裂かれた熊が悲痛な叫び声と共に立ち上がる。


「勝って」


 その濡れた小さな呟きは、咆哮にかき消された。

 だが、剣士には聞こえていた。

 熊が先ほどと同じように、上から下へと、腕を身体ごと振り下ろす。しかし、次は剣士はそれを避けようとはせず。


「勝って!」


 逆手で持ち、右肩で支えられた剣の腹で受け流す。

 熊の爪は地面へと突き刺さり、差し出されたかのように頭が剣士の目の前に来た。

 剣士は天へと剣の切っ先を向けた。一陣の風が吹き、剣が青く輝く。

 次の瞬間、振り下ろされた刃は寸分たがわず熊の首を落とした。


「ああ……」


 誰かが言葉を漏らすと同時に、熊の首から、大量の力があふれ出し、それが風にさらわれてどこかへと流れて行く。

 そして、倒れ込む茶色の巨体と、膝を付く一人の剣士。


「ユージニア様!」


 いち早く船から川に飛び降りたアンリは、スカートが濡れることも構わず水際へと足を付け島へと上がろうとする。それに遅れて侍女たちも「シフ!」と声を上げながらアンリのことを追いかけてユージェニーの元へと急ぐ。

 船を支える船頭以外が慌てて島へと上がっていくと、ユージェニーは剣を地面に突き刺し、力尽きたかのように勢いよく尻を地面につける。そして、そんな彼女の傍にアンリが縋り寄り、ユージェニーは泣き顔をこちらに見せてくる銀色の美しい女性の頭に右手を置いた。


「ね。大丈夫だったでしょ」


 軽い調子でユージェニーがそんなことを言うので、アンリは涙がこぼれる目を見開いてぷいとそっぽを向いてしまう。その仕草にユージェニーが笑い声をあげていると、地面に膝を付いた侍女が彼女の左腕を掴んだ。


「失礼します」

「痛゛だだだだだ!!」

「折れていますね。さあ、屋敷に運びますよ!」


 侍女に左腕を捕まれ、悲痛な叫び声を上げるユージェニー。それをはらはらとした表情でアンリが見つめていると、彼女は動く右手で仮面を外し、それをアンリの頭に被せた。


「あっ、ユージ――……」

「痛いから!立てるよ!」

「じゃあ、さっさと船に乗ってください!さあ船を出して!」


 仮面を返されたアンリが何かを言う前に、ユージェニーは川岸に止められた船へと連れられて行く。そして、アンリはそんな二人を追いかけようとしたが、地面に伏した熊の前でどうした物かと首を捻っている護衛を見て足を止める。

 彼女は船に乗せられたユージェニーと今だに力を零れさせる魔の物の亡骸とを見比べ、ややあってから、自分がユージェニーと兄から任されている仕事を遂行することを決意する。

 アンリは島から離れて行く船を横目に見ながら、地面に転がる熊の首を拾いあげた。

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