死者の日
朝、変な寒さにアンリが目覚める。胸の上に僅かな重みと右半身に暖かさを感じ、右を向けば、ほど近い所にユージェニーの顔。彼女はすやすやと眠っていて、アンリのことを暖を取る何かだと勘違いしているようだった。
とはいえ、彼女がいる右半身と打って変わって左半身は寒いから、悪い気はしなかったアンリはベッドの中から手を伸ばし、ベッドサイドテーブルからいつもの白い仮面を手に取った。
この仮面は、本来は冥婚の時と特定の儀式の時だけ付けておけば良いものなのだが、アンリはこれを常につけておくことを良しとした。理由は自分でも分からない。
「……死者の日、か」
アンリは白い仮面を見つめながらそう呟いた。今日は必ずこの仮面をつけておかなければならない特別な日だ。
死者の日。夜が最も長くなり、死者の霊魂が冥界から帰って来る日。
それがまさに今日だ。この日の儀式はアンリがハンスの代わりを務めなければならない。
「ううん……」
アンリが仮面を見つめていると、ユージェニーも起きたのか、アンリから離れながら目を擦り始めた。アンリはすぐに仮面を付けて顔を隠すと、ユージェニーが寝ぼけ眼で上半身を起こし、アンリのことを見下ろした。
「おはよう」
「おはようございます」
ユージェニーよりは目覚めの良いアンリは丁寧にあいさつを返しながら、ベッドサイドテーブルに置いてあったもう一つの物、ベルを鳴らした。
ベルの音が鳴った途端に入ってきた侍女達に二人は着替えさせられるのだが、今日は正装だった。
ユージェニーは鹿の毛皮で作られ様々な刺繍が施された長袖長ズボンに、鷹の羽で作られたマントを羽織る。アンリは真っ白な装飾の無いドレスの上から、半透明のヴェールを被るといったものだった。
正装に着替えたユージェニーが窓の外を見ると、しんしんと雪が降っており、窓は凍り付いていた。
「厳冬期って奴かな?」
「お嬢、儀式は雪でも行いますよ」
「分かってる」
死者の日は冥婚が無かろうととても大事な日である。多少の悪天候は関係なく儀式が行われるし、祭日に関していい加減でとにかく騒ぐのが好きな草原の国の民ですら、この日は静かになる。
正装に着替えた二人は儀式の予定の時間まで寝室で待機する。その間は侍女を含め、部屋にいる全員が一言もしゃべらなかった。
そして、予定時間になれば、ハンスの代わりを務めるアンリが最初に部屋を出てそれにユージェニーがついていく。二人の寝室から出れば薄暗い廊下を歩き、屋敷の中にある礼拝堂へと向かう。
その廊下には使用人と文官たちが並んでいて、彼らも各々の国の正装に着替えていた。そして、二人を先頭に彼らも後を付いて行って、普段はあまり使われない礼拝堂の扉をくぐっていく。
礼拝堂は質素な物だった。
まだ新しい領地で、出来たばかりの屋敷であったのでそこまで金もかけられなかったし、草原の国の民は余り祈るという事はしない上に、多数の神を奉じるためその分多くの物が必要になる。とどのつまり予算の都合上で最低限の用意しかできなかったのだ。
礼拝堂は上から見れば円形であり、入ってきた扉の真正面には床から天井まである大きなステンドグラス。そして、その左に太陽神を象徴する太陽を模した彫刻があり、その反対側に風神に奉ずるためのタペストリーがかけられていた。
それ以外にも中心から右手側には冥王のための玉座が置かれていたり、他にもいく柱かの神のための物品が納められていた。
ユージェニーとアンリはそんな礼拝堂の中心に来ると、四方に向かってそれぞれの文化の最敬礼を行い、各々の奉じる神の元へと歩み進んでいく。
後からついてきた使用人や文官たちもそれに倣って最敬礼をし、主の後を追う。
ユージェニーは風神のタペストリーの前に両膝をつき、頭を地面に付けた後、顔を上げ、祖先より受け継いできた古い詩を紡ぐ。
「風の流れ行く先、冥界へ
風よ、風よ
我らが祖の魂を運び給え
風の流れ行く先、冥界より
風よ、風よ
祖の魂を我らの元へ運び給え」
ユージェニーの背後でも同じように地に頭を付けた人々が小さく自らの名と、家名、それから先祖の名を呟いていた。
詩を語り終えれば、次はユージェニーが冥王の空の玉座の前へと移動し膝を地に付ける。その一方で彼女についてきていた草原の国の人々は各々好きな神の元へと別れて、そこで祈り始めた。
冥王の空の玉座の前に跪いた彼女は無言で頭を下げる。じっと、床に頭を付け祈り、それから顔を上げて、一礼して立ち上がった。
ユージェニー達草原の国の民の朝一番の礼拝がこれで終わる。その後は粛々と礼拝堂を出て行くのだが、一方のアンリ達王国の人々は、太陽の彫像の前で厳かに長い聖歌を歌い続けていた。
礼拝堂から出たユージェニー達が大広間に行くと、そこには昨日の内から用意していた鹿肉を使った食事が置いてあった。彼女達はそれを温め直して食べ始める。料理そのものはほとんどが焼いただけか、薬草と一緒にスープにしたものだが、草原の国の民は普段は鹿を食べない。この料理は死者の日だけの特別なものだった。
「うん。美味い」
「味見出来ないので不安でしたが良かったです」
料理を担当した男がほっとした表情で胸をなでおろす。それに対し、大広間中から賞賛の声が響き、男は少し恥ずかしそうに赤面する。その流れで皆の口も軽くなり、死者の日特有の死んだ家族や友人の話に花が咲いていく。
厳しい草原の生活で命を落とした者、流行り病で死んだ者、戦争で死んだ者、それぞれの思い出を語り、死を悼む。葬式でさえ大騒ぎをする人々が唯一、静かに故人について話す時だった。
そんな思い出話に花を咲かせていると、同じく礼拝が終わったアンリ以下王国人たちも大広間へと戻ってきた。そして彼らも、この日のために用意した特別なパンとケーキ、ワインで食事をとる。
王国人達も同じように故人について話しはじめ、大広間は静かな喧騒に包まれた。
やがて、太陽が南中に達する直前になると、人々はぽつりぽつりと自室や自宅へと帰っていく。アンリも例外ではなく、最後に残ったのはユージェニーとその侍女だけだった。
「それではお嬢。こちらを」
侍女はそう言いながら立派な角の付いた鹿の頭蓋骨をユージェニーへと手渡した。彼女はそれを受け取ると、頭に被る。そうすれば人の形をして、鷹の羽のマントを羽織った鹿と言った姿になる。
「部屋を暖めておきますので」
侍女がそうお辞儀をすれば、鹿の頭蓋骨を被ったユージェニーは頷いて返し、彼女は一人で屋敷の裏口から雪降る庭へと繰り出した。
朝、ユージェニーは冗談で厳冬期と言っていたが、まさしく外は雪景色であり、降り積もった雪の白色以外では、僅かな常緑樹の緑と、凍ってまだらになった屋敷の木の茶色だけしかなかった。
ユージェニーは寒さに体を震えさせ真っ白になる息を吐きながら屋敷の裏庭の中心に行く。そして、そこでゆっくりと踊り始めた。
くるくると独楽が回る様に、降りしきる雪をかき集めるように両手を広げ、誰も踏み荒らしていなかった雪に足跡を多く付けて行く。回るのをやめ、静かにその場で手と腕で印を組むこともある。
ただ一人で行う舞いは人は誰も見てはいなかったが、多くの霊が見ていた。風も吹いていた。
すると、どこからともなく、笛の音色が響き始める。
透き通った青白い冬の空の下、屋敷の中からや島中から笛の音色が風に運ばれてくる。
ユージェニーはその音色に合わせて踊り、そのかじかむ指先まで魂を込めて舞を踊る。
生者を慈しむ音色
死者を偲ぶ音色
不自由な魂を憐れむ舞
自由な魂を慰める舞
何百年と受け継がれた舞踊だった。
やがてその笛の音色が徐々に小さくなり、風が止む。それと共にユージェニーは舞をやめた。長い時間踊り続けたユージェニーの息は切れ、白く長い煙が長く鹿の頭蓋骨の中から立ち昇る。
そして、肩で息を整えていると、小さな拍手が響いた。
「お見事」
その声に振り返ると、そこには雪のように白い貫頭衣と、金で装飾された赤いスカーフを肩からかけた人物がいた。だが、顔は見えなかった。見えているはずなのに、そこに人の顔があると思えない不思議な感覚だった。
「ハンス様」
「久しぶり。といってもそこまで期間は空いてないか」
死者の日だからこその奇跡。死したはずのハンスがそこにはいた。
「ただいま。で良いのかな、この場合」
「いいと思いますよ。おかえりなさいませ」
ユージェニーはなんとか息を整えてから頷く。例え死者であっても、彼の妻が自分だったし、彼が帰ってくるのはこの屋敷だ。妻からお帰りと言われたハンスは振りかえって屋敷を見上げた。
「いい屋敷だ」
ユージェニーは「突貫工事の物ですけどね」という言葉は流石に飲み込んだ。ハンスはその屋敷の壁に触れようとした。しかし、全かいとは違い魂だけの存在の彼では触れることは叶わず、すり抜けてしまう。彼はその自分の手を見下ろし、それから寂しそうにため息をついた。
「さて……」
振り返った。が、相変わらず顔は見えない。ユージェニーはよく考えたら、兄妹共に顔を知らないことに気が付いた。
「積もる話は多いけれど、仕事の話だ」
ハンスはそう言い切り、歩き始めた。その方向は島の外へと向かう方向で、彼は裏庭から出て行き、そのまま流れがほとんど止まった川へと歩みを進めて行く。
一方のユージェニーは慌てて口笛を吹きつつそれを追いかける。そして、川岸でしばらく待っていると、口笛を聞きつけた水馬が遠くから水面を走ってやって来て、彼女の前で止まる。ユージェニーはその水馬に跨ると、小さな水紋を残して歩くハンスのことを追いかけた。
人と馬の速度は明らかに違う。しかし、普通ではありえないほどの時間をかけて水馬はハンスへと追いついた。
「水馬と言うんだったか。良い馬だね」
「気性は荒いですが、話せば分かってくれます」
ハンスはユージェニーの言葉に僅かに首を傾げたが、今はそれどころじゃないと前を向く。
「ある程度のことは、アンリの眼を借りたり冥界から遠見をして把握している。いくつかの場所で浚渫工事をしたいんだ」
「浚渫ですか」
浚渫とは、川の底を掘る工事のことである。川と言うのは流れる水によって運ばれてくる土砂により川底が徐々に盛り上がっていくのだが、それを自然のままにしておくと洪水や川の流れが大幅に変わってしまうという危険性がある。そのため、川底に溜まった土を人の力で削ってしまおう、という治水工事だ。
普通の人間の歩幅で歩いているはずなのに、明らかに人並み以上の速度で進むハンス。彼は滑るように雪降る川を進んで行き、ユージェニーはそれを後ろから水馬に乗ってついていく。
「綺麗な景色だね」
「ええ、これだけでここに来る価値があります」
何度か言葉を交わしつつ、とある小さな中州へと二人はたどり着く。
小さな、と言っても島と島の狭い間にあり、その間隙の川底は随分と浅くなっていて、何らかのきっかけで堆積が早まったり、何かが詰まったりすれば堰となってしまうことは明らかだった。とはいえ、後数年は大丈夫そうだったが。
「ここは出来る限り速く工事したいね」
「……そうですね」
ユージェニーが馬上から振り返ると、かなり近い所に農地として使われている島があった。ここで流れが変わったり洪水が発生してしまえば、その農地とそこに住む領民が被害を被ることは容易に想像できた。
「う~ん……。とはいえ、人手と金が足りませんね」
「そうかな」
「思った以上に火の車ですから。とはいえ、この場所の浚渫は必ず行いましょう」
ハンスが馬上のユージェニーを見上げる。ハンスが下から見上げれば、鹿の頭蓋骨の中のユージェニーの顔がわずかに見えた。真剣な、民を率いる者の表情だった。
「今なら流量も減って行いやすい。冬の間の仕事としてどうだろう」
「検討します」
ユージェニーがハンスのことを見下ろしながら頷く。そんな彼女に彼は楽しそうに微笑んだ。しかし、ユージェニーからはハンスの表情は分からない。彼女はハンスの雰囲気が変わったことに首を傾げるだけだった。
「後は逆に堰き止めてみてはどうかと言う場所もあるんだ」
そういってハンスはまたも歩き始める。ユージェニーはそんな彼の後ろを寒空の下、文句も云わずについていく。次の地点までは距離があるのか、ハンスは世間話をし始めた。
「領地運営はどうだい?」
「まだまだ始ったばかりですから何とも」
「それもそうだね」
笑い声が静かな川を渡る。
「領民の様子はどうかな」
「戸惑っている部分はありますけど、皆前を向いています」
「それは良かった」
風で雪が巻き上がった。
「ここを堰き止めたいんだよね」
「流石に年単位の仕事ですねえ」
「でも、出来たら土地が増える」
その後も島々の間を並んで行く。
「凍ったり凍らなかったり、複雑だ」
「その見極めが難しいんですよね」
「大変だね」
凍った氷の上に立って周りを見もした。
「ここが川の端か。崖になってるんだ」
「そうですね。川は左右を崖に囲まれてます」
「上流の方はどうかな」
川の大きさを二人で再確認もした。
「立派な木だ。いくらでも使い道がある」
「木は戦略資源ですからねえ」
「よく考えないといけないね」
時には島の木々の間を歩きもした。
「ところで何で鹿なんだい?」
「草原では鹿が霊獣でして」
「そうなんだ」
帰り道は世間話をした。
「もう、そろそろかな」
ハンスは川の上を歩きながら空を見上げた。ユージェニーが舞をした時は南中にあった太陽も今は随分と傾いていて、ただでさえ光の弱い冬の日において死の色を感じさせるほどに暗くなり始めていた。
しかし、人々が住む島からは暖炉の火の光が窓から漏れ出て、その姿を僅かに浮かび上がらせていた。
「皆、暖炉が使えている。これは豊かな証左だよ」
「そうですね。獣も多い。寒ささえどうにかすれば冬は何とか越すことが出来そうです」
ハンスの感慨深そうな声にユージェニーは深く頷く。冬越えの燃料が足りなくて凍死することなど、草原の国に限らず王国であってもよくある事だった。しかしここは木が多く、燃料に向いた種類の木もあったことからその心配はあまりしないでよさそうだった。
「この火を守っていきたかった」
ふと、暗い声が響いた。
その声に、彼の隣で水馬を駆るユージェニーは驚いたようにハンスのことを見た。彼女は俯いているらしい彼に対して言葉をかけようとしたが、上手い言葉が思いつかずに押し黙ってしまう。
そしてしばらく二人は無言で歩き、それからようやくユージェニーは口を開いた。
「少なくとも私は大いに助けられていますよ。治水に関しては素人も良い所なので」
「そうかな?それなら良かった」
ハンスは空元気に似た声を上げる。表情は分からないが、明らかに心持が沈んだ声だった。ユージェニーは失敗したなと反省する。死人に後悔させるなどあってはならないことだった。
二人はその後しばらく歩き、屋敷のある島の近くまで来た。すると屋敷の裏庭に人影が見えた。そこで、ハンスは足をとめ、水馬はゆっくりと彼から数歩先で止まった。
「俺はここまで」
ユージェニーは振り返る。相変わらず表情は分からなかったが、ユージェニーは何となくハンスは笑顔を作っているんじゃないかと思った。
「元気で」
「はい。そちらも……」
ユージェニーは思わず「そちらもお元気で」と言いかけて首を振る。すると、その仕草が面白かったのか、ハンスは小さく笑い声をあげた。その笑い声に揶揄いなどの悪意はなく、純粋な楽しさからくるものだったが、それがますますユージェニーのことを恥ずかしがらせ、彼女は鹿の頭蓋の下で顔を赤らめた。
「妹にもよろしく。風邪を引かないように気を付けるように言っておいて欲しいな。あの子はよく風邪を引いたから」
「分かりました。暖かくするように言います」
「うん。頼んだ」
ハンスが手を挙げた。
その瞬間、今日一番強い風が吹き、雪が視界を全て遮った。
そして、その風がやみ、雪のカーテンが無くなると、そこにはもうハンスはいなかった。
ユージェニーは西の空を、白い息を吐きながら見る。太陽はもう遠くの山に隠れようとしていた。
「帰るか」
正面を向き、ユージェニーは屋敷の暖炉の火の光へと向けて水馬を歩かせる。
無言で川の上を行くのは酷く寒い。雪が体の上に積もって冷たいし、毛皮を着ていると言えど体は震えてしまう。彼女は速く暖炉の火にあたりたいと思いつつ、やがて屋敷の裏手へとたどり着いた。
そこには、白いヴェールを付けたアンリと、鹿の毛皮の正装の侍女がいた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
アンリのその声にユージェニーは心に温かいものを感じた。そして、彼女は思わず微笑みながら、水馬から島へと降り立った。仕事を終えた水馬は嘶き、侍女が用意していた水草を貪ってから水の中へと潜っていく。そんな彼にユージェニーは感謝の口笛を吹いた。
そして、三人は雪を踏みしめて屋敷へと戻る。その道中でユージェニーは自らが羽織っていた鷹の羽のマントを、アンリの肩へとかけた。それに彼女は驚いたようにユージェニーのことを見る。
「お兄さんが風邪に気を付けるように言ってたよ。風邪をよく引いたらしいですね」
「……子供のころの話です」
アンリは恥ずかしそうにそっぽを向き、それにユージェニーは笑い声をあげるのだった。
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