水馬
ユージェニーが領地の実権を握ってまず真っ先に始めたこと、それは自分と共に新たにやって来た草原の国の民に対する土地の割り振りと地位を用意することだった。
地位にしては簡単だ。草原の国から連れてきた人材に肩書を与えればいい。問題は土地の割り振りであった。そのためにしなければいけないことは、何よりもまず地図の確認。
「だったんだけどねえ」
ユージェニーが川を進む小舟の上で呟く。草原の国の言葉だった。
「まさか、居住地周辺しか地図を描いていないとは思いませんでした」
そう言葉を返すのは腰に剣を携え肩から長銃を提げた、草原の国の民族衣装である複雑な刺繡の入ったマントを羽織った男の護衛。
「まあ、とりあえず農地を拓いて最低限の地盤を固めるだけなら、あれで良かったと思うよ」
ユージェニーが肩を落としながらそう言えば、男が鼻で笑う。
フィンケが用意していた地図は諸島を含めた人無し河口付近、肥沃な三角州。それからその三角州から見える島々しか書かれていなかった。男が鼻で笑うのも、無理は無い。
「船頭。現状余り奥には行っていないんだよね?」
「は、はい!川の獣が怖くてですね……」
怯えた様子で船頭が竿を動かしながら頷く。島々を移動する船乗りたち曰く、川を少し遡れば、川の中から船を攻撃してくる何かの獣がいるらしかった。それが怖くて、誰も川を遡ろうとしていなかったのだ。
「まあ、これだけいれば正体はわかるでしょう。ね」
ユージェニーが振り返ると、そこには座り込み侍女にしがみついて怯えた仕草をする白い仮面をつけた女性。表情は仮面で分からないが、きっと怯えているんだろうなとユージェニーは当たりを付けた。
「あ、あんまり揺らさないでください」
アンリの声は震えていた。国を出た時の大船とは違って、今の小舟はちょっとの波と乗っている人の動きで簡単に揺れる。
「今から慣れておいた方が良いですよ。もしもの時はもっと揺れますし」
「領主自らじゃなくても……」
アンリがそうぶつくさ文句を言いながら、更に姿勢を低くしていく。
「実際にどんな地形かは見ないといけませんからね」
ユージェニーは笑いながら、アンリから視線を外して遠くへと目を向ける。広い人無し河口から遡るだけで、幾つもの大小さまざまな島が大量にあり、川の分岐は網の目のように複雑だった。
それに、その島々の特性もそれぞれで違うようだった。小舟から見るに地盤がしっかりしているだろう島から、水面から僅かに浮かんでいるだけの中州。植生も何も生えていないものから、草が生い茂るもの、背の高い木々が生える島まであった。
「とにかく水が豊富なのは良いね。木も大きく真っすぐな物もある。ひとまず中州は農耕地として使えそうだ。しばらくすれば林業も出来るだろうし、将来的には造船業もいいかもしれないね」
「後は鉱物資源があればいう事なしですね」
「うう……農業ぉ……」
侍女がそう返したのに、彼女にしがみつくアンリが弱弱しい声を上げる。
「農業だけで領地運営は出来ませんよ。一次産業だけでは発展もなにもできないので」
「ハンス兄さんが?」
『それを言っていたんですか?』と問いかけに、ユージェニーは首を振る。
「言っては無かったけど、あの人も同じ考えだったでしょう」
アンリは確かに、ユージェニーにも領地運営の心得があるのだろうと思い至る。それに、今船の上にいる男も侍女も話を理解しているのも見て取れた。草原の国は優秀な人間たちをここに送り込んだことをアンリは悟ったのだった。
船は船頭の操作によって進む。小さな物では人が数人立つのがやっとな島から、大きければ一つの街を立てられそうなほどの島の間を縫って、冬の空の下に曳き波だけを残して行く。
「これからも島同士の移動は船を使うでしょうから、本当に、今のうちに慣れておいてくださいね」
「……はい」
アンリは観念した。
一方で、絶対に揺れにくい船を作らせると誓った。
ユージェニー自らも参加する、草原の国の民による地図作成と視察は日を跨ぎつつ順調に進んでいった。大河の中央部分から始まり、外縁部へと行き、上流へと徐々に遡っていく。幾つも分岐し島々に遮られるため、最大の川幅は改めて計算しなければならないほどで、島も最大の物はその外周を回るだけで一日が潰れるほどの大きさであることが判明した。
そして、今日も今日とて測量をユージェニー自ら行い、簡易的な地図も船の上で書いていく。
「上手ですね」
「草原では何より方向感覚が大事ですから」
最初は怖がっていたアンリも、何日も船の上で揺られていれば慣れるもので、今となっては立ってユージェニーの地図を覗き込んで来るほどだった。
そして、地図を見ながら「広すぎません?」と首をひねっているアンリに、ユージェニーが声をかける。
「水源まで遡るのは年単位の事業になりそうですね。ところで、アンリ様は何か気になった事はありますか?」
「気になる事……」
アンリは地図から顔を上げて辺りを見回す。今は島と島の広い間を漂っていた。
「“力”の流れはかなり綺麗です。人の手が加わっていなくて、自然そのまま」
「力ですか」
「はい。マナの流れ、レイライン、龍脈、色々な言い方がありますが、要するに生命力や魔力、風、光、不可視な物全ての流れです」
ユージェニーがアンリの言葉を聞いて、遠くをみる。冬の空は暗いが、ここは光に満ちていて、上流の方から緩やかな冷たい風が吹いている。
「風の流れなら何となくわかるかな。澱みななさそうだ」
「ですね。いい風が吹いています」
侍女もそう頷く。二人がそういうのに、次はアンリが質問する番だった。
「草原の国の人々はどんな神を信仰しているんですか?風神とはよく聞きますが」
「うーん。確かに風神が多いかな?」
「皆適当ですよ。頼りたいときに、頼りたい神に祈るだけです。お嬢だってそうでしょう」
「まあね」
同意を求めるように侍女の方を見たユージェニーだったが、侍女は首を振ってその言葉を否定する。すると、神を定めていない事に驚いたのか、竿を持つ王国出身の船頭が小さく声を上げた。
「王国には主神と定めた神がいるから、こういう感覚は分からないか」
「私も神を定めていませんよ。魔法使いですから」
アンリがそう言うのに、ユージェニーはなるほどと納得した。特定の神を信仰していないから、冥婚に踏み切れたのだろうと。一方の船頭はやはり神を定めないことが信じられないのか、小さく太陽神の聖句を唱えながら印を結んでいた。
ユージェニーはそんな彼が祈り終わるのを見計らって船を動かすように指示を出そうとした、その時。
護衛の男が長銃を構えながら低い声を上げた。
「シフ。何かが来ます」
「アンリ様、伏せて」
「えっ?あっ!」
「失礼」
ユージェニーが素早くアンリに指示を出すと、彼女は急な出来事に対応が出来ずに狼狽えてしまう。だが、侍女がそんな彼女のことを引き寄せ、それから抱えるようにしながら彼女と共に姿勢を低くする。
船頭も剣呑な雰囲気に顔を青くさせ、二人と同じようにしゃがみながら船の縁にしがみついた。そして、彼の聖句を唱える口が止まる気配は無かったが、今はそれどころではない、ユージェニーがあえてゆっくりとした口調で彼に問いかける。
「何かが出るってのはこのあたり?」
「へ!はい!そうです!」
「シフ!来ます!」
船頭が頷くと同時に、護衛が鋭い声を上げ、水面へと長銃の銃口を向ける。
そして、水中から現れたのは、長い鼻だった。
「なんだこいつ!」
「撃つな!」
護衛が引き金を引きかけたのを、ユージェニーは鋭い声で止める。
現れた、長い鼻はやがてその後方を水面から出していき、眼、耳、
「馬?」
アンリが呟いたように馬だった。その馬は前足の蹄で水面を叩き、そのままその鼻先を突き付けられた長銃へと向けて突進させていく。護衛の男はそれに素早く反応すると、長銃を引き、代わりに拳でその馬の横っ面を痛打する。
『ヒィンッ!』
馬は痛みに嘶き、水面から出した半身が水の中へと倒れていく。馬らしく大きな体が水面へと叩きつけられて大量の水しぶきが上がり、横倒れになったために馬のような二本の後ろ脚も見えた。
「ふむ。馬だな」
ユージェニーもそう呟きながら腕を組む。馬は横っ面を殴られたことで完全に委縮してしまったのか、水面でジタバタした後、そのまま水中へと潜っていこうとする。それを見ながら、護衛は長銃をユージェニーへと手渡しながら、マントを脱いでいく。
「シフ。いかがする?」
「あれ捕まえられないかな?」
「よしきた」
ユージェニーのその言葉にぎょっとした表情をするアンリと船頭。そして、最初から捕まえる気満々だった護衛が水に飛び込む寸前に、口を開いたのは船頭だった。
「あんな大きな生き物、乗せられません!」
「確かに」
ユージェニーは聞き分けのある人間だった。船頭のその言葉に素直に頷くと、水中の馬の方を見る。その馬は泳いでいるのか、水中を走っているのか、その四本の足を動かして船から逃げるように去っていく。
「よし、帰って船団を組むぞ!」
それを見届けたユージェニーはそう言って、船頭に引き返すように指示を出す。無論、船頭は顔を真っ青にさせながら嫌々頷くしかなかった。
そして、人無し河口の人が住んでいる一番上流の島にあって、今は測量隊の基地になっている小さな埠頭に帰って来ると、そこには水面に立つ馬が二頭もいた。
「シフ~!馬捕まえたった!」
「私も捕まえちゃった!飼って良い?」
その馬を捕まえたらしい草原の国の民が呑気な声を上げ、それに付き合わされたのか、彼ら彼女らの足元には疲労困憊して倒れこんだ船頭がいた。
「船団を組む必要は無かったみたいですね」
アンリのその言葉に、一番ほっとしたのは船頭だった。
結局、測量隊が全員帰ってきた時の釣果?は3頭で、船頭を恐れさせていた正体不明の生き物、不思議な水の上を走れる馬が手に入った。
草原の国の民は早速その馬に乗れるか?とか、食べ物はなんだ?とか、名前はどうする?とかを話し合い始め、それを船頭たちは恐ろしいものを見るような目つきで眺める。
ところで、一方の理性的にあの馬のことについて考えなけれないけない、屋敷へと戻ったユージェニー以下頭脳労働者は、ほとんどの人間が一つの意見で同意していた。
「水を走れる馬がいるのであれば、それを働かせられればどれだけ助かるか。島同士の荷物の運搬、人の行き来、工事、ありとあらゆるものが楽になる。分かるでしょう?」
つまり、飼おう、だった。
「しかし、未知の生物が持っているかもしれない疫病だってあります!それに凶暴で人を襲うと聞いています!」
だが、領地運営に入ったばかりの文官達の飼おうという意見に、フィンケ以下、元々代官とその補佐として領地運営をしていた古参の文官が強硬に反対をしていた。
多数の賛成派と少数派の反対派による議論は段々と喧々諤々とし始め、今に至る。
なお、言い合いをしているのは王国出身者達だけであり、一方の草原の国出身の文官は早速水の上を走る馬の試し乗りや確認に屋敷を出て行ってしまっていた。議論も形無しである。
「このクッキー美味しい」
そして、そんな騒ぎを右から左に聞き流しながらユージェニーはアンリと共にティータイムとしゃれこんでいた。とはいっても、アンリは分厚い本を捲っていて、仕事の真っ最中ではあったのだけれど。
やがて議論とも呼べない水掛け論が、徐々に本当にただの言い合いになり始めた頃、扉を開けて入ってきたのは髪を濡らした侍女だった。
「お嬢」
「どうだった?」
ユージェニーのその言葉が部屋に響くと、文官たちがピタッと言い争いをやめ、侍女の方を向く。
「ちょっと気性が荒いですが、十分乗れる範囲です。ただ、地上には一切上がろうとしませんね。それと、主食は水草、綺麗な飲み水が無いとダメだそうです」
「ユージニア様。私からも一つだけ」
侍女の言葉の次は、アンリが分厚い本をユージェニーの前に広げてくる。そこに書かれた文字は、今はあまり使われていない古い言葉だった。
「ここに水馬について記述があります。王国では伝説上の生き物として伝えられていますね。人を水中に引きずりこむ怪物と」
それ見たことかとフィンケ以下反対派が勝ち誇った表情をするが、その表情は誰も見てはいなかった。
アンリの言葉は続き、次は別の更に分厚く、大判の豪華な装飾のある本を取り出してきた。そこに書かれている文字は更に古い、神代の言葉。これは流石に読めるとユージェニーはそこに書かれた文字列を追う。
「それから、神話にも記述がありました。要約すると、騎士がこの水馬に乗って湖を渡り、神敵を矢で射殺したそうです」
次は賛成派の文官が勝ち誇った表情をしたが、やはり誰も見ていなかった。
「えーっと、水神からの賜り物なのかな」
「そうですね。この騎士についてはまた調べ直さないといけませんが、少なくとも悪しき存在ではないと断言できます」
アンリがそう言い切れば、ユージェニーは頷く。
「よし。ひとまず飼ってみましょう。管理は捕まえてきた子達にさせて、しばらくは無関係な人員は近寄らせない事。それから、糞尿もよく調べるように」
「は、伝えてきます」
「今日触った人はしっかり水浴びしなさい」
ユージェニーの指示に侍女が頭を下げてさっさと部屋を出て行く。後に残された文官たちは自分達の頭を飛び越えて命令を出されたことに良い顔はしなかった。そんな彼らにユージェニーはあからさまなため息をついて、机を挟んで向こうに立つ文官たちを見渡す。
「さて、双方の言い分は真っ当な物です。仕事が効率的になるのも正しい、何らかの疫病の危険性があるのもまた事実。そこで、妥協点を見出さず水掛け論になったのは反省すること」
ユージェニーのその言葉に、文官たちは表情こそ変えなかったが、雰囲気を強張らせた。
それを見たユージェニーは窓の外をちらりと見て、外が暗くなり始めているのを確認する。
「今日はもう帰ってよろしい」
文官たちが執務室を兼ねる大広間からぞろぞろと退出していき、後に残されるのはユージェニーとアンリ。二人は露骨にめんどくさそうな表情と雰囲気を作り、残ったハーブティーを一気に飲み干した。
「王国人って全員あんななの?」
「頑固な人が多いのは否めません」
乱暴な物言いのユージェニーに、アンリがため息をつく。ユージェニーはアンリに気分の悪いことを言わせたかなと反省し、頭を掻いた。
「まあ、私達はいい加減だから彼らが上手くバランスを取ってくれるようになれば良いんですけれど」
事実、草原の国出身の文官は言い争いが始まった途端に、やっていられないと言わんばかりにさっさと行動をし始めてしまった。この辺りの折衝は確かに大仕事になりそうだなと、もうすでに肩が凝りそうだった。
やがて、いつもの侍女ではないメイドがカップ類を下げに来れば、二人は大広間から出て扉の鍵を閉める。そして、くつろぐために暖炉のある広間へと足を向けた。
「そう言えば、なぜあんなにも速く水馬のことが分かったんですか?」
「ん?水馬に聞いたからじゃないかな?」
「聞いた?」
そこまで長くない廊下を歩く中でアンリが首を傾げる。そんな彼女の仕草に、ユージェニーは広間の扉に手をかけながら眉を上げ、こちらを見てくる白い仮面を見つめ返す。ややあって、事情を察した彼女は目を大きくさせながら扉を開きつつ、アンリの疑問に答える。
「ああ!私達は動物と喋れるんですよ。流石に初めて見る動物とはすぐには喋れないけど、しばらくしたら大体喋れるようになります」
暖炉の火で暖かくなっていた広間に入り、アンリは初めて知った草原の国の人の事実に驚いていた。動物と喋るなんて考えもしなかったし、それを当たり前の事のように喋るユージェニーのことを純粋にすごいと思った。
「子供のころには渡り鳥に色んな事を教わりました。馬にはよく『乗り方がなってない』と怒られましたよ」
暖炉の前のソファに座り、懐かしそうに喋るユージェニーの横顔をアンリは見つめる。
「水馬はどういう話をしてくれるんだろうか」
ユージェニーがどこか遠くを見ながら暖炉の火へと目を向けるのに、アンリは上手く言葉が返せなかった。そして、アンリは彼女から視線を外し、暖炉の火を見て、それから窓を見た。
ゆっくりと暗くなっていく窓の外、部屋の中からの光が外の白く降りしきる雪をオレンジ色に照らしていた。
「雪」
ユージェニーも外を見て、アンリと同じように呟いた。
「雪ですね」
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