人無し河口
朝、嗅ぎ慣れない匂いに起きる。
身じろぎをすれば自分とは別の体温と息遣いを感じ、それに僅かに体を硬直させてしまう。
ああだめだ、はやく慣れないと。
アンリはそう寝ぼけた頭で考えながら、その嗅ぎ慣れない匂いを吸い込んだ。
香しいような、息がつまるような、灰と煙の匂い。詩的に表現するなら、火の匂いか。今まで生きてきて嗅いだ事のない匂いだった。
その匂いの主は、自分の死んだ兄の妻。どういう因果か、アンリは兄の代わりに結婚式に出、そのまま兄の代理人として彼女と同じベッドで寝ていた。
すると、ギィギィと木が軋む音と共にベッドが揺れる。
「ん……?」
ユージェニーは地面が揺れたことに敏感に反応して、すぐさま目を覚まして上半身を起こす。その時、自分がアンリと共に寝ていたことをすぐに思い出して、慌てて隣を見た。そこには、後頭部を見せベッドの外へと手を伸ばすアンリがいる。
「起こしてしまいましたか」
「いえ、大丈夫です。私も起きていましたから」
ユージェニーに背を向けていたアンリはそう言いながら仮面を手に取り、それを顔に付けてから振り返る。ユージェニーはアンリとここしばらく行動を共にしているが、彼女の素顔を見たことが無いなと思いつつも、大きな揺れで叩き起こされたことを思い起こしてすぐにベッドから降りると、しっかりとした作りの寝間着の上からマントを羽織った。
「外を見てきます」
「はい」
ユージェニーはそう言いながら部屋の扉を開き廊下へと出た。すると香って来るのは潮の匂い、それから水夫たちの声。そして廊下の先の階段から、冷たい風と共に降りてきたのは彼女の侍女だった。
「お嬢」
「揺れに何度も何度も叩き起こされた。おかげさまで寝不足だよ」
「ははは、逐一揺れますもんねぇ、船って奴は。私も何度も飛び起きましたよ」
船。そう、今ユージェニーがいるのは、新領地へと向かう船の中だった。ハンスが冥界から舞い戻ったその次の日、彼直筆の手紙を出して見せると、神官が大興奮して『冥婚は成功だ!』と大騒ぎし、各方面に彼の手紙が送られればあれよあれよと事態が当初の予定通りに事が進んで行って、いつの間にか海の上。
ユージェニーはこうやって自分は仕事に忙殺されて行くのかな、などと考えながら廊下の先の階段を登って、甲板へと出る。
東の方を見れば、僅かに白波が立つ冬の大海原の向こうに朝日が上って来るのが見えた。それに眩しそうに眉をひそめ、逆の方角を見る。そこには、岩がむき出しの背の高い岸壁が見えていた。
「姫さん。起きてこられましたか」
「はい、あれが?」
「そうです。あの断崖絶壁が目的の島、ポーラ島でさあ」
どこからともなく現れた日に焼けたひげ面の男が大声でそう言い、改めてユージェニーは岸壁の方を見た。ポーラ島が新領地のある場所だ。島と一口に言っても、かなり広い島で一国ほどの広さはあると言われていた。言われているだけで誰も確認したことは無いのだが。
その上、今見えているように、島の外周の殆どは断崖絶壁になっていてとてもじゃないが船で接舷できやしない。
唯一停泊出来る場所が、今向かっている場所であり、ユージェニー達の新たな故郷だ。
「後数時間で、人無し河口に付きまさあ」
「そうですか」
船長はそう言い残して作業に戻る。ユージェニーはそれを見送った後、水夫の邪魔にならないように気を付けながら縁へと近付き、船の向かう先を見る。
「人無し河口」
そう呟いたのが目的地。ポーラ島から流れ出る川が海へと直接流れ込む場所で、今発見されている唯一の港や居住地として使用できる場所だ。そこは昔から知られていたが、人は誰も住んでおらず、住もうともしなかった。だから人無し河口と言われていた。
「名前も付けないといけませんねえ」
「だね」
侍女の言葉に頷き、名前を付けるのはまだまだ先はだろうとユージェニーは一人思った。
そして、ユージェニーとアンリを乗せた船を含む船団はやがて前方に小さな島からなる群島を臨んだ。群島は落葉した木々が立ち並び雪も積もった寒々しい光景が広がっていたが、木々は大きく数が多かった。
「あの小さな島が人無し河口の入り口でさあ。あの辺りはこの時期は海水だけんども、春から夏あたりになると淡水に近くなるんでさ」
船員がそう説明しつつ、その群島の間をすり抜けて行くと、その奥にはかなり広い河口が広がっていた。端から端までは一目では見えないほどの広さだった。
そして、その河口には三角州が幾つか広がっており雪が積もっていた。その白い絨毯の下には農地があるはずだとユージェニーは頷く。
「ユージニア様」
その声にユージェニーが振り返ると、そこには分厚いコートに身を包んだアンリが立っていた。
「もうすぐ着くそうですね」
「はい。あと一刻ほどでしょう」
白い息を吐きながら二人はゆっくりと進む船の縁に立つ。人無し河口には数多くの三角州や島が点在していて、そこに作られた小さな町からは領民がこちらに手を振っていた。それに手を振り返すユージェニーと、そんな彼女を静かに見守るアンリ。
「美しい景色ですね」
「はい。王国では見れない光景です」
そんなことを話していると、やがて船は今までで一番大きく、かつ三角州よりもしっかりとした地盤があるらしい島へとたどり着いた。そして、船に掛けられたタラップを二人が降りて行くと、そこにはメガネをかけた優男が数人の護衛を伴って立っていた。
「ようこそ、人無し河口へ。ユージニア様、アンリ様」
「代官殿ですか」
「はい。この人無し河口を差配しています、フィンケでございます」
フィンケと名乗ったメガネをかけた神経質そうな男が王国式の、胸に手を当てる礼をする。それを聞くのもほどほどに、ユージェニーは頷き返事をしつつ港の光景を見る。倉庫らしいかなり大きな木造建屋が連なっていて、その奥には比較的大きい建物が立ち並んでいた。そして、道には新たな領主を一目見ようと数多くの領民でごった返していた。
その全員が王国人であった。草原の国の民の多くは今日の船団で移民する事になってるのでいないのも当然だった。
ユージェニーが領民へと手を挙げて応えていると、彼女のその態度にフィンケがムッとした表情を作り、それをすぐに取り繕う。
「ひとまず屋敷に行きましょう」
フィンケのその言葉にユージェニーとアンリが頷き、彼の先導で港を一団が進んでいく。すると、別の船から降りてきていたユージェニーと同じ民族衣装の男が何度か口笛を吹いた。その方向に、ユージェニーと彼女の侍女が足を止めずに顔を向けると、侍女が口笛を吹き返す。
それに返事らしい短い口笛が帰ってきて、その光景に疑問を抱いたらしいアンリがユージェニーのことを見上げるが、ユージェニーはその視線に気づかずに遠くの方を見ていた。
そして、停泊している船や今まさに港に入って来ようとしている船からも同時に似たような口笛が響き、にわかに港が演奏会のようになる。
「騒々しいですね」
フィンケがそう呟いたのに、ユージェニーと侍女は目を合わせて肩を落とす。そんな光景を、アンリは仮面の下から眺めていた。
領主御一行はその一件以外は特に何事も無く港を抜け、そのまま領民が分かたれて作る道を進み、港のある島で一番立派な建物へと入っていく。
門を抜けて屋敷の前に広がるガーデンはまだ本格的に手が加えられておらず、芝生だけであり、冬の時分とも相まってかなり寒々しい印象を与えていた。
「アンリ様はガーデニングにも造詣が深いそうですね」
「はい。家ではよく学びました」
「落ち着いたらぜひとも貴女に造園を頼みたいです」
二人が寒々しい芝生の庭を見てそんな会話をしていたら、玄関扉を開けかけていたフィンケが眉を顰めながら振り返った。
「いやいや、そんなことを勝手に決められても困ります」
それに一瞬剣呑な雰囲気を出したアンリに、困った表情をするユージェニー。そしてもう一人、侍女はそのフィンケの態度に何かを察したのか、提げていた鞄を脇に抱えるように持ち直した。
そして、僅かにぎくしゃくとした雰囲気を纏わせながら一行は屋敷へと入り、玄関ホールを抜け、大広間へと入った。そこには大きな机が置いてあり、そこに広げられた書類や地図からを見るに、もっぱらここで領地運営の諸々が行われていたことが察せられた。
「お嬢。これを」
「ん」
広間に主要人物が入り、フィンケが何かを話す前に、侍女が鞄の中から1つの書類を取り出した。書類の表表紙には王国の紋章と草原の国の紋章との両方が描かれていた。
「おお、そちらが委任状ですかな?」
フィンケが恭しく両手を差し出したのに、ユージェニーは疑問符を浮かべながら僅かに素っ頓狂な声を上げる。
「いや、私がこれからここの領主ですよ」
「まさか」
困惑した表情を見せながらそういったユージェニーに、フィンケは茫然とした表情を向けてくる。彼女はとりあえず書類を見せるかとそれを彼に手渡した。
「いや……そんな……そんなはずでは……」
フィンケが戦慄く指で書類をめくっていくのに、ユージェニーが首を傾げていると、侍女が横から彼女の肩を叩いた。そして、目の前の男には伝わらないように、草原の国の言葉で話し始める。
「お嬢、そちらのフィンケとかいう人、自分がこの領地を運営できると踏んでいたんだと思うよ」
「あー……なるほど。権力を握れると思っていたのか」
「多分ね」
ようやく事態を理解したユージェニーが、咳払いをしてフィンケをこちらに注目させる。
「フィンケ殿には代官としての任を解き、一人の文官として領地運営に入ってもらいます」
「お、お待ちを!慣れない土地、二つの民族の折衝もあります、私めにお任せしてくれれば万事良きようにします!」
言うに事欠くフィンケに、ユージェニーは呆れを隠しながら努めて平静な言葉を発する。
「問題ありませんよ。直近の方針はハンス様に貰っていますし、人の上に立つのには多少の心得があります。それになにも、王国の文官を追い出すことはしません。貴方だって重用しましょう」
「は……ははっ!」
顔を僅かに青くさせながらフィンケが胸に手を当ててユージェニーに敬意を表したが、侍女は胡散臭そうな物を見る目を向けながら草原の国の言葉で囁く。
「お嬢、あいつ信用なりませんよ」
「まぁ……うん。しばらく様子を見ようか」
そんなやり取りを横で見せれれていたアンリは仮面の下で誰にも気づかれないように小さく溜息をついたのだった。
その日はようやく来た領主の歓迎会が夜まで行われ、王国と草原の国双方の有力者の顔合わせが行われた。その時、王国側、とりわけ領に古くから務めている者が硬質な態度であったので、この辺りの折衝を雪解けと種まきが始まる春までに行わないといけないなと、ユージェニーは決意した。
そして、歓迎会がお開きになった夜、領主に近しい人物だけが入れる暖炉のある広間に、ユージェニーとアンリ、そしていつもの侍女がいた。フィンケはいない。
侍女の入れたハーブティーを御令嬢二人が飲みながら暖炉の火にあたっていると、アンリがカップを置いてユージェニーへと向き直る。
「ユージニア様」
「何でしょう?」
ユージェニーも大事な話かとカップを置いて、アンリへと向き直る。アンリはソファに膝を合わせて行儀よく座っているが、一方のユージェニーは股を開いているという、対照的な仕草だった。とはいっても、アンリがスカートを履いている一方でユージェニーの方はズボンのような民族衣装だという違いはあるのだが。
「寝所はやはり同じになるのでしょうか?」
そして、アンリが出した話題は、結婚の日から続いている同じベッドで二人が寝ていることについてだった。事実、今日の朝を迎えた船でもそうだったし、それ以前の王国で過ごしている時でもそう。
一方でこの屋敷には二つの部屋が用意されてはいた。
「神官様から、本来の夫婦と同じように過ごす事と言われているのでそうなります。私たちの文化では夫婦は出来る限り一緒にいるものですから」
だが、ユージェニーは申し訳なさそうにそう言う。
冥婚において、死んだハンスの代わりをアンリが務めるために、神官からは徹底的に二人に夫婦の役を演じて欲しいと念押しされていた。今回の場合、ハンスがもう亡くなっているため草原の国の文化に倣うようにするべきだとも助言されていた。
それを聞いたアンリは神妙に頷く。彼女とて、ハンスが死に、二つの国のために冥婚をするとなった時、出来る範囲で兄の代わりを務めようと覚悟を決めているのだ。ユージェニーがそう言うのならば、もはや否やは無い。
一方のユージェニーは頷いてくれたアンリを見て、頭を掻く。そして、侍女の方を向いた。
「後日ゆっくりと話すつもりだったのですが……、こちらをどうぞ」
侍女がどこからともなく取り出した書類がユージェニーを介してアンリの手に渡る。
「神学や魔法について詳しいそうですね。ぜひともその知恵を貸して下さい」
アンリが目を通したその書類の文字は確かに自分の死んだ兄の物だった。
生前の兄が、妹が新領地に来ることなど予想できるはずもない。なら、死んだ後に、冥婚の儀式によって、自分の体に宿った時にれは書かれたはずだ。アンリは、先ほどフィンケの手に渡った書類も兄が書いた物だったのではないかと察した。
「重ねて、私たちの文化では、男だろうと女だろうと関係なくその物事が詳しかったり才能を見出されたのなら、その仕事に従事する物なのです。ですから、アンリ様も一定以上の仕事はしていただきます。この領では人手も足りませんし、ますますそうです。王国とか草原の国とかは関係なく」
「……分かりました。全力で事に当たらせていただきます」
ユージェニーの言葉に、ややあってアンリは頷く。結婚をすれば籠の鳥となる王国の文化とは正反対なことに少々違和感を覚えたものの、自らの力を欲する人が目の前にいて、死んだ兄にも期待してもらっているのだ、断る道理などなかった。
アンリがそう頷いてくれるのに、ユージェニーはまた新しい物を取り出した。
「それからこれも」
そう言いながら彼女は1つの封筒をアンリに手渡した。それは、ハンスに言って書かせた兄から妹に対する個人的な手紙だった。アンリはその封筒に書かれた兄の名前と自分の名前を見ると体を跳ねさせ、口元に手をやった。
そんな様子を見たユージェニーは侍女に目配せをして、部屋から出ようと立ち上がる。
「先に寝ています」
「……はい」
アンリの返事は、震えていた。
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