海を売る人 雨の研究者

@kotume85

 海を売る人Ⅲ 雨の研究者


 何故だろう。子どもの頃から、雨の日が好きだった。雨粒の形が目に見えたなら、綺麗だろうに。雨降りの匂いに取り巻かれながら登校し、教室の中から窓の外を眺め、いつもそう思っていた。一粒一粒が、もっとゆっくりと地上に降り注ぎ、絶え間なく、目に見えない糸に連なるようにして零れる落ちるのを、見ることができたらいいのにと。様々な形の小さな雨の玉は、透明な硝子のように光り、地上に跳ねて吸い込まれるだろう。


 雨の生まれた場所を、次第に僕は思うようになった。美しいカワセミに色を分け与えた流れや、光を閉じ込めてなお昏い海が、僕を待っている気がした。

 僕の初めての記憶には、水面に降り注がれる雨と白い塵が、古びた印画紙に刷り込まれた空気の中に音もなく散って消えていく、そんなイメージがあった。

 成長するにしたがって、それは偽物の記憶なのだと思い込もうとしたが、空から雨が落ちるのを見る度に、墨のように細やかな粒子が集められては散っていく海の波が、とっぷりと脳を浸した。確かに、本物の記憶の中で、滲んだ海の匂いは、雨とともにあったからだ。

 雨は、海の欠片を内包している。

 だから僕は、それを集めて回る研究者になった。




 研究室は地方都市にあった。

 雨の研究と言っても、様々なものがある。気象の一部としてのものや、地学としてのもの、それらはどれも地球をめぐる事象と関係が深い。特に、海とは。

 雨は透明な水滴のようでいて、実は微細な核を持っている。それは、遠い海から波によって弾けだしたプランクトンの欠片だ。古代から棲息する多くのプランクトンの欠片を、僕は研究チームとともに、雨の中に探していた。

 プランクトンの影響が考えられる範囲に、僕たちは雨水を集める小さなカップを設置していた。天候を見ながら、そこに雨水が溜まった頃、回収をして歩くのは興味深いフィールドワークだった。僕が最も楽しみな仕事でもあった。


 雨水を集める場所は、研究室のある街を含め、様々な地点に設置されていた。街なかのビルの屋上や郊外の住宅地、畑の片隅や海辺、遠くは研究室から二百キロほど離れた地点にもあった。それらを、同じ研究室の同僚と分担し、それぞれ管理と研究をしている。

 僕は、毎朝研究室に着くと、自分が管理している百カ所余りある観測地点の天気予報を確認する。天気や雨量から、溜まった雨水の大体を推定し、回収して回るのだ。

 もちろん、毎日を雨の回収に明け暮れているわけではない。研究にとって重要なのは雨水に含まれるものの分析であり、そのためには、多くの時間を顕微鏡やコンピュータと対峙して過ごさなければならなかった。

 目当てのプランクトンの欠片を幾つもカウントできた時は嬉しかったし、今まで見たことのないプランクトンを発見した日には、仲間と歓喜しながら解析し記録した。それが、後に既に発見されたものであったと分かったとしても。


 ある日、同僚が僕に声を掛けた。

 「これ見てくれないか?」

 「ああ」

 彼の観察している雨水に、何かあったのだろう。僕は目の前のコンピュータから離れ、彼が座っていたスツールに移動して、偏光顕微鏡を覗いた。

 「……あれ?」

 「だろう?」

 僕たちは顔を見合わせた。

 「これ、どこのサンプル?」

 「M村……もう村じゃないか。ほら、君のお気に入りの場所だよ」

 「あそこのなの?」

 大抵は、それぞれに割当った観測点を研究していたが、ほんの時折、特に机上が煩雑になっていると隣の領分に自分のサンプルが混ざってしまうことがあったし、他の観測地点から借りてきたサンプルを見ることもあった。だから、僕たちは、どんな小さなサンプルにでも必ず日付と場所を明記していたが、これは、たまたまそんな例だった。

 僕は、再び顕微鏡を覗いた。

 僕たちが探しているのは、幾重もの鱗状の鎧を持つ古いプランクトンの、鱗の部分だった。それらは、古代から地球上の海のあらゆる場所に生息している。とりわけ僕たちが注目するのは、多くが熱帯の海に生息するある種類だった。それらが僕の住んでいる周辺に、雨の核となって降り注ぐこと自体が興味深いのだが、問題はそのプランクトンの持つ鱗、コッコリスと呼ばれるものの形状だった。

 2μmほどしかないコッコリスは、円盤型や喇叭型、松かさの鱗片やキノコに似た形、御伽物語に出てくる橋のようなブリッジが付いた形など、様々な形状をしている。さらにひとつのプランクトンが複数の形のコッコリスを持つ場合もある。それらはすべて、まるで古代から雨の核になるべく運命づけられていたかのように、うまく空気中に漂う形状になっていた。僕たちはその研究者だったから、今まで学会で発表になり、分類されている標本をほとんど記憶していた。だが、今、僕が覗いている視野に見えるのは、記憶にはない形をしていた。薄い二枚貝を開いたような形で、真ん中が窪んでいる。それは、ごくごく小さなシジミ貝のようでもあり、開いた様は図形化された蝶と言ってもよかった。この種のプランクトンでは見ない形だった。

 「何か、混じったと思う?」

 彼は僕に問いかけた。各地点に置かれている機器の具合で、バクテリアや花粉などが混じるのはよくあることだった。

 「……うん……でも、よく見るバクテリアはいないし……、砕けた花粉で一律の形になる物はあるかもしれないけれど……サンプルの残りは?」

 「これから取った」

 彼は待っていたように、雨水の入ったマイクロチューブを僕に差しだした。僕はそれで観察用のプレパラートを幾つか作ると、再び二人で顕微鏡を代わる代わる覗き込んだ。

 「……あっ、いる」

 「どこ?」

 「真ん中、七時」

 僕たちは、白く丸い顕微鏡の視野の中に、明らかに見たことのないプランクトンの欠片を見ていた。

 「……すごいな」

 僕たちは、新しい発見の刹那に一瞬呑まれた。

 「この地点、今どのくらい溜まってる?」

 同僚は僕よりも冷静だった。再び確認し、数や、時期があるのなら時期を、他に観測しなければならないことが幾つもあった。

 僕は、自分のコンピュータの前へ戻り、今朝確認した天気から溜まっているはずの雨量を計算した頁を開いた。

 「まだ3㎜程度」

 「そうか……」

 「少し少ないかもしれないけど、5㎜になったら回収しに行ってみるよ」

 「うん。任せた。僕は……とりあえず標本にしておくか」

 「そうだな」

 新しい発見だと思ったことの極めて100%に近いことは既知の事実であることを僕たちは知っていた。優秀な研究者ほどその事実を肯定できるのだ、と僕の指導教官はよく言っていたものだ。同じ研究室で彼の薫陶を仰いだ者は、だから新しいと思われる発見には懐疑的だったが、ある程度の喜びは、それが既に知られたことだと分かるまで享受した。なぜなら、その教授本人が、発見の喜びを子どものように目を輝かせて僕たちと分かち合ったからだ。束の間であっても、それが人生の重要な彩りだと言って。

 だから、僕たちは、次の回収までをわくわくしながら待った。


 新しいと思われるプランクトンの欠片を見つけた地点のサンプルを得るには、まだ何日かかかりそうだった。そこで僕たちは、膨大なプランクトンの資料を調べ始めた。プランクトンは、ほんの一杯の量の水の中に、この町の人間の数よりも多くの個体が生息している。その種類はもはや有史では解明できない世界だろうとも思う。だから新しいプランクトンの発見は、実は特別珍しいことでなかった。僕たちは希望を持って調べた。

 調べている間にも、他の地点の雨水の研究も怠ることはできなかった。僕は、勤勉にサンプルを消化していき、定量が溜まったであろう地点の雨水を回収して歩いた。




 「こんにちは」

 僕は、なんだかセールスマンになった気分でそのビルの地下にある喫茶店の扉を押した。

 「いらっしゃい」

 マスターは、この喫茶店を引き継いだばかりの僕の友人だ。

 「回収?」

 彼は、僕の顔を見るなりそう聞いた。

 「そろそろね。だから見に来た」

 何年か前、僕がこの街での観測地点を探していた時だった。人づてに、彼がこのビルの管理を任されたと耳にしたのだ。僕は適当なビルの屋上を探していたし、人との交渉は苦手なことの一つだったから、迷いなく彼を訪ねた。学生時代、部活のチームで長い時間をともに過ごした友人だった。彼と直接連絡を取ったことはここ何年もなかったが、僕たちは互いの動向を知っていたし、雨の観測に必要な小さな器具を設置させて欲しいと言ったときも、二つ返事で了承してくれた。それから、僕はこの地下の喫茶店を常連として利用していた。

 「その前に、昼飯、食べさせて」

 僕は、カウンターのスツールに腰掛けた。

 「早いな、昼飯」

 辺りを見回すと、まだお客はいなかった。

 「だな、早かった」

 僕は、相槌を打つと、肘を乗り出してカウンターの奥を覗き込んだ。

 「で、何食べさせてくれる?」

 「お前の母さんになった気分だ」

 「家の母さん、飯まずいよ」

 彼は僕の答えに笑った。

 それから、彼は背を向けて調理を始めた。油に何かが焦げるいい匂いが辺りに流れ、僕は向こうに置かれた、彼が自分用に淹れたドリップコーヒーに目を留めると

 「もらうよ」

 と立ち上がって、遠慮なくカウンターの中へ入った。誰もお客がいないと、彼はうるさいことは言わなかった。

 僕は、棚に綺麗に並べられた中から適当なカップを選び、コーヒーを注いだ。中に立ったまま、それを一口飲んだ。

 カウンターの中に入るのは初めてではないが、辺りに置かれているものをあれこれと眺めた。僕の実家のキッチンよりも充実しているな、と思いながら時には手を伸ばして珍しい調理器具を持ったりもした。

 「そこ、気を付けて」

 フライパンを揺すりながら、彼が声を掛けてきた。

 「どこ?」

 「床」

 僕は、床に目をやった。

 「出るときに」

 と彼が言い、ああ、とカウンターの出入り口付近に置かれた雑誌の山に気がついた。

 「分かった」

 コーヒーを手に、僕はついでにその雑誌を一冊拝借し、スツールへ戻った。

 「これ、随分あるね」

 僕は、珍しい音楽専門雑誌を捲った。捲りながら、何か腑に落ちないものを感じて、もう一度表紙に戻った。

 「前のオーナーがね、執筆していたんだって」

 「へー」

 僕は、目次に目を落とした。

 「なんていう人?」

 「分からない。今のオーナーは、谷川さん」

 彼は、しばらく海外生活をする谷川さんから雇われてこの喫茶店を営み、さらに喫茶店の入るビルを管理していた。

 「……やっぱり、谷川さんっていう執筆の人はいないな……」

 僕は、音楽よりも雨音を聴く方が好きだったので、掲載されている執筆者の誰も知りはしなかった。けれど、有名なピアニストや指揮者は名前だけは知っていたし、彼らの記事は興味深かった。

 「『約束の地へ』……か」

 目に留まった、知らないピアニストのインタビュー記事を、声に出してみる。

そうやって、目次を斜め読みしながら、一つだけ、なぜだかひどく毛色の変わった題名を目にし、頁を開いてみた。

 僕はいつの間にか、コーヒーを飲むのも忘れ、読み耽っていた。


 気がつくと、僕のために用意してくれた昼食のプレートが目の前に置かれていた。

 僕は、顔を上げ、礼を言った。

 「ありがとう。うまそうだ」

 「随分熱心に読んでたな」

 僕は、苦笑した。

 「音楽に興味はないんだけどさ、音楽じゃないことが書いてあるのもあって」

 「ふうん。どれ?」

 僕は、彼へ、僕の読んでいた頁を開いたまま雑誌を差し出した。それから、いただくよ、と声を掛けてフォークを手にした。

 彼は、僕が食べている間、それを読みながらコーヒーを啜った。お客は、まだ誰も来ない。読み終えると、彼は顔を上げて言った。

 「これさ、保存状態がすごくいいけど、随分古いものなんだ」

 僕は、食べながら答えた。

 「へー。いつの?」

 「結構……軽く三、四十年くらい前の」

 「え?」

 僕は驚いた。驚いた拍子に、どこかでこの雑誌の山を見たことがあるという記憶を思い出した。どこでだったのだろうか、僕は考えながら体を捻って、カウンターの向こうに積んであるものを覗き見た。そして、その雑誌の山がいやに端まで揃って綺麗なままなことを不思議に思った。

 「すごいな。どうやってとって置いたんだろう」

 「だよな。書店に並んでも分からないレベルだ」

 僕は、軽く腰の高さまで積まれた雑誌の山から目が離せなかった。どこかに、これと同じように積まれていたはずだと、思い出そうとした。それから友人に尋ねた。

 「読んだの?」

 「少しは」

 「お前のじゃないんだよね?」

 「この喫茶店の付属物。ここは、家具類の配置なんかは自由に変えていいけれど、食器やこの雑誌はそのまま保管して置かなくちゃいけないんだ。床と天井や照明も、変えちゃいけないって言われてる。あそこのピアノもね」

 僕は、それほど奥まった場所ではないところに置かれているグランドピアノを横目で見ながら、彼が出してくれたアイスティーで食べ物を飲み込んだ。

 「ふうん」

 「ま、雇われマスターだからね。でも、ここ自体が気に入ってるから、特に支障はないんだけど、この雑誌はね、難問だよ。やっぱり、もと置かれていた場所に置いておくしかないな」

 彼は、奥を整理しようとして、雑誌を引っ張り出し、片付けが済んだ後もう一度もとに戻すつもりだと言った。

 「そうか」

 それから彼は、手にしていた雑誌を閉じ、丁寧に山の一番上へ置いた。僕は、時計を見上げた。間もなく昼時だった。お客がやって来るだろう。僕は、立ち上がって、カウンター越しにプレートとコップを返した。

 「ごちそうさま。いつも思うけどさ、また食べたい」

 彼は微笑み、僕はお勘定を支払うと、屋上の鍵を受け取って雨水の溜まった観測カップを回収しに行った。




 その翌日、待っていた観測地点で雨が降った。二日ほどその地域では天候がぐずつく予定で、もう十分な雨水が溜まっているものと思われた。

 僕は、同僚たちの期待を預かる形で、雨の回収へ向かうことにした。

 そこは、海から一番離れたところにある観測地点で、とりわけ僕が気に入っていた場所でもあった。研究所からは一日日程でぎりぎり往復することができる、人里離れた場所だ。

 朝早く出掛ける必要があったため、僕は前夜から回収バッグに交換用の新しい採取容器をセットしたり、携帯食や飲み物、上着をリュックに詰めて玄関に準備し、出掛けるばかりに整えてから眠りについた。眠りに落ちるほんの一時前、雨の音を聞いた気がした。そうだ、この辺りは夜半雨の予報だった。明日は念のため傘をリュックに入れていった方がいいだろう、考えたのはそこまでで、記憶は雨音の中に沈んだ。

 翌朝、僕は半睡しているかのようにどこかだるい体を起こし、ベッドから立ち上がった。足の裏が少し膨れあがっているような、奇妙な感覚があったが、寝起きで体の水分がまだうまく循環していないのだろうと考えた。

 時計を見ると、もうそんな悠長なことを考えている暇はなかった。急いで身支度を整え、駅に向かう道すがら食べ物を調達した。

 始発の電車では、お気に入りの場所へ向かう楽しみや好みの朝食とともに、ことさら心地よく過ごした。車窓の風景は、住宅地を離れると、少しずつ畑や原野に家が点在する光景に変わる。切り取られた絵画に色を塗り重ねるように変化する、草や木々の鮮やかな緑が、一瞬のうちに白い刷毛で絵の具を散らされたようにめくるめく風に吹かれて過ぎる。

 電車の中は、僻地へ向かうため人が増えることはなかった。少ない乗客が一人、二人と下車し、僕は車両に一人きりになった。それも、いつものことだったし、僕は一人で飽きることなく窓の外を眺めて過ごした。

 終点の駅は、もはや定住している人も少ないからか、僕と入れ替わりに乗る乗客は一人しかいなかった。

 無人の駅を出ると、僕は離れた場所にあるバス停へ歩いた。目的地までバスが通っていることは奇跡だった。

 十年ほど前、雨水のサンプルを集める候補地を僕たちは探していた。その一つが、海から最も離れた場所であることが条件の土地だった。また、あまり余計な生物が混じらない環境が望まれた。そこで地図と様々な計測から選定したのがこれから向かう土地だった。

 錆びて歪んだ古いバス停に立っていると、間もなくバスがやって来た。路線バスよりも小さなタイプのバスに前屈みに乗り込み、僕は適当な席に腰掛けた。

 どの場所も運転席から近く、中年の運転手は気軽に話しかけてきた。

 「お客さん、どこまで行くの?」

 僕は答えた。

 「M村です」

 「ええ、そうなの?あれ、お客さん、この前も乗ったね」

 一年に何度も訪れているし、村で乗り降りする人間は珍しいだろうから、覚えられているのだな、と思った。

 「はい。仕事なんです。研究のために設置している雨水を回収しに時々行ってるんです」

 「ああ、そう、それで。あの辺は、もう人は来ないからね。でも、最後の住民が出て行ってから、まだ二十年くらいだから、時々、自分の古い家を見に来る人もいるんだよ」

 「へえ、そうなんですか」

 じゃあ、かなり壊れかけた家だとしても勝手に借りたりしてはいけなかったのかな、と僕は思った。

 「だからバスが通ってるってわけじゃなくてね、終点があそこなのは、ただうちの会社が路線変更するのが面倒っていうだけなんだ。ほら、時刻表の印刷とか、バス停の撤去とか、もろもろあるから。この辺りは過疎化なんて言葉じゃ足りないほど人がいないからね、新しい時刻表なんて十年以上作っていないよ。でも、会社もとうとう代替わりしそうだから、お客さん、次に来るときは自家用車じゃなくちゃこられないかもしれないね」

 「そうなんですか。教えてもらって、助かります」

 次回は、確認してからでなければ来られないな、と僕は思った。

 道路が砂利道に変わった。運転手も僕も舌を噛んではたいへんなので、自ずと黙りがちになり、砂利はバスの腹にひっきりなしにぶつかっては身の置き所を少しずつ変えた。間もなく終点に着くだろう。

 「帰りは、時間、間違わないでね。じゃないと歩いて駅まで行かなくちゃいけなくなるから」

 運転手はそう言ってバスの扉を開け、僕は背を屈めたままお礼を言って料金を払い、バスを降りた。バスは、僕を下ろした目の前で、切り返しターンをして今来た道を戻っていった。バスを見送る、砂利道の古い轍の間には、長閑に雑草が茂り、遠くまで続いているのが見えた。




 降りた場所は、人の気配のない置き去りにされた集落だった。記録を調べたことがあるが、ここはダムに沈む候補地だったのだ。住民の反対からそれは回避されたものの、結局は、人の居住には不便の重なった土地だった。最後の世代がここを出た後は、誰も住み着くはずもない、昔の人里になった。新しい地図には、村の名前も消えてしまっている。

 僕は、本当の一人になって、ふっと溜息を吐いた。

 それから、さて、皆が楽しみに待っている雨水を回収するか、と設置場所へ向かった。

 小さな集落に点在する家は、どれも古い造りで、軒の大きな入り口になっていた。

 初めて来た時には、適当な一軒を見つけるのにかなり手間取ったものだった。僕は、野生生物にいたずらされず、さらに雨水が人工物を伝わずに自然に滴る場所を探していた。何軒かの家の鍵の掛かっていない物置や廃墟のような土間を勝手に覗かせてもらい、丁度具合のいい片隅を見つけた時には、ほっとしたのを覚えている。

 その、許可もなく勝手に借りている場所へ、真っ直ぐに向かった。

 足には、伸び放題の雑草が絡み、地面を見ることはなかった。蛇でも踏みやしないかびくびくしながら進むと、目的の家が見えてきた。

 朽ちた門柱から奥へ入ると、足下には昔の石畳が敷き詰められている。大きく切り取られた石材の隙間から伸びる雑草はあったが、多くは摩滅し汚れた石畳に、種の生息を阻まれていた。

 土間の入り口の格子戸には、割れた磨りガラスの向こうに、古いカーテンが半分引かれているのが分かる。前回訪れた時に、僕が引いたままの状態だった。

 まるで一昔前の商店のような造りの戸を力を入れて引くと、正体のない暗い臭いが僕の鼻を取り巻いた。踏みしだかれた昔の土と、黴と埃が混じった臭いには、湿り気があった。僕は、埃っぽいカーテンを開け、中へ入った。戸は、黴の胞子を出すために開けたままにする。

 昔は、これがこの辺りの一般的な造りだったのだろう、広い土間に炊事場が備えられている。だが、その水道水の蛇口は、堅く止められたままもう誰も開くこともない。

 何十年と踏みつけられ、固まった土間は、かろうじて罅割れることなく状態を保っていた。その上には所どころ、この場に似つかわしくない淡い明かりが落ちているのが見える。屋根に穴が空いているのだ。それが、雨水の採取にうってつけだった。

 僕は、その淡く陽の落ちた場所の一つに、前回回収に来た時と何ら変化なく、溜まった雨水が保管されている採取器を認めた。

 早速近づき、容器を取り出す。適量には少し足りないが、まあ、問題はないだろうと思った。そして、肩から提げているバッグを開けると、新しい容器を出し、その空いた場所に回収した容器を置いた。容器には蓋を付け、さらに多少揺れても零れないように気を付けて収納した。それから最後に、新しい容器を採取器に設置する。

 僕は、ここを出る前に、傾げた首をぐるりと回し、屋根に空いた穴を確かめた。野生動物が侵入した気配はないか、目を細めた僕の顔に当る色のない日差しが翳るのを感じて、元の姿勢に戻った。

 いつもならこれで、回収は終わりだった。だが、僕にはまだ仕事が残っていた。まず、辺りの状況を写真に撮った。目的のプランクトンの欠片以外のものが混じる可能性を検証する必要があったのだ。新しい回収容器とは別に持ってきた容器に、土間の土も削って採取した。屋根を伝ったのなら別の微生物が混じる可能性があったが、ここはそうならないだろうと考えた。考えながら、土間を歩き回り、炊事場に積もっている埃まで採取し、これくらいでいいだろうと一息吐いた。

 僕は、板敷になっている上がりかまちを借りて腰を下ろした。多少揺らしても大丈夫だが、気を付けて回収バッグを置いた。さらに肩からリュックを外すと、生き返ったような気がして、背筋を伸ばした。

 リュックから、飲み物を出し、のんびりと辺りを見回しながら飲み干した。

 雨が降りそうだな。先ほどの陽の翳りに加え、湿気と乾いた植物の微細な油分の混じる匂いが漂うのを鼻腔に感じ、僕はリュックに傘を入れてこなかったことに気がついた。

 季節がいいと、僕はここを無断で借りている罪滅ぼしに、バスを待つ間は外の草むしりをして過ごした。暑い日や、寒い日には、板敷きのかまちをさっと拭き、横になって過ごすこともあった。僕は、両手を板に付き体重を掛けた姿勢で、雨が降り始めるのをじっと待った。

 やがて、夏の終わりの小糠雨は、天井の抜けた土間にそのまま音もなく降り注ぎ、辺りをただ雨の匂いだけに包んでいった。

 懐かしい匂いに目を閉じ、耳を澄ます。

 ごく細い雨音は、まるで立ちこめる霧に微かな音だけが伴っているようで、家の中にまでその音が忍んでくるのは、不思議だった。僕はしばらく、先ほどまでは薄い日だまりだったあちらこちらが更に湿っていく土間を、ぼんやりと眺めていた。


 ふと、前に一度、雨降りに傘を差して訪れたことを思い出した。

 雨は、腐食を進めながら同時に人の消えた集落を守っているように思えた。降りしきる雨の匂いの中で、僕は一人、雨粒が、際限なく生い茂った草木の葉に弾け伝う音を聞き、ああ、こんな慰めがあるのだと胸を閉じた。ズボンの膝までぐっしょりと濡れ、歩き疲れた体は重たかったが、何もかもが人の作ったものの周りで清涼な腐臭を閉じ込めるままに任せた。立ち止まり、気の済むまで雨の行方を見守った。辺りを煙らせ、雨の作った帳は里の飲み水となり、慈雨となる。

 美しい眺めと心地よい音だった。

 傘からはみ出した僕の手に、腕に、大粒の雨が幾滴も落ちて、僕の一部が雨水とともに標本になって、この集落に留め置かれる気がした。


 そんなことを思い出しながら、今日は、草むしりはなしだなとすっかり諦めて、腕時計を覗いた。

 帰りのバスにはまだかなりの時間があった。

 次に来るときは自家用車か、とバスの運転手が教えてくれた情報に僕はひとりごちた。自家用車は持っていなかったが、レンタカーを借りて来るのも悪くはないだろうと思った。そうしている同僚も多い。だが、気軽さが別の楽しみを奪う気もして、結局いつも電車とバスを利用した移動を繰り返してきた。そんなことを考えながら、体の姿勢をあちこち変えて家の中を見回していると、上がりかまちから続く居間の隅に、どこかで見たような光景を目にして僕は釘付けになった。

 雑誌の積まれた山だった。

 あれは……。そうだ。あの時の雑誌は……ここで見たものだったのだ。

 僕の中で、めくるめくように記憶が膨れあがった。

 ここに設置点を決めた時に、僕はあの雑誌の山を見ていた。なぜ思い出さなかったのだろうか。自分の記憶力を笑いながら靴を脱いで上がり込むと、砂塵の感触に靴下が汚れるのも構わず、雑誌の山に近づいた。見下ろすと、土埃に覆われたそれは、やはり同じ表紙の文字だった。こんな場所にこんな音楽雑誌があることが不自然に思えて仕方がなかったことさえ思いだした。近くには音楽愛好家を裏付けるレコードやステレオの類いは一つもなかった。いや、それらはここを出るときに持って行っただけであって、ただ、この音楽雑誌だけが不要品として置き去りにされたのかもしれなかった。

 不要になった雑誌は、角が捲り上がり、あの喫茶店で見た物とは比べものにならないほど汚れていた。だが、これほど集めて積み重ねられたものなのだから、愛着もあっただろう。

 僕は、雑誌に手を伸ばした。

 積もった埃を避けて、上から二冊目を引き抜き、土間の近くへ戻った。

 裏を見て、発行年月日を確認する。やはり四十年近く前のものだった。

 目次を開くと、当時来日していたピアニストや指揮者へのインタビュー、国内の今となっては多分重鎮の若かりし頃に撮影された写真に記事の題名が添えられたもの、そして、コラムに混じって僕が喫茶店で読んだあの小説があった。

 「『海を売る人』」

 僕は、そう呟いた。

 耳元でプランクトンの弾ける音が聞えた気がした。




 どのくらい雑誌を読み漁っていたのだろう。ふと気づくと、もう午後の陽が傾きかけていた。帰りのバスの時刻が近づいていた。あれからずっと、掻き集めるようにこの小説を読んでいたことになる。僕は、何冊も乱雑に読み投げてしまった雑誌を集め、丁寧に重ねると、もとの場所へ戻しに行った。それから、もう一度器具の具合を確かめ、まるで自分の家であるかのように窓の施錠を確かめた。帰り際に、梁のある天井を見渡した。大丈夫、野生生物の気配はない。そして、外に出るとカーテンを半分引き、できるだけ隙間がないよう戸を閉めた。

 いつの間にか弱い雨は上がり、曇り空の向こうで陽は傾きかけていた。誰も住まない集落は、静かにこうして夕日に泥む日々を重ね、ここで暮らした人々の思い出が朽ちるのとともに消えていくのだろう。僕は、その家を後にした。


 バス停に立って待っていると、帰りのバスが僕の前で進行方向を変えて止まった。

 乗り込むと、行きと同じ運転手が話しかけてきた。

 「お客さん、雨は回収できた?」

 僕は、返事をして応じた。

 「ええ、無事にできました」

 運転手は、それはよかった、と言いたげにこちらに向かって頷くと、バスを出発させた。バスが砂利の轍に大きく上下に揺れる。その度に前歯が音を立てるので、僕は来たときと同じように口を引き結んで歯に力を入れた。運転手は慣れているのか、そんな中どうしても話したかったのだろうか、会話を求めてきた。

 「雨って、酸性雨か何か?」

 「いいえ。……雨に混じっている……ものの研究です」

 僕は、揺れの穏やかな所に合わせて、途切れ途切れに話した。

 「混じってるもの?へーっ、そんな研究があるんですね」

 あまり社会の役には立たない研究かな、僕は心の中でそう言った。

 「お客さん、行きの時に話したよね?この路線が廃止されるんじゃないかって」

 「ええ」

 タイヤの蹴り上げた砂利がバスのあちこちに当って、不穏な音がする。街では聞かない音に、いつでも僕は不安になった。

 「うちの社長、この集落の出身なんだって、昼間言ってて。だから集落から出た者がここへ来るときに不便がないように、って続けてたそうなんです。けど、集落出身者がやり取りしてる年賀状も、めっきり減って、だから自分の代のうちに廃止を見届けるっていってましたよ。具体的に何時って決めてはいないみたいだったけどね、近いうちって感じだった」

 僕は、不安定な姿勢になりながらその話を聞いていた。

 「そうなんですか……。次に来るときは……よく移動手段を確かめてからにします。教えてもらって……よかったです」

 「いやぁ。お客さん、駅に立ったらバスがなくって、困っちゃうかも知れないからね、社長に聞いといてよかったよ」




 翌朝、研究室に向かい、朝一番の仕事は持ち帰った雨の観察だった。果たして、新種のプランクトンは混じっているのだろうか。プランクトンと言っても、それは熱帯の海から運ばれた欠片でしかないのだが。

 僕と同僚は、サンプル容器にラベルを貼ると、少量の雨からさらに一滴ずつをグラスの窪みに落とした。互いに別のプレパラートを作って顕微鏡で覗き込む。視野はまだ広く、なんとなく点在しそうな部分をさらに拡大すると見えてくる。

 「これ?」

 「いた?」

 「うーん、これは難しいな、ちっちゃい花粉の割れた欠片とかさ、こんな形かも知れないし」

 「そうだな……」

 僕たちは、もう何枚かプレパラートを作る。

 「これは、もうずっと混じってるね」

 僕は、彼のいうのが何を差しているのか分かり、笑った。

 「ははは。いつもだからね、それは」

 「これ、台所のある炊事場近くなんでしょ?」

 「ああ」

 「よく甘酒でもつくってたのかね。それとも、自家製の味噌とか」

 「うん」

 観測を始めて以来、何度も見た麹菌の胞子とカビの胞子は、今回もあった。僕たちの会話は、両眼を顕微鏡から離さずに続いた。

 「あ、土間の土をちょっと拝借してきた。そっちも後から見てみるよ」

 「うん……あっ」

 「なに?」

 「あったね」

 「あった?」

 「これじゃない?」

 僕は立ち上がり、同僚の顕微鏡を覗き込む。彼は、僕が見ている間にコンピュータのモニターへ顕微鏡の画像を入れる。やはり、二枚貝によく似た形のコッコリスだ。だが、断定してはいけないことを僕たちは学生時代に叩き込まれていた。

 「……微妙な……」

 プランクトンの欠片とその他の花粉の欠片や微生物の欠片の違いは、ごく僅かの設計ミスのようなものだ。

 「そうだな」

 僕たちは、顕微鏡から離れ、画像を限界まで解像した。

 灰色の濃淡は次第に滑らかになり、欠片は顕微鏡から当てられた偏光に晒されて美しかった。

 古代の海に育まれた蝶なのかもしれない。僕は、画面の右半分に拡大されたコッコリスに見とれた。海水の泡とともに空気中へ放たれてしまうほどの大きさしかない、色のない蝶。どこかの海で生まれた目に見えないプランクトンを守っていた鎧。滑らかな窪みを翅に持ち、ここまで壊れることなく形を保った生き物の欠片。

 「大きさは、いいね」

 「こんなもんだね。形だ」

 一時、沈黙が流れた。

 「いいかな?」

 「いいと思う」

 「他のサンプルも作ろう」

 僕たちは、心臓が少し早く打つのを感じながらいくつかのプレパラートを作り、観察を進めた。同じ形、同じ大きさの欠片は、必ず見つかるわけではなかったが、幾つかは見つけることができた。

 それにしても、不思議だった。あの場所の研究を始めてもう十年ほど経つが、前回のサンプルから急に新しい形の欠片を発見するようになったことになる。

 「海流が変化したのかな……。あるいは、近海のかも……」

 僕が呟くと、同僚が同意した。

 「僕も思った。でも、近海の円石藻は、だいたい形が決まってる。多分、温暖化で潮や気象条件が変わってきたんじゃないか?その辺も調べないと」

 「あの辺に起きた地震や火山活動も調べる必要があるな」

 「ああ、そうだな」

 「……何の系統だろう」

 「とにかくまず、資料を作るか」

 分析をまとめ、さらに様々な文献や論文にあたる必要がある。それから研究室全体の会議を経て、自分たちの論文に集約し発表する。

 僕は、白黒の画面をもう一度見つめた。2μmの、小さな二枚貝の蝶。もう、この種類は棲息してはいないかもしれない、そう思った。なぜなら、空気中に弾け出す多くは、プランクトンの死骸の一部でしかないからだ。もし、新種なのだとしたら、火山活動か地底の移動で、昔に閉じ込められたものが地層から揺り起こされたように滲みだし、海を漂い、泡沫から弾けたのではないだろうか。とうに生きてはいないが、こうしてこっそりと、今を生きている者の目に留まることの不思議と、古代から脈々と受け継がれてきたものの不思議を僕は思った。そしてふと、瞼を閉じた。欠片が海面から弾け出す音が、耳の中で鳴った気がしたからだ。

 昨日、あの村で聞いた音と同じだった。鼓膜内部の圧力がおかしいのだろうか。僕は、少し力を入れて、もう一度両瞼を閉じ、再び開いた。音は、もうしなかった。

 気のせいかもしれないな、と画像に目をやり、解像度を確かめた。

 「いやに滑らかじゃない?」

 「うん……色々欠けてはいるけど、歪さは少ないな」

 「もっと線ががたがたしていてもいいよね」

 同僚も、じっと画像に見入った。

 「もしかして、硬度が違うのかな」

 「硬度か……」

 調べる必要があるだろうと二人で薬品の選定を議論した。

 「よし。午後からだな。飯、食いに行かないか?」

 僕たちはよく一緒に昼食をとりにいっていたが、なぜだろう、今日は気が進まなかった。

 「悪い、どうも昨日飲み過ぎたみたいだ」

 「そうか?胃薬でも飲んでおけよ」

 彼はそう言うと、白衣を脱いで椅子の背に掛け、研究室を出た。


 狭い研究室で一人になると、疲れが押し寄せ、溜息を吐いた。昨日、水分の摂取を控えたせいだろうか、朝からどうも体が重く食欲もなかった。夕方には良くなるだろうと、ポットに溜め置かれているお茶を汲んで飲み干した。

 軋んだ音がする古い事務椅子に座り、先ほどの画面を見る。


 この種のコッコリスは、空気に乗りやすいよう、真ん中に穴が空いている形状が多い。だが、これは空いていない。しかし、ごく薄くなっていることは分かる。

 僕は、このコッコリスがびっしりと張り付いた小さなプランクトンの浮遊を想像した。

 海水のプランクトンは、目に見えないだけで、その実、際限なく海を埋め尽くしている。どんなに喉が渇いても決して海水は飲みたくないほどに、生きたプランクトンと死んだプランクトンは、無尽に漂う。

 海水を夥しく埋め尽くすそれらを、波が再び海へ捲きこみ、闇と光の別れる場所で、剥がれた自身の一部を空に返すことを、手放した細胞は記憶していたのだろうか。

 そこから、欠片は再びどれほどの時間をかけ、海へ還ることができるのだろう。


 雨音が聞えた気がした。僕は、画面から離れ、窓辺に移動した。

 いつも眺めていた木々が見える。どれほど雨が降ったとしても、中に濡れない葉があるのではないかと思うほど、木々は多くの葉に覆われ、暗い世界を内包していた。雨が、濃密な水蒸気のように降りつけている。M村のあの土間の中にも、同じ雨が降っているだろう。南洋から、流れた雲が抱え込んだプランクトンの核を、一粒一粒に閉じ込めた雨。

 同じ海で繋がり、隔たりは、遠いようで、その間はすべて埋められてもいる。

 僕は、容易に雨の世界に埋没していった。

 間隔を置いて聞えるプランクトンが弾ける音。雨に濡れた生物の匂い。

 不条理な、僅かな隙のような違和感。

 約束の地へ……。

 連想のように、目まぐるしい記憶が僕の目の前を通り過ぎた。それから、ゆっくりと自分の体を確かめた。

 なぜ、僕の足の裏は水分を溜めているのだろう。

 昨夜から、食べ物を受け付けない胃と、体中の水分が、重く、下半身に溜まっていく感覚。そして、耳元の小さな破裂音。

 鳥の声は聞えない。雨は、まだ降り続くだろう。

 忘れてはいけないことを忘れてしまった記憶と、プランクトンの細胞の記憶。

 雨音が潮騒に変わっていく端緒を、ゆっくりとした鼓動とともに僕は聴いている。

 あの雨粒に内包されたプランクトンが、僕を連れて行く。

 ずっと昔にした思い出せない約束を、雨は静かに叩き続ける。瀟々と、いつか僕が思い出せるように、諦めず雨滴を注ぎ続ける。いつの間にかそれは細い流れとなって、海へ還る。

 循環している。雨も、人も。海にはすべての始まりと終わりが集められ、雨はその約束のように思えた。




 「おい」

 僕は、同僚の声に振り返った。

 「大丈夫か?」

 僕は、頷いた。

 「何回も呼んだぞ。ほら、胃薬」

 彼は、僕の机に、小さな袋を置いた。食事の帰りに、薬局へ寄ってくれたのだろう。

 「ああ、助かる。ありがとう」

 「さて、仕事するぞ」

 僕は、促されて席に着いた。

 だが、心の中は、もう止まない憧憬が体内に海水を溜めるように、多くのプランクトンを降り積もらせ、僕の喉まで塞いでしまった。

 いずれ、早いうちに僕は海へ行くのだ。そう思った。

 また、耳に小さな音が鳴った。今度は、一度ではなかった。鼓膜がくぐもったような軽い圧力の奥で、断続的に小さく弾ける音がする。何か、神経の問題だろうか……。

 その時だった。

 記憶の海の底から、白い塵が膨大な泡になり、一息に海面で弾けた。

 僕は、両手で耳を覆った。

 「どうした?」

 僕は、肩に置かれた同僚の手の重みに驚いた。そして、耳から掌を離した。

 「耳が、どうかしたのか?」

 彼の声も、言葉も、いつもと変わらずに聞えた。

 「……いや、ちょっと……耳鳴りかな」

 同僚は、心配そうな表情を向けていた。

 「今は?」

 「いや、突然聞えるんだ。今は、大丈夫」

 「続くようだったら、病院へ行けよ。難聴とか、色々あるから」

 「ああ。分かった、そうするよ」

 返事をすると、海水が胃からせり上がる匂いが込み上げた。僕は、席から立ち上がって吐き気を押しとどめた。

 「おい、大丈夫か?」

 同僚が、僕の倒した椅子を元の位置に戻し、僕の背に手をやって座らせた。

 「顔色、悪いぞ。医務室へ行ってこいよ。今、すぐだ」

 僕は頷いて、研究室を出た。




 それからというもの、ゆるやかな憔悴は、徐々に僕を日常の世界から乖離させていった。

 集めた雨水を顕微鏡で覗く時、潮騒と古い人里の幻臭に取り巻かれながら、僕はプランクトンが運ばれてきた海を思った。海は、あらゆる場所へ雨とプランクトンの亡骸を運び、僕の標本は増えていった。

 世界の匂いは、半分海のものだった。




 何がそうさせるのか、僕の胸を塞ぐプランクトンの粒に尋ねる術もなく、時間は過ぎた。

 何とか研究室へ通い、同僚と研究を重ねた。その一方で、耳の奥にある白濁した圧迫は、日に日に甘受せざるを得ない時間を長くしていき、その分、僕の研究室での時間が削られていく気がした。

 つい幾日か前までは、時間の経過は滑らかで、人生の彩りは些末なこともあるがままに受け止められた。それが、少しずつ不自然に、歪にそそけ立ち、僕の人生は砂のようにざらざらした日々に変わりつつあった。砂は、疲弊そのものとなって僕を外からも埋めていった。

 もう、これまでのように暮すのは絶えられなかった。砂が口元まで埋めてしまう前に、僕はこの生活を手放さなければならない、そう希望することに怯えながら、さらに日々を送った。

 それは、急激な変化ではなかったから、うわべは変わらない自分を装い、今までと同じ時間の流れとともに様々なことをこなしてもいた。だがそれは、ただの時間稼ぎに過ぎなかった。

 研究も、フィールドワークも、日々の生活も、何もかもを引き替えにしようとしているのは何故なのだろうか。なすすべもなく疑問を吐き出そうにも、問いかける相手は自分自身でしかないことを分かっていた。その答えを探すための時間はどのくらい猶予されているのだろう。


 やがて、僕は仕事を休みがちになった。同僚や友人は心配して僕を訪ねたり連絡をくれたりした。そのことが、再び、僕が過ごした世界に戻る端緒になることを、僕自身祈った。祈りながら、相反して僕の体は準備をしていくように感じてもいた。別の場所で暮す、これまでとは違う生活の準備を。




 「そろそろだな、M村の回収」

 朝の天気観測と入力を終えた僕に、同僚が僕に声を掛けた。

 「俺が、行こうか?」

 彼は、幾日ぶりかで出勤した僕の、徐々に増す不調を一番心配してくれていた。

 「いや、僕が行くよ。行きたいんだ。この前、バスの運転手に色々教えてもらったこともあってね」

 「そうか?」

 僕を見る、彼の眉根が曇った。だが、学生時代から一緒の彼は、僕の仕事への情熱を知ってもいた。

 「ああ。僕は、大丈夫だから」

 「……そうか?」

 僕は隣に立つ彼を見上げ、頷いて見せた。




 M村へ向かうのは、あれ以来二十日ぶりほどだった。僕は、いつものように前夜のうちに準備を終えた。だが、リュックに入れたものは、なぜか着替えと傘だけだった。それから浅い眠りに就いた。

 意味のない夢を、まるで長く眠り続けた躰だけが覚醒できないように、次々に見た。花束を結わえながら、折れてしまった何本かの茎を見つめる夢、溶かしたガラスを塗り続け、胃が動き出す夢、やっと行きたい場所に辿りついたのに、誰も僕を覚えてはいない夢、なにもかもどうすることもできないまま俯瞰する物語のように夢は訪れては消えていった。

 ようやく目を覚ますと、朝は、雨だった。

 ベッドに起き上がったが筋肉に力は入らず、背を伸ばすにも力がいった。何度か足首を動かし、立ち上がると固まった腿を伸ばした。

 カーテンを開けると、薄暗い外を眺めた。しめやかに降る雨は、愛おしかった。

 そして耳をすます。

 微かに、聞えるのだ。微かながら、堆く、空を埋め尽くすのが分かる。

 灰色の暗い朝の中で、潤んだ湿気に鏤められている。僕の耳は、それを聞き分ける。

 雨音に混じって、プランクトンが弾け出す音は幾重にも重なり、もう止みはしない海潮音に変わる。微細な破裂音は、断続的に耳に届く。これから、それを探しに行くのだ。

 朝食や飲み物の調達は、いらない。顔を洗い、着替えると、まだ秋の初めであったのにもかかわらず、思いついたように冬用の上着をクローゼットから出すと羽織った。なぜか着て出掛けたくなったのだ。

 玄関で、前夜置いたリュックを持ち上げ、右肩に背負った。パソコンも、食物も入ってはいない軽いリュックのポケットから、僕は折りたたみ傘を取り出した。

 一度座り込み、丁寧に靴ひもを結ぶと、そのままの姿勢で後ろを振り返った。

 何年も見てきた、僕の部屋の光景を、ひと時眺め、立ち上がった。


 誰も起こしたりしないよう、玄関のドアを静かに閉めると、鍵を回す音だけが辺りに沈んだ。

 首元までぬくぬくと外套の襟に埋もれ、誰もいないエントランスを出る。早朝を支配する植物と雨だけの澄んだ匂いは、辺りに森が潜んでいるようだった。僕は、その森の気配から出ていく。それから、傘を差すと足早に外へ飛び出した。

 

 始発電車の改札は、がらんとしていて寒く誰もいなかった。雨のせいだろうか。僕は、切符を買うと、改札のある二階の大きな窓から、街を見渡した。

 細い糸を切れ切れに撒き散らして降る雨は、朝を曇天に閉じ込め、時間や場所や何もかも保管されている中から、新しい物語を作ろうとしていた。それは紛れもなく、僕に正しい時間の在りかを知らせているのだと思った。

 掲示板のぱらぱら捲れる音に気づき、僕は窓を離れて、改札を通った。止まったままのエスカレーターには近づかずに、階段を上ると、再び湿気と雨の匂いに取り巻かれる。ホームには、僕一人だった。

 やがて、誰もいないことなど関係なく、大きなアナウンスが響いた。

 ライトを付けた列車が滑り込み、僕はタラップに足を乗せるのと同時に、ふと、この雨の駅を覚えていたい衝動に駆られた。しばらく、この光景を目にすることはないだろう、そう思った。ホームの屋根に当たる雨音が、僕の記憶を濡らして打ちつけ、中にあった空っぽな、もはや際限なく膨らむ何かを音もなく割ってしまった。

 

 車両に滑り込むと、間もなく電車は動き出した。僕は窓際に肘をつくと、何度も見てきた景色を眼球の粘膜に流した。色が滲まず通り過ぎるように、景色は変わり続け、他の車両に乗っていた客がいくつかの駅で下車するのが分かった。

 ぽつりぽつりと下車していく中、とうとう順番がやってきて、僕は重い腰を上げると目的の駅へ降り立った。


 まだ止まない雨の静かな音は、足元のタイルにまで流れているようで、目に見えない流れの行方を聞き分けようと、一人、耳をそばだてた。靴は、僕の足を冷やし、僕は上着のポケットから縮こまった手袋を出すと両手に嵌めた。手袋を出すときに、ニット帽も探り当て、なんでも入っているなと小さく感心しながら、再び傘を差し、駅の外へ出た。


 それから、バスは来なかった。




 耳元に響く、躰の中の音を最後に聞いたのはいつだろう。

 僕は、記憶を辿った。

 どこをどうやってここへ辿りついたのか覚えてはいない。

 僕は、海辺に一人、立っている。

 あの時、僕が乗った電車の行き先は、……この海だったのだろうか。いや、僕はМ村へ向かっていたはずだった。

 まだ冷たい雨は細く降り続いている。駅を出るときに傘を握った手が、手袋の中で今はもう痺れて感覚がなくなっていた。

 

 砂浜を靴の下に意識したとき、確かに僕の体を重たく塞いでいた海水に似た何かは、靴底から砂の奥へ吸い込まれ、消えていった。僕は、体が少し軽くなるのを感じ、その分呼吸が楽になった。

 清涼な潮騒は、僕の苦しかった呼吸をなだらかに治めた。耳朶に薄い歌のような波音が繰り返し押し寄せる。そして、僕の息を上層だけ攫って、冷ますのだ。それが、心地よかった。


 僕は、雨にそぼ濡れながら、砂浜を歩いた。ずっと、こうして雨の匂いを吸い込みながら息をしたかったのだと、そう思った。呼吸と波音ほど、規則的なものは今ここになかった。

 どれほど歩いたのだろうか、目を細めて分かるほどの距離に、一軒の小屋が見えた。小屋は、まるで蜃気楼のように、浅瀬に浸って見えた。僕は、そこを目指して歩いた。

 徐々に近づくにつれ、あの村のどこにでもあった小屋に似ているように思えた。しかし、ここではもう、プランクトンを探しはしないだろう。透明なそれが、波に捲きこまれて宙へ昇るのを想像するだけだ。やがて雲に紛れ、一体となり、雨粒を纏い始める。そして美しく零れ落ちる。ここではない、どこかへ。


 歩きながら、濡れた傘を畳んだ。僕はすっかり疲れ切ってもいた。霧雨が頬と肩を濡らし、視界が曇る。小屋へ辿りついて休ませて貰おうと考えると、それが希望に思えた。足は、重い砂を蹴りながらようやく前進していた。

 近づくにつれ、小屋の様子が分かってきた。

 おそらくあるだろうと考えた桟橋もなく、ただ海に、小屋は建っていた。何本か杭のように海の底に埋まっている朽ちた土台の上に乗ったそれは、まるで潮が満ちると浸水してしまうように見えた。辺りには、人影も足跡もありはしなかった。


 僕は、靴が濡れるのも構わず、浅瀬に入って行くと、戸の下から張り出した板に、しがみつくようにして上った。濡れているのは靴とズボンの裾だけだったのに、体じゅうが濡れそぼっているかに重たい感覚だった。狭い板の上で四つん這いになってからなんとか立ち上がると、小屋の戸を押し開けて、中を覗いた。

 そして、ここはよく知った場所なのだと気づく。半ば、安堵する。僕が、ここで何をすべきなのかを、誰かに教えてもらう必要はなかった。

 後ろ手に戸を閉めると、古い、湿った木の匂いが懐かしく僕を包み込んだ。濡れた靴とズボンの裾が気になりながら代わりの履き物を探したが、そんなものはありはしなかった。

 ふと、背負っていたリュックに気づき、それを中央にあるなんの飾りもないテーブルの上へ下ろした。

 それから一通り、見渡すものもさしてない中を見回した。

 入り口の左に置かれた大きな碧い水瓶と、その上のたった一つだけの窓。壁には作り付けの棚があったが、その上は空っぽだった。小さなテーブルに収められた一脚きりの椅子。隅に寄せられた簡素なベッド。ベッドの上には、まるで誰かがそうしたかのように、一枚の毛布が足下の場所に畳まれて置かれていた。それを見ると、恐ろしい疲れが押し寄せ、僕は吸い寄せられるようにベッドに歩むと体を投げ出した。マットレスは深く軋み、自分の背中が床に付くのではないかと錯覚した。それは、疲れの重さだった。

 もう、眠ってもいいだろうと思った。僕は、昼間とも夕刻とも分からない明かりの中で目を閉じた。


 再び、瞼を開けたとき、自分が色のない世界にいることに違和感は覚えなかった。日暮れなのか、夜明け前なのか、それもここでは意味のないことなのだろう。

 僕は、ベッドから起き上がった。靴を履いたまま眠ったのは、初めてだった。立ち上がると、雨に濡れ、着たまま眠ったために皺の堅くなった上着を脱いで、椅子の背に掛けた。起き抜けの躰は、シャツが吸い込んだ冷気に触れて肌を粟立てた。靴の中は生暖かく、それが余計に寒気を募らせた。だが、それをどうにかする以前に、急激に抑えきれない喉の渇きを覚え、僕はテーブルの上のリュックを開けると、乱暴に中身を抜き出した。出て来たのは、着替えと筆記具と傘、ただそれだけだった。何か、飲み物がどうしても必要だった。僕は、辺りに目を遣り、戸口の横に置かれている大きな瓶に近づいた。

 夜の中から滴ったような色をした瓶に、まるで合っていない大きさの木蓋が乗っている。木蓋の上に斜めに置かれた柄杓は、中の水は飲むためのものなのだと告げていた。

 僕は、瓶の蓋を開け、中を覗き込んだ。これはどこから来たのだろう。水は、とっぷりと暮れた空の色を溶かしていた。僕は、柄杓でその水を掬い上げると、乾燥で張り付いた喉に、慌てて流し込んだ。柔らかな真水だった。そう感じたときには、この水がどうしてここにあるのかを、僕はもう知っていた。


 水は、唇から漏れ、喉へと伝い、それに気がつき、シャツの袖で拭った。僕は、これからこの水を糧として生きていくしかないのだと悟り、大事に瓶に蓋をすると、その上に濡れた柄杓を置いた。

 もう一度、袖で口元を拭いながら、窓辺に立った。六枚に仕切られた硝子の中で、外の灰色だった世界が、少しずつ薄く色づいていく。

 歪んだ古い硝子に掌を当てた。伝わってくる冷たさがそのまま海の温度に思えた。僕がここでどうやって暮らすのか、その頃、僕にはもう十分かっていた。薄紫に染まりだした空は、小屋の中に同じ色の空気を生んでいった。

 ほんのりと生まれた溜まりを、まるで子どものように踏みながら歩き、小さなテーブルに、僕は近づいた。恐らく、それをしまうためにだけのために、テーブルは置かれていたのだ。

 僕は、立ったまま少し身を屈め、テーブルに付けられた浅い抽斗を引いた。中には、夜明けの光を分け与えられた、金色の鋏が置かれていた。僕は、それをそっと手に取った。冷たい鋏は、すぐに僕の手に馴染み、なお明るくなってくる小屋の中で、水面のような輝きを湛えていった。


 僕は、鋏の持ち手を嵌めてみた。それからゆっくりと刃を動かし、その度につるりと流れる金色の光に見入った。刃を開く度に光は潤み、僕は見飽きることはなく切る真似を幾度も繰り返した。それは、練習なのかもしれなかった。


 やがて、僕は、テーブルの上に大事に鋏を置くと、椅子から立ち上がった。椅子の背に掛けた上着を着ると、鋏をそのポケットに忍ばせ、小屋の扉を開けた。

 外は、いつの間にやって来たのだろうか、冬の気配が溢れていた。鼻孔に冷たい空気が流れ込み、僕は、首を縮ませて、白い息を吐いた。

 長い吐息を吐きながら、遙か果てまで続く海岸線と、海と空の溶け合う先を眺めた。

 海は、生きていた。穏やかにうねりながら、あらゆる光を砕いて輝きを模索していた。冬の朝の思考を、あらゆる生とともにあるために、繰り返し反射する。鮮やかな息が、太古の時間を溶かして、僕の息と混じる。不思議な香りがした。

 長い間足の裏に溜まっていた水分と、僕がここへ辿り着いた前夜の憔悴は、すべて足元の海水に溶解してしまったようだ。目の前にはただ夜明けの海があった。

 最後の深呼吸を終えると、僕は、昨夜這い上がった板の上に、足をだらりと下ろして座り、そのまま浅瀬へと滑り降りた。


 濡れた靴で、再び海辺の砂を踏んだ。僕は、無意識のうちに、夕べの自分の足跡を探したが、どこにも見つけることは出来なかった。砂は、生まれたままのようにまっさらで、自然が撫でたなだらかな皺を浮かべてしかいなかった。

 だが僕は、久しぶりに清涼な気分だった。足元から海の匂いのする煙が僕の体の輪郭に沿いながら小さな渦を作り、液体しか届かなかった隅々までを満たした気がした。

 僕は、目を瞑り、そして開いた。

 眦を小屋の向こうへ向けると、少し離れた場所に茶色の人影が見えた。誰かが、この場所を訪れている。僕は、心の中であらゆる質問を繰り返しながら、彼を目指して走るように近づいていった。


 「待っていたよ」

 彼は、近づく僕へそう言った。僕は、息が切れ、言葉を探すことにも手間取った。

 彼は、複雑な、けれど辿りついたこの場が最良なのだという笑みを浮かべ、僕の瞳を真っ直ぐに見ていた。年齢は、計り知れなかった。古びた厚い外套のポケットに両手を入れ、寒さのためか襟を立てて朝の潮風から首筋を守っていた。彼の言葉をやっと理解した僕は、彼がここでの水先案内人であることにすべてを委ねる気になった。僕は、呟いた。

 「あなたはここを去り、僕はここで暮らすのですね」

 彼は、ゆっくりと頷いた。唇は僅かに引き延ばされて、穏やかな表情だった。

 彼は、上着のポケットに入れた両手を出し、体の前で合わせるようにして背を屈めた。まるで、凍えるような仕草だった。彼と僕の白い息が、辺りに流れては消えた。

 僕は、ふと、砂浜の後ろに続く森の気配に気づき、季節を探した。広葉樹の葉はまだ深い緑を湛えたまま、それが季節の感覚を狂わせている気がした。

 「私は、妻を探しに行く……」

 僕は、彼を顧みた。

 「……私はずっと耐えられなかった。なにもかもに。けれど、私は自分の希望を望んでいいと分かったんだ。ここで海を売って暮らすうちに。私は、私の望むように、彼女を探しに、ここを出て行っていいと分かった。いや、やっと決心がついた、本当は、そんなところだ。彼女の家族がそれを望まなくても、彼女自身がそれを望まなくても、私は、自分の思うように生きる決心がついたんだ……」

 僕は、頷いた。

 「彼女は、海で消えてしまい、けれど、いつか海が僕に還してくれるだろう……それを見届けに行くよ」

 彼は、僕の目を見た。

 「もう、ここへは戻らないのですか」

 僕は、何時までここで一人、誰を待つのだろう。だが、彼の返事はその答えを教えてはくれなかった。

 「ああ。やがて、ここへお客が訪れる。君は、もう分かっているだろう?」

 それは、僕が決めることに過ぎない。僕は、頷いた。ポケットに、金色の鋏の重さを感じながら。やがて、僕が彼のように次の世代へこの役割を受け渡す時が来るまで、僕はここで様々なお客に会うのだろう。それも理解できた。

 「辛くはない?」

 思いがけない問いかけだった。僕は、首を横に振った。

 「……僕は……ただ、同僚や親や友人が、僕を探すのではないかと……」

 彼は、上着の襟の中で項垂れた。隠れた頬には皺が刻まれ、やつれている。

 「そうだね。探してくれる人がいることは幸せだ」

 僕は頷きはしなかった。

 彼が僕を見る目は、説明の付かない気持ちを宿し、その中に小さな僕がくっきりと映っていた。

 「さっき、私がもうここへ戻ることはないのかと聞いたね?そして、戻らないと答えた……だが……どうだろう。今は分からない。私は、この場所を気に入っている。波の音を聴きながら、静かに過ごす時間。誰のおとないもない中で、ただ一人待っている時間。さざ波のように心をかき乱す人々の話……海を売る行為。もう、君がいるのだから私が海を売ることはないのだけれど、そう、きっとそのうちここを訪れる時が来るだろうと思うよ。その時に、君はもういないだろうけれど」

 僕は、冷え切った鼓動が、小鳥のヒナのように、体温を回復した部分から小さく、打ち始めるのを感じていた。

 「やがて、指先の冷たさにも慣れる。混乱した時間は、そうして落ち着いていく」

 僕は、そっと頷いた。

 「時間は、潮の満ち引きに似ている」

 そう言うと、彼は懐かしいものを慈しむ目で、彼が過ごした海辺の小屋をひと時眺めた。

私は、彼と同じ方へ眼をやりながら、彼の言葉を反芻した。私は、冷たさにやがて慣れていく。心臓の打つ感覚はやがて落ち着き、この寒さにも潮風にも、自分が遠いぼんやりとした輪郭であるかのように、きっと誰かに触れられても分からなくなる。それは、苦しみなのだろうか。

 私は、遠い場所の煙るような空気を吸う感覚に襲われ、瞼を閉じた。


 「ねえ、お客さんじゃないかな?君の、初めての」

 「えっ」

 僕が驚いて目を開くと、彼は、受け継ぐ者への穏やかな眼差しで僕を見つめ返した。

 それから彼は、僕の視界のために一歩下がり、僕は、その向こうに小さな人影を見た。

 「さあ、行ってくるといい」

 彼は、僕を送り出そうとし、僕は心当たりのある名前で彼を呼ぶしかなかった。

 「谷川さん……」

 彼は、瞼をぴくりと動かし、「ああ。そう、それが僕の名だ」そう言った。

 その答えに腑に落ちないものを感じながら、僕は

 「ありがとうございます」と言った。

 「君は……」

 温かな彼の声に頷くと、僕はその隣を離れ、彼とはもう二度と会うことはなかった。




 踞る灰色の小さな人影は、近づくと若い女性であることが分かった。

 肩の上で揃えた髪が、頬にかかり彼女の表情は見えなかった。ただ伸びた細い首筋が、幼い子どものようで、僕は不用意に声を掛けることを躊躇した。

 できるだけ彼女を驚かさないように、少し離れた場所から自分の存在を知らせるために態と足音を立てて近づいた。彼女はそれに気づいているのか気づかないのか、ただ波打ち際に素足を浸し、まるで掌の中の小さな池を覗くように、海面に顔を寄せてじっと中を見つめていた。

 夜明けの海面は、午睡の揺らめきに似た波を憩わせ、世界のどこにこんな時間があったのだろうと、太陽と銀色の溶け合う地平線に説明の出来ない気持ちを抱いた。

 僕は、彼女の小さな肩越しに、その足下へ視線を落とした。波が寄せる度に、砂粒は掻き混ぜられ、揺らいでは再び沈む。そこになにがあるというのだろうか。

 あまり一途に顔を近づけるので、彼女の頬から滑り落ちた髪は、波しぶきに濡れていた。

 僕は、足を動かして小さな水音を立てた。彼女を驚かせないために。

 彼女は、ようやく気づき、ふと顔を上げるとこちらを見た。

 「やあ」

 僕は、何気ない風を装い、挨拶をした。

 彼女は屈めていた背を伸ばし海面から離れ立ち上がると、頭を傾けて挨拶の真似をした。

 「何か、落とし物でも?」

 僕は、ごくありきたりなことを聞いた。

 彼女は、湿り気を帯び束になった髪を揺らして首を振った。

 「いいえ……」

 それきり、俯いて黙ってしまった。

 私は、彼女との距離を保ったまま、自分のことを話した。

 「僕は、……ずっと向こうに見えるあの小屋に住んでいるんです。……お客が、来る予定なので」

 そうして、

 「海から上がりませんか?」

 と促して、彼女を砂浜へと連れて行った。

 僕たちは、砂浜に腰を下ろし、特に何もない時間が過ぎ去るのを少しだけ待ってから、話し出した。

 「海の中に、何かあるのですか?」

 彼女は、潮に晒された髪を耳の後ろに掛けると、寒気に襲われたようで、震わせた青白い顔が、一層幼く見えた。その薄い貝殻のような唇が、ぽつりぽつりと言葉を継ぎ出した。

 「……海の底に……、これからの私が映っているようで……」

 「それを見ていたのですか?」

 彼女は、頷いた。それから、真っ直ぐに私を見た。不思議な眼差しだった。

 私は、彼女の年齢を想像した。まだとても若い。二十にもなっていないだろう。だが、感じた違和感は、彼女の選ぶ言葉や、その見た目とは違う次元のことに思えた。目に見えないところで彼女は既に成熟し、何もかもを少し離れた場所から俯瞰しているような、あるいは時間の流れを細かな画素に切り刻んだ膨大な一つ一つが、呼吸もできないほど膨らんで辺りを埋め尽くしている中で喘いでいるような、その中にある透明な不穏を僕は感じていた。


 「私は、生まれた時には、既に老婆でした」

 僕は、返す言葉がなかった。

 その肌は瑞々しいのに、なぜそんなことを語るのだろうかと思った。

 「私の話を、信じますか?」

 彼女は、じっと僕の瞳の底を見つめた。

 およそ受け入れがたい話だったが、欺されているとも思わなかった。その口ぶりは、少女のものではなかったし、若い女性のものでもなかったからだろうか。謀る意味もない。僕は首を横に振った。

 「……私は、この世の摂理からはかけ離れて生きて来ました」

 それから彼女は、忘れてしまった御伽話を語るように、訥々と言葉を紡いだ。


 「時間の流れは、誰もに平等ではなく……」

 「世の中の理も、人が自然の一部でさえあってもなお正しくも偽りでもない……」

 皺一つない白い指が、乾いた砂を時折、弄んだ。その砂に視線を落とす彼女の睫が、美しかった。子どもの声音で、少女はどこかの世界の昔語りを、まるで真理を探すように口承する

 「……私は、老女として生まれました。時間を遡るように若く、子どもへと戻ることが老いである細胞を持って生まれたのです。ただ、そうとしか言えません」

 彼女は、睫を上げ、波が砂浜へ繰り返し染みこむのを見ていた。

 「あそこで見ていたのは……、波が来るたびに起こる小さな砂の攪乱が、私の、時間に逆らった細胞の寄せ集まりのようで……、私がこれから幼女となり、赤ん坊となって消える姿を探していたんです」

 まさか、と先ほどの気持ちとは相反する感覚の中で、私は思った。そんな人間に会ったことはなかった。だが、もしあり得るとするならば……。彼女は、こちらを見ることはなかった。泡立っては影のような滲みに変わる波を見つめたまま続けた。ただ、海に話して聞かせているのかも知れなかった。

 「……私は、……人とは違う時間の流れの中で、どう壮年になり、若くなり、少女になるのか……ひどく恐ろしかった。私の恐怖を話す人もいない。細胞は、年をとり劣化していく時間を、みんなが同じに歩んでいるだけだから……」

 僕の疑念を感じたのだろう。だが彼女は、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。

 「……細胞の記憶に、思惟はない……」

 少しずつ悲しみを帯びた眼差しに、震える睫毛が影を落とした。


 「私の躰は、まるで私の抗えないあらゆる滓を溜めるだけの容器のようで、私は、若くなるはずなのに、その一番深い場所で、積もった澱が底なし沼のように私を引込んで離してくれない。私の躰はもういっぱい……」

 その話は、まるで信じることを試されているかに思えるのに、彼女の悲しみはなぜか人ごととは思えなかった。


 「いくら息をしていようと、人とは反対の時間を遡る人間なんて、存在しないも同じ」

 抜け出せない滓の積もった場所で、埋もれながら、深い息を彼女は必要としているのだ。それは、まだこの場所に馴染んでいない自分も同じに思えた。肺の膨らみと無意識に規則的な呼吸は、こことは別の場所と繋がっている。浅い息だとしても、それが僕を安らがせ、反対に彼女の安寧を奪っているのかもしれないと思った。


 「思い出すのは、いつも両親のことばかり。老婆の私を産んで育ててくれた……、私がただこの世に存在することを喜び、愛し続けてくれた母や父……けれど……」

 彼女は、苦しげな表情を浮かべ静かに泣き出した。

 僕たちの背後に続く森は、海の匂いに干渉し、羊歯の香りをしめやかに漂わせ始めた。朝に降りた露が、蒸発しようとしているのだろう。彼女の涙も、そんな朝露と一緒に消えてしまえばいいのにと願った。それが無理ならば、涙を流すごとに、彼女の中で凝っていた、抗えないものへの悲しみや怒りや諦めが少しずつ消えていけばいいのに。


 「……両親は、私を精一杯守り、愛し、育ててくれた。私とは反対に老いていく両親……周りと変わらない老いの姿を、私は心の底で羨みながら……、けれど父も母も、私が満ち足りて幸せなほど慈しんでくれた。

 私は年々若くなっていくから、私たちはいつも引っ越しばかりだった……。それでも、両親と一緒に、海の見える町や、ずっと真っすぐな畑の続く村や、商店街の中……引っ越しは楽しかった。両親を助けるために、私も働きに出たこともあった。けれど、私には履歴がない。学校に通ったこともない。身分証も安心して提示できたのは、年齢と外見に差のなかった十年くらい。嘘の履歴を書いて、やっと採用された工場で働いたときは、楽しかった。大勢の人がいて、友達もできて、……結婚しようって言ってくれた人もいた。こんな私なのに……。

でも、彼らの見ている私は、私じゃない。どこの学校にも行ったことがないと知られる前に、逃げ出すしかなかった。それからは、内職ばかり。

 それも、楽しかった。年老いた母と一緒に、ひがな色々なものを作った。お母さんと笑いあって、お父さんが仕事から帰って、みんなでご飯を食べて……。」

 彼女の目に、再び涙が浮かんだ。じわっと滲んだ涙は零れ落ちそうに膨れ、僕は目を反らした。

 「……お父さんとお母さんは、私の世界のすべてだった。老齢の小さな私を世話し、いつも私を庇って、自分たちも人目につかないように生きてきた……。私のためにたくさんの嘘をついて」

 

 「……これ以上若くなることが怖い。そう二人に話すと、私を抱きしめながら言ったの。あなたは、私たちのたった一人の大切な娘だ。愛しくてならない。何度も、頭を撫でながら、幸せだったと、……私に生きているだけで人を幸せにする力があることを忘れないで……二人ともそう言って笑った」

 とうとう彼女は、肩の震えを抑えることはできず、やがて全身から込み上げてくる戦慄きに、震えながら必死に耐えた。僕は、手を差し伸べたかった。だが、それが何になるというのだろうかと躊躇した。


 「……最後に、お母さんが切ってくれた髪が、もう伸びない……あれから、随分経つのに……」

 彼女は、しゃくり上げながらその膝に顔を埋めた。

 僕は、その背に手を伸ばし、彼女が泣き止むまでただずっとさすってやることしかできなかった。


 ひとしきりの時間が過ぎ、少女は泣きはらした顔を上げた。

 僕は、そっと彼女の背から掌を離した。


 「あの、灯台のある町。これから、お父さんとお母さんが、最後に私に作ってくれた私の居場所に行くの」

 彼女は、蜃気楼のように微かに見える岬を指した。

 「お父さんの昔からの友人で、私のことを知っている人の家族が、代々やっている小さな療養所へ……」

 そう言うと、彼女はゆっくりと立ち上がり、少し向こうにある打ち捨てられた灌木へ向かった。僕は、彼女の後ろを追った。灌木の隣には、小さなボストンバッグが置かれていた。

 「荷物は、それだけ?」

 彼女は小ぶりなボストンバッグを手に持った。その持ち手には、古いスカーフが、お守りのように小さく巻き付けられ、結ばれていた。

 「ここへ来るとね、小さな海を売ってもらえると、お父さんが言っていたの。どこかの務め先で、聞いたと。お父さんとお母さんの思い出はたくさんあるけれど、私はどんどん小さくなって、言葉も話せなくなって、きっと忘れてしまう。だから、お父さんとお母さんの思い出を話すときに、小さな海に溶かして……、たくさん話して、記憶を閉じ込めたい。私がどんなに小さくなって、もう自分で歩けなくなっても、小さな海が私のお父さんとお母さんの言葉をさざ波に変えて、……私はそれをじっと見つめたい。その中に、これからの私を探したい……」

 僕は、頷いて立ち上がると、ポケットに忍ばせていた鋏を取り出した。

 紫の煙から生まれる朝焼けが、翳した金色の鋏に、光を涙のように零した。

 僕は、重い砂の上を、波間まで歩んだ。濡れるのも構わず、膝下まで海へ浸かると、金色の鋏を一息に差し入れた。

 音はなかった。

 水を切る音も、刃を重ねる音も、飛沫が滴った音も。

 そして、潮騒に混じった朝の空気の中から、僕の切り取った小さな海は、生まれたてのハンカチのように柔らかく、僕の両手から彼女の両手へ大切に渡された。


 「ありがとう」

 ふと、彼女はここへやってきた時よりも幼くなった気がした。

 漠然とした未来が、僕の鼓動を強くした。

 僕の躰の輪郭の中で、音のない何かが次々と弾ける。

 その、色を持たない透明な何かが、僕の耳元に小さな振動を送り続ける。

 「……大丈夫?」

 彼女は、僕の顔を覗き込んだ。

 僕は、現実に返り、彼女を安心させるために頷いた。

 「ああ。それより、君は……?」

 少女は、泣いたばかりの顔に微笑みを浮かべた。

 「海を、ありがとう。これから、たくさん、海に聞かせてあげるわ。お父さんとお母さんの話を。年をとっていた私が、どんどん若くなっていく話。大好きな、私の家族の話を」

 僕は、頷いた。

 「僕は……」

 僕は、なぜこんなことを言いたいのだろう。

 「両親と暮らしたのは十八年間だった……記憶にある時間を思っても、両親と共に過ごした時間よりも、学校で友達と過ごす時間の方が長く、思い出も多い……。こんな言い方をしていいのか分からないけれど……、君のご両親は、幸せだったと思う」

 彼女は、僕を見つめてまた少しだけ微笑んだ。その笑顔は老女のように寛容で、幼子のように稚かった。

 「私が、目に見えないほど小さな卵になったら、この海へ溶かしてもらうわ……」

 それから、彼女は着ていた上着のポケットから、小さな貝殻を出すと、僕の掌に握らせた。

 「ありがとう。さようなら」

 彼女は、涙を浮かべたまま微笑むと、片手に大事そうに海を抱え、もう片手にはボストンバッグを持ち、海辺を去っていった。

 「さようなら」


 彼女が行く向こうに、琥珀色の海を流し込んだ淡い人影が見えた。二人であろう影は寄り添って、彼女が来るのをじっと待っていた。やがて、彼女は緩やかに走り出し、その影の中に溶けて、いつの間にか見えなくなった。




 僕の視界を遮って、小さな雪が、頬に落ちた。

 プランクトンによく似た雪だった。

 雨の季節は終わり、僕は、初めての冬をここで過ごすのだ。


 僕は握ったままだった手を開き、貰った貝殻を見つめた。

 先ほどは気がつかなかったが、よく見ると貝殻は美しい細工で、髪飾りになるように作られていた。彼女は、海のお礼に宝物を僕にくれたのだ。

 僕は、優しくそれを握ると、空っぽだった棚にそっと置こうと、小屋へ向かい歩き出した。


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海を売る人 雨の研究者 @kotume85

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