第35話 告げる
風呂から上がると、なっちゃんさんはすでにいつも通りをしていた。
「僕も今日は飲みたいですね」
食器棚からグラスを取って、冷凍庫の氷を入れた。
「芋だけど平気?」
なっちゃんさんは芋焼酎を僕のグラスに注いでくれた。
「これ、ダブルより多くないですか?」
「飲みきれなかったら私飲むから。はい」
グラスを鳴らし合った。なっちゃんさんが手にしたグラスは、僕が誕生日にプレゼントしたロックグラスだった。部屋飲みしている時は知れないが、居間で飲んでいる時にこれを使ってくれているのを目撃するのは初めてだった。緩和されたはずだったのに、急に頬が熱くなる気がして、グラスを口につけようとすると、
「ごめんね、何も連絡できなくて」
なっちゃんさんがメガネを外して、うつむいた。
「なっちゃんさん母さんにも、大家さんにも言われました。心配ないって。あとなぜか風間さんからも」
僕はちょびっとグラスに口を付けた。実際はいろいろ言いたいことがあった。けれどそれらは大家代理を盾にした僕の駄々でしかなかった。それは分かっていた。だから、大家さんがなっちゃんさんのご自宅へ連絡を取ってくれたのだろうし、なっちゃんさん母さんも単なる訪問だけではなかったのだろう。風間さんから電話とメールでお茶らけた内容(「なっちゃんは今もあなたの側にいます。あなたには姿が見えなくても、なっちゃんはあなたを見ています」なんてインチキ霊媒師みたいなこと言われた)が来て、ツッコませてくれたおかげもあるのかもしれない、ちょっとだけ。そう髪の毛の細さ分くらいには。
「お母さんてば、言わなくてもいいことをべらべらと……あ、今のなし」
まるでその場で母さんの言動を見聞きしていたような感じだったが、きっと僕が入浴中に連絡でも取ったのだろう。
「君が待ってるからさ帰ろうと思ったんだ、やっぱり」
「なんか家出から戻って来たみたいな言い訳ですね」
「半分正解かも。だっていつかは、いや大学卒業したら君は出ていくんだろう? 就職とかで。私はどうなるのかなって、大家さん戻って来るとかそんなの当たり前なのにね」
おもむろにスマホを動かした。無料動画のアプリ起動。検索後、メロディが始まる。
「あ……」
なっちゃんさんは少し恥ずかしそうにグラスを口にした。僕は曲が終わると検索してを繰り返した。なっちゃんさんはいたたまれなさそうな表情になりながらも、それでも居心地が悪い失態とまではいかないようで、それでも時折グラスの中の氷をかじって紛らわそうとしているようだった。それらの曲はなっちゃんさん母さんに教えてもらった、お気に入りの邦楽たちだった。あの五曲を聞いて、僕はなっちゃんさんのお気に入りの洋楽を思い出した。共通点がふと聞こえた気がした。
僕はちびりちびり飲んでいたグラスを急角度にした。全部飲み干せなかったのは僕がまだ慣れてないせいだとして、勢いを求めた。いや正確には離陸前の助走はすでに始まっていた。
「僕にとってなっちゃんさんはよく分からない人です」
「まあ、そうかもしれないね」
唐突な一言に、なっちゃんさんは自嘲気味に作り笑いをした。そうじゃない。僕はなっちゃんさんにそんな表情をしてほしくはないんだ。
「それでもです。分からないから目を離せないんです。他の女性と比較するわけじゃ、そのつもりはないけれど、きっと普通な関係なら、例えばゼミ仲間とかなんだろうけど、なっちゃんとはそういう普通ではないとか、普通でない方がいいと言うか、普通でいたくないって感じなんです。分かりますか?」
「うん」
どこかうつろと言うかさびしそうな小声だった。
「つまりですね、なっちゃんさんの隣で」
僕は空にしたグラスをなっちゃんさんの方に掲げた。
「ロックを飲める男になりたいと思ったくらいに、なっちゃんさんに心惹かれてるんです」
この時の顔の熱さと言ったら、発熱の比ではなかった。見ればなっちゃんさんは、さっき以上に目を丸くして、さらにはきょとんとしていた。予想もしてなかったことを聞いてしまってあっけにとられたような表情が瞬く間に赤らんでいった。なっちゃんさんは踊るように目や頭や上半身を落ち着きなく左右に振ってから、僕のグラスに焼酎を注いで、自分のグラスを空け注いだ。それから、なっちゃんさんは恥ずかしさを噛み殺しながらはっきりと告げた。
「キミとの時間を、私は恋と呼びたい」
グラスを僕らは鳴らした。
その夜、なっちゃんさんが歌った「Desperado」は随分楽しそうに聞こえた。
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