第32話 なっちゃんさん母さんから聞くなっちゃんさんの話し

「その生き物にとって少年が向けてくれた優しさが、生きる勇気になったのです。火の精霊は変身する人間になって、しばらくして、青年になった彼と再会して、その生き物はきっとこう思うんじゃないかしら。生きる勇気をもらったのだから、今度は私が支えてあげようと。普通じゃない自分はつまはじきものとしてひっそり生きていくのだと思っていたけれど。それはビジネスではなく仕事でも依頼されたことでもなく、自分の意志として」

 僕は思い出していた。研究のおおもとになっているだろう、あの体験を。なっちゃんさん母さんの話しは僕が会ったあの生物側からのストーリーに聞こえてならなかった。僕にも身に覚えがある。奇妙な生物に会ったことがある、それを言えば必ず反応は同じで、繰り返し言われ続けてきたのだ。「気のせいだろ。そんなこと言ってると頭おかしいと思われるぞ」と。それでも進めて来られたのは確かにあの生物と会ったからだ。あれは幻でも目の錯覚でもなければ、記憶の曲解でもない。だからこそ進路を決められたのだ。そんなに言われるならいったい何なのかを研究しようと。僕でさえ一つの出会いが生きる糧なっているのだ。そう、田舎で、この下宿とは違うがよく世話をしてくれたじいちゃんが亡くなった時だ。そのじいちゃんだったと思う。そういうしつけ的な面で厳しかったから。こんなことを教えられたんだ。ストーブに向けて屁をするものではない。火の神様に失礼だと。たしかあの日、葬儀関連が一通り済んで、親類はようやくと団らんしていた。僕は大人の会話に入れず、こたつから離れてストーブの前に立っていた。手を温めて、足、太ももとかふくらはぎを温めようと振り向いて、じんわりと温くなってきた。図らずも灯油ストーブに向かっておならをしてしまったんだった。どうしていいか分からなくなって僕は外へ走り出したんだ。そしたら、木々の中にいて、どこにいる分からなくて帰ろうとして、どっちが戻る方向か知れなくて、不安になって、それでも走って来た方と逆向きに歩いていて、物音がして、そこで……。

「あなたはその生物をどう思いますか?」

 なっちゃんさん母さんは問いかけてきた。柔和な表情の中の眼だけが、虚飾のない言葉を待っているようだった。言い方は悪いが地獄の沙汰を下される前に吐露する気分だ。

 なっちゃんさん母さんが最後に語ったのは、あくまでも物語だ。それは他の誰かにとってはフィクションだったとしても、僕にとってだけはノンフィクションで、自分の前にサラマンダーが現れていた状況を反芻してみると。

 ――僕が危なかったから? あるいは僕を危険に巻き込まないように? 

 サラマンダーは僕を攻撃してこなかった。

 人が世界と向かい合う、出会う、そして人が世界を想像する。人は人と出会う世界が世界のごくごく一部だと知っていて、ということはごく一部以外の部分には人が出会ったこともない生物がいて、それを人は出会ってきている生物から想像して補おうとしていた。またそれは、その一部でない部分の本物の生き物とまれに出会う時のために驚かないように事前に了承しておくための、そうあれはだ、防衛機制なんだ。プールに入る前に心臓に水をぴしゃぴしゃとかけるようなものだ。

 それって、出会うのが未知の生物とかってことに留まることはない、人が出会った対象とどういう関係を築いていくか、行きたいかという問いに、答えることなんじゃないか、それが生きるってことなんじゃないか。

 思考はしているのに開くべき言葉が見つからないでいると、

「お話はここまでです」

 現実に引き戻してくれたのはなっちゃん母さんのやはりにっこりとした笑みだった。そこにはもう柔らかしかなかった。僕は隠していることを心苦しく思うようになった。もう正直に言ってしまった方がいいとさえ、遅ればせながら思った。だから、口を真一文字にしてから、逸る心拍をそのままでなっちゃんさん母さんの顔を見た。すると、

「あなたはその生物が今空に溶け込んでしまっているとしたら、どう思いますか」

 あまりに突飛な問いでそれこそ答えようがない。

「その生き物にとって大切な人を守ろうとして、それでもやはり複雑な感情に苛まれて。一緒にいられるだけでそれだけでよかった。再会を望んでいながら、そんなことあるわけがないとあきらめていた時に再会できて、それだけでもったいないとさえ思っていて、それなのに、人並みに彼の友人に女性がいると嫉妬して、浮かれていた自分に落胆して。ただ彼を支えることが身近出来るのならこの姿でさえ生きる理由には十分だ、そのことを再認識して。あくまで気付かれないようにしておこうとしたのに、彼は知れずにこちらの領域に近づいて来て。またあの姿を見せるのは忍びない。姿だけは。けれどそうだからこそ守れる。この葛藤の中、あの子、いえ彼女は決定的な瞬間を見せてしまった。だから彼女はこのまま逝こうか戻ろうかと踏ん切りが付けずにいられるとしたら?」

 お焚き上げの時の出来事が、いやそれまでに至る今年の数々の出来事、サラマンダーのことが浮かんでいた。口を開こうとした。

「大家さんからうかがってますよ。あの娘、なんにも言わないで旅行に出かけたそうね。清水さんに心配かけてないかと思いまして」

 心配。その単語を聞いて僕はそれまでのまごついていた思考が一気に飛躍してあふれ出てしまった。

「早く帰って来てほしい、一秒でも早く」

 勢い勇んだせいか、言い切ると我に返ることが出来た。なっちゃんさん母さんの湯飲みが空になっていたのを見とめられた。湯飲みを手にする。冷たい。どうやらずいぶん前に飲み干していたのだろう。今更になってお代わりを用意した。

「ありがとう」

 と穏やかに言ってからなっちゃんさん母さんは湯飲みを手で覆うと、居間を見渡した。

「それにしても」

 お茶を一口啜ってから、

「あの娘、ここの暮らしがだいぶ気に入っているのね」

 またしてもにっこりとした。ここは僕の身の潔白、いやなっちゃんさんの身の潔白を、それが言い訳になったとしても述べなければならない。

「清水さん、あなたのことも話しているのよ」

 言い訳の前に、なっちゃんさんがご親族に何を話しているかのほうが気になってきた。

「あの娘、口数少ないでしょ。だから同世代のこととか、というか周りのことを話すことなんてこれまでなかったのだけれど、あなたがここに来てからは電話とかたまに帰省するとここの話しをするようになったのよ。着替えの時、戸を開けられた件とかね」

「いえ、あれは全く僕のデリカシーのなさというか過失なので、なっちゃんさんには首を垂れて謝罪しましたので、本当にすいません」

 胸のあたりはあっついのに、背中は寒く、のぼせてもいないのに額の生え際からじんわりと濡れ流れ出していくように感じた。慌てふためいて、僕は入所早々にやらかした件について、改めて謝罪しなければならなかった。なっちゃんさんの前で稲穂よりも深々と頭を下げたのだ。その親御さんの前ではやはり土下座になるのだろうか。さいわいにも座位だから移行しやすいし。

「それにあの娘の下着も洗ってるんですって? すっかり主夫ですね」

なっちゃんさん、そんなことまでも話さなくても。せっかく正座に直ったのに、顔をそらした上に、うつむくほどに顎を引かなければならなくなった。業務上まっとうなことをしているのに、恥ずかしさを感じずにはいられない。

「あの娘も少しずつ変わって来てるのかしら。こないだ帰省した時なんてね、料理を習いたいと言い出したの。最初はね、私がキッチンで下ごしらえをし始めたら、リビングから覗いたり、冷蔵庫を開けるふりしたりして、ちらちら私の手元を見たりしていたの。あの娘、正直に言わないところあるから、『手伝ってくれる?』って言ったら、袖まくりする勢いで『しょうがないなあ。でも一から言ってね』ですって。若い子たちってそういうのシンデレラっていうんでしょ」

 おそらくツンデレのことだろうが、作家さんなら正確な情報を仕入れておいた方がいいと思ったが、そこは何も言わないことにした。

「お風呂から上がってから、乳液とか保湿液とか、今まで触るどころかしなかったくせに、私に貸してくれって。化粧品とかも気にするようになったみたいだし」

 そう言われてみると、去年の夏くらいから、それまでと違う匂いがするようになったし、空き瓶入れには確かに化粧品とかが出るようになっていた。

「女性誌なんか買ったこともないのに、読みふけっていたりね。いっつもポップアートのティシャツ着て、レギンス履いて色気も何もあったもんじゃないでしょ。ファッションとかヘアスタイルとか気にするようになったのねって言ったら、そしたら、あの娘ったら」

 笑みながら、そのタイミグでお茶を飲んで、続きを言ってくれなかった。それにしても、あのぴっちりしたズボンはレギンスというのか、僕も疎いので改めなければ。

「あの娘がそんな風に変わったこの場所、清水さんがいたからこそなんでしょうね」

 買い被りというか評価過剰というか。僕は単に大家さんの親類で任されていた分際でしかなく、それこそさまざまな情報源から杞憂を詮索され、今もこうしてただ待っているしかできないでくの坊だ。

「待つというのは、時として一番勇壮な行為になるのでは?」

もうこれは我慢比べの気分と思った方がいいってことか、それならと思った瞬間。さっきなっちゃんさん母さんが問うてきた抽象的な問いかけが、僕の中で具体的な質問に変化した。

「僕はなっちゃんさんと……」

 思わず漏れた僕の声。それを聞いて母親が息を漏らした。それは僕には安堵の声だったように聞こえた。

「あの、一つ聞いてもいいですか?」

 そのおかげか、ふと去来した思い付きがあった。それをなっちゃんさん母さんに聞くのも思い返してみたら、お門違いだったのかもしれないが、なっちゃんさんと過ごしてきた家族ならと、思い切って小声で尋ねることにした。

「なにかしら」

「なっちゃんさんは、邦楽聞かないんですか?」

 なっちゃんさん母さんはキョトンとしたばかりだった。僕は言葉が千鳥足になる勢いで慌てふためきながら、洋楽を口ずさむ流れをかいつまんで話した。

「ああ、なるほど」

 そう。ようやくというか、この期に及んでというか、この場だからこそというか、気づいたのだった。音楽の趣味趣向について、なぜか邦楽を聞いていると「洋楽は聞かないの?」と聞かれ、その逆もまたしかり。特に大学に入ってから、こうしたジャンルについての質問が何度も上がった。主に飲み会で。……なっちゃんさん母さん、すいません。どうやら単なる話題作りのためのネタだったようです。が、口にしてしまったのでもうディレートできない。

「おそらく、清水さんにとってだいぶ古い曲になると思いますよ。あの娘は私が聞いている曲なんかを聞いてましたから」

 ちなみに。そのよく聞いていた曲、なっちゃんさんが好んでいた曲はあるのだろうか。

「えっと、そうですね。あ、ちょっと待ってくださいね」

 なっちゃんさん母さんは音楽プレイヤーをカバンから取り出して、ピコピコとタッチすると、「こんな感じです」

 曲名を披露してくれた。Jungle Smile「おなじ星」、渡辺美里「悲しいね」、GLAY「都忘れ」、Cocco「ポロメリア」、 ZARD「新しいドア」。

「他にもいろいろありますけど、あの娘のベストファイブってとこでしょうかね」

 そう穏やかに言って音楽データを送ってくれそうになった。丁重にお断りした。確かに聞いたことがなかったので、後でネット検索してみると言って。ラジオをつけっぱなしにしている時もあるのでもしかしたら聞いたことがあるかもしれないが、曲とタイトルが一致しないのは目に見える、いや耳に聞こえるといった方がいいか。なんて言っても、ラジオは流しているだけが多かったから。

 それから少ししてなっちゃんさん母さんは帰って行った。帰り際に、

「そんなに深刻にならないでね。大丈夫、あの子は帰って来ますから」

 とやはり優しく微笑んでくれたおかげで、ずいぶん気が楽になったのだ。おかげでなっちゃんさん母さんがしてくれた話の途中で「彼女」とかの代名詞が出ていたことに、遅ればせながら気が付いたのだった。

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