第30話 なっちゃんさん母が来た

 日中、居間で論文を修正していると、玄関チャイムが鳴った。いつもより高い音に聞こえた。なっちゃんは鳴らさない。お客か訪問販売か、風間さんならおかまいなしにうっとうしく入って来る。重い体を立ち上がらせてから、鉄球を引きずるような足で玄関へ向かった。出てみると、

「お世話になっております」

 なっちゃんさんのははさんだった。僕は狼狽した。いや、狼狽しそうなのを誤魔化そうとした。何を言えば回避できるのかを思案すべきだったのだが、そうはできなかった。なっちゃんさんは所要で小旅行をしているとか、言い訳がましいことが口をつかなかった。まずは挨拶をして、それから応待すればいいようなものの、そんな平常が僕にはできなかった。なっちゃんさん母さんはあくまで落ち着いた様子で、

「あの娘に会いに来たわけではないです」

 と続けた。言われた僕はおかげで肩の力が抜けたのか、たどたどしく挨拶をして居間まで案内した。お茶を出した。対面に座った。落ち着くなんてできなかった。そこここに視線が泳ぎ、正座はほどなく整わなくなり、お茶を啜ろうとして熱さで飲めなかったり。なにより、なっちゃんさん母さんから言われない限りこちらから何かを口を開けない。どの拍子に行方不明をこぼすかしれないからだ。

「これ、おしいしですね」

 お茶請けのミニ大福のおかげか、どうやらなっちゃんさん母さんの機嫌は悪くないようである。思わずほっとした。それがどの動作に出てしまったのかしれないが、

「なにか気にかけていることでもあるの?」

 僕はどぎまぎしてテーブルの下を見た。それがむしろ言い訳を思いつかせてくれた。

「け、研究の方が、進みがゆっくりなもので……」

「そうなんですか。大変なんですね」

 なっちゃんさん母さんの柔和な笑みに他意はなかった。労ってくれていた。僕はどうにかはぐらかすことが出来たと思い、そもそもなっちゃんさん母さんが来訪した理由を聞いてないと気付いた。

「あの

 なっちゃんさんが話題に出るかと思い、身をのけぞらしそうになった。

「あの娘から聞いたんですが、伝承とかを研究なさっているとか」

 なっちゃんさんは何をどこまで僕のことを話しているのだろう。そもそもだ、まさに今更になって僕は冷や汗をかきそうになった。なぜなら年頃の愛娘を預けている下宿には他の住居人がいないどころか、大家も不在。その大家の代理がまた僕のような男子。親が心配しないわけがない。潔白をどうやって主張したらいいのか。屋内にも各所内にも記録を保存しておくカメラの類はないし。

「私ね、しがない作家なのよ。あの娘はきっと言ってないと思うけれど。それでね、今童話を作っているのよ」

身内の話しをしなかったなっちゃんさんだから、それは初耳でそれまでの話題のチョイスの濃密度が軽くなるのかと思った。

「ご参考になるか知れませんが、お話を聞いてもらえないかと思いまして」

 文脈から、どうやら今執筆中の作品が僕の研究ジャンルに向いているらしい。僕としても話題が屋内からそれることは願ったり叶ったりだ。

「火の精霊が、ある少年と出会ったお話なのよ」

 啜っていたお茶を、僕はあやうく吹き出してしまうところだった。おかげでかなりむせてしまって、涙目になってしまったが。

 なっちゃんさん母さんは僕に一声かけてから、話し出した。

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