第29話 一人でラジオを
はっきりと自覚したのは、夜の居間にいるということだった。テレビをつけてからカレンダーを見たら、なっちゃんさんがいなくなって二日が経っていた。流し台の横には水切り篭があって、茶碗とか皿が洗ってあったから僕は何かを食べたようだ。冷蔵庫を見たら、卵が減っていて、生鮭がなくなっていたので、調理をしたのだろう。確かにお腹は空いてなかった。なっちゃんさんの茶碗類は棚にしまったままだった。
風呂に入ることにした。浴室から出て、バスタオルで髪を拭いた。それから台所に立った。ふと棚を見た。グラスがあった。グラスを取って、冷凍庫から氷を入れた。
「えっと、確か……」
居間の棚から麦焼酎を取った。半分くらい残っていた。
「気が向いたら飲んでもいいから。安物で悪いけど」
なっちゃんさんが置いたものだ。いつもの座布団に腰を下ろした。氷を入れたグラスにそれを注いだ。口にすると冷たさの次にぬるさが口に広がり、それから喉を焦がす流れが通った。ふうと息が出た。この息はきっと生ぬるい。胃の底に滴ったのか、急にむせてしまった。落ち着いてから二口目にした。居間をゆっくりと見渡した。壁掛け時計の秒針が重々しそうだった。僕の対面が寒々として見えた。寂寥感というのだろうか。いつつけたのか思い出せないが灯油ストーブはオレンジ色に明るんでいた。寒さを感じているわけでもなかった。居間はこれまでと同じで、一つも欠けた家具や電化製品、食器類はなかった。けれど空っぽに見えた。換えてからしばらく経つというのに蛍光灯が燦燦と注ぐこの部屋がまぶしすぎて、それでいて光の届かない深海のようにも思えた。その空間で僕はたしなんでこなかった焼酎のロックを静かに飲み続けた。
ラジオをつけた。日が変わる時間だった。静かな口調のMCの話し。僕はラジオを消そうとした。曲の紹介になって、僕は手を止めた。「Desperado」だった。僕はしっとりとロックに口を付けた。なっちゃんさんが気に入っていた曲。その曲を聴きながら僕は今更になってこんなことを思った。
――なっちゃんさんは、この曲を聞きながら何を考えていたのだろう
そうか、僕はそんなことさえ想像を及ぼすことをしてこなかったのだ。僕にも気に入っている曲はある、その理由も。それを口ずさむ時にも理由はある。感情を託したり、慰められたかったり、テンションを盛り上げたりするために。だからそれは一曲ではない。なっちゃんさんは一曲だった。
曲が佳境を迎えていた。僕は口にしていたグラスを放して、スマホをなぞった。辞書のアプリを起動。意味を知らなかった単語を調べるためだ。“Desperado”。その日本語の意味が僕の酔いをわずかに覚まさせた。身震いが出た。なっちゃんさんが帰ってきたら言わなければならないと思った。
その晩寝入った記憶はないが、翌朝目を覚ましたのは布団の中だった。
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