第三章

第12話 存在が卑猥な風間さんというかつての入居者がやって来た


 残暑が徐々に和らいで、朝晩が涼しさと肌寒さの境界で揺らいでいる、そんな日だった。

 買い物から帰ってくると、玄関にはまだ新品の色が残る皮靴があった。見たことはない黒い履物の揃え方に既視感を覚えていると、居間から男の声が聞こえてきた。

「ちゃんと払うから」

 とか、

「悪いようにはしないって。ほら、僕ってそういうところ余念ないからさ」

 とか。胡散臭さがどこまでいっても蒸留できずに、しかも上澄みからしてまったく真剣さの欠片も感じられない口調。聞き覚えがあった。わざとらしくけたたましい足音を立てて居間に向かった。

「それは割に合わない。私はそんなに安くない」

 なんて言うなっちゃんさんの明らかに抗っているくぐもった声がしたり。

 戸を壊す勢いで豁然と開けると、

「やあ、久しぶり」

 イケメンがにこやかにあいさつしてきた。なっちゃんに迫っている姿勢のままで。

「風間さん! 何度言ったら」

「ああ、ごめんごめん。誤解しないでもらえるかな」

 現場を抑えられた犯人のように両手を上げて、なっちゃんさんからはがれていく彼は、三月まで店子だった風間さんだ。某有名私立大学を三年生の時に「飽きちゃったんだよね」という理由で自主退学、その後は定職につかずアルバイト生活。三十になるんだか、なったんだか、過ぎたんだかを機に「いい職が見つかってさ」という理由で退去を言い出したのが正月。退去の日に名刺を差し出したかと思ったら、そこには代表取締の肩書の風間さんの名が。「なんかあったら仕事ちょうだいね」と去り際に行っていたが、どんな職種なのかが皆目見当もつかない名刺だけ残された。まったくいつでもどこでもこんな感じで悪びれる様子は微塵も匂わせない。コミュニケーションの距離感がつかみにくくて、正直苦手だ。一昨年の夏、とりわけ暑かった日があった。昼食時、居間にみんなが集まった折り、「いやーこんなに暑いのはなっちゃんがお冠なのかな」とかヘラヘラと言ってのけて、なっちゃんから睨まれていた、なんていう例は数えればきりがない。

「それとも、清水君も交じる?」

 なんてことを言いながら上げていた両手を自分の胴にまとわりつかせてた。実に気持ち悪い。僕がその時、返答が出来ないほどおろおろしていたのは、きっとこの風間さんの気持ち悪さのせいだ。

 なっちゃんさんは居心地悪そうにティシャツの裾を直したりして。

 元入居者は一応客なのでお茶でも出そうかと動こうとして、スマホが鳴った。内山からだった。メールを一読すると、

「どうしたの?」

 なっちゃんさんが不思議そうな顔をしていた。どうやら難しい顔をしていたらしい。

「いえ、何でもないです」

 なんでもないことはないが、なっちゃんさんに関わることではない。先日の台風で以前ゼミの研究の一環に調査に訪れたことのある社が破損したそうだ。となりの市のそこを今から行くのはためらった。もう夕方で、時間的に確かバスは残り二本くらい。行ったとしても帰って来られない。スマホで調べたら、やはりそうだった。それになにより風間さんがどんな要件で来たのかが気になる。とりあえず客への接待をしなければならない。所詮見せかけに過ぎないとしても。

「風間さんは存在が卑猥だけれど、用事は違うから」

 どうやら僕が入って来た時の状況説明をしてくれたようだ。それにしても慌てたように早口になったのはなぜだろう。

「そう言えば、清水君てさ、民俗学専攻だったよね?」

 全く反省の色を発言からも言外からも漂わせもせず、どっからどう話しを持ってきたのかしれないが、卑猥な存在が尋ねてきた。

「ええ、そうですけど。風間さん。お茶です」

「清水君、Sな感じが隠れてないよ。まだ気温は高いんだよ」

 風間さんの前には熱々の煎茶を出しておいた。

「……清水君さ、明日暇?」

 湯呑をテーブルの上に乗せたまま湯気に向かってうっとうしいくらいに息を吹きかけてから、今度は僕に迫って来た。内山からの連絡があったあの場所がどんな現状になったのか見に行きたかった。とはいえ、風間さんが僕の研究分野をまず尋ねてきた理由も喉に刺さった魚の小骨みたいな感じがした。

「となりの市にさ、無人の古い社があるんだけど、こないだの台風で被害にあったみたいなんだよ。清水君は調べに行ったことあるかなあと思って」

 言ってスマホの画面を見せてきた。そこには地図が表示されていた。

「あるも何も今しがた友人から連絡あったのは、まさにそこのことです。明日見に行こうと思ってまして」

「おお、ならちょうどいい。僕らも行こう。ね、なっちゃん」

 僕の返答にみるみるうちに風間さんが意気揚々とし出したので、なっちゃんさんはさらにげんなりとしていたが、

「じゃあ、明日の同行も込みにしてください」

 半目でにらむように風間さんに念を押した。どうやら風間さんはなっちゃんさんにバイトを持ち掛けてきたようなのだ。それの交渉。雇用主がアレだから、案件を持ち込まれた側としては不履行にされるような契約にされてはたまったものではないのだろう。

「じゃ、清水君。明日十三時に現地集合で。なっちゃんもよろしく」

 お茶をかっこんで逃げるように出て行った。見送りする暇もなかった。契約書の取り交わしはしなくてもいいのだろうか。

「まったく。君、本当にいいの?」

 風間さんにも、それに僕にもあきれるような表情だった。

「え? ええ。結果的に同行ですけど、僕はどっちかっていうと研究がらみの個人的なことですから」

「うん。……あと風間さんのことは本当に何にもないから」

 恥ずかしそうに目を床に落とした。なっちゃんさんのこういう様子はめったにあるものではない。

「ええ、分かってます。あの人の奇抜さにいちいち腹を立てていられませんし」

「その割に顔が引きつってた、ずっと」

「そう、……ですか?」

 苦笑を自覚した。それほどまでに顔に出ているとは。しかし、それを言うならなっちゃんさんもずっと渋い顔をして頬がほんのりと赤らんでいる。

「まあ、気を取り直して夕飯作りますね」

「う、うん。よろしくね」

 なっちゃんさんはテーブルの前に腰を下ろし、床に広がっていた雑誌を整えて見始めた。僕は買い物袋から食材を出し、一部は冷蔵に入れた。

 ところで、いったい風間さんはどんな職をしているのだろう、今日になっても分からなかった。ただ破損した建物の件に絡むなら保険関係ということなのだろうか。いずれにせよ、風間さんがらみの不明瞭なことで思案をすることは、時間ばかりでなく、脳内のブドウ糖がもったいないので、夕飯づくりに集中することにした。

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