第10話 ゼミ中も散漫となるわけで


 梅雨らしいむしむしとしたもういつ雨が降ってもおかしくはないぬっとりとした曇りの日だった。

 この日のゼミは、ゼミ生が各自の研究テーマの進捗状況を順次報告した。一人の発表が終わると、教授が評を述べ、他のゼミ生から感想や意見、質問を出す。

「おい、貴美夫。貴美夫ったら」

 小声ながら肩を揺さぶられて、ぼやっとしていたと気付いた。肩にある手の方を見ると、内山が困り顔になっていた。あの時。神社で初めてサラマンダーを見た時。後日、内山とその話をしようとしたら、内山はサラマンダーを目撃してなかった。というより火の玉さえ記憶があいまいになっていた。怖いことがあった気がするがそれが何だったのか思い出せない、という旨のことを言っていた。そんなことあるのか、と疑ったが、恐怖を鮮明に記憶していたとしたら、それを思い出すたびに明瞭な恐怖心に苛まれることになる、となれば、心はそんないつ噴火するとも知れない休火山状態を保持するよりも、それ自体なかったことにするだろう。心理学で習ったことがある。防衛機制とか言うんだっけ、あれ違ったかな。だから、内山に共有を求めないことにした。その代りというか、内山は丑の刻参りという単語に敏感な反応を示すようになった。嘔吐するとか痙攣するとかではない。ただ怯えるだけだが、まるでイップスになってしまったようだ。

 僕を見ていたのは内山だけではなかった。他のゼミ生たちもあっけにとられたみたいな表情になっていた。

「清水君、大丈夫かね?」

 教授も眼鏡をクイッとあげてから僕の顔を覗いた。決して講義に集中していなかったことを咎めるようなものではなかった。

「清水クンは何かに憑かれたのかもしれません。内山クンと丑の刻参りを調べに行ったそうですし」

 さっきまで発表をしていた藤村さんが言った。これも僕を非難するとか本気で言っているとかではなかった。他のゼミ生がクスクスと笑んだのは、藤村さんの研究テーマが「憑き物と祓う作法」についてだったからだ。

「では、藤村さん。お祓いを」

 教授も乗ってしまった。柔和に笑んでいた。

「すいません、成田先生。それはまだ研究中でして」

 大げさに両手を上げて首を振る藤村さん。

「それならば仕方ないですね。滝行で身を清めてもらいましょうか。ねえ、清水君」

 どこまで本気なのか、教授はメガネを外して、にっこりとした。僕だけが肩身の狭い状況。

「体育館のシャワー室でいいですか、先生」

 内山が調子に乗った。誰も指名しないのに挙手したまま立ち上がって、そんなことを言った。内山はいつもこんな調子だ。だからゼミ生だけでなく、教授も扱いは慣れたものだ。

「まあ、冗談はそこまでとして」

 あっさりとした教授の卓越したボケ殺しに、またしても他のゼミ生はクスクスとした。内山はやり場のなくなった手を左右に振りながら着席した。これを台本もシナリオもなく始めたのだから、こういう雰囲気にゼミ生たちは親しみを感じられているだろう。内山がいつになったら、そういう学習できるのか不安にもなるが。

「清水君、平気ですか?」

 教授は眼鏡をかけ直した。穏やかなまま確認された。

「はい、ちょっと考え事をしてました」

「それは研究に関係にあることですか?」

 サラマンダーの件、と答えられるわけはないのだが、未知の生物に関する以上、確かに僕の研究テーマから大きく離れていると言うわけではない。わけではないが、かといってここまで悩んでゼミ中に気もそぞろになる必要もなかった。

「関係なくはないですが、失礼しました。藤村さん、ごめん」

 ロの字に並んだ机の対面にいた、さっきまでの発表者に謝罪。藤村さんは、

「いえいえ」

 と、ニッコリしただけだった。さすが成績優秀者。アホな男子学生たちにも寛容な、そして当意即妙な事後処理。どこぞやの令嬢かと思わせるほどのふんわりとしたいでたち。それでいて、なにかは知れないが芯がある感じがする。まったく、憑き物というより縫物を研究しているのがイメージされるのだが、個人の関心に他人が口出すのは野暮というものだ。

「他に藤村君に質問がある人はいますか」

 進行に戻った。さっきまでの発表を反芻しながら、手元のレポートに目を配る。

「俺より順調そうなので、特にないでーす」

 もう一人の男子の下野が指名されないうちに口を開いた。他の女子たちも追随するように顔を見合わせてから、教授に向かって頷いた。教授は僕と内山の方を見たが、内山はどうかしれないが僕は半分以上聞いてなかったから、何も言えることはない。内山もただ「右に同じでーす」と答えるだけだった。奴の右側には誰もいなかったから、内山には幽霊でも見えていたのだろう。いや、机の図を気にしなければ、順番だけなら奴の右は教授ということになるが。

「では、発表はここまでということで、私から総評を……」

 教授からは、資料集めや検証の点で不十分さが見受けられること、とはいえ個性的なテーマで能動的に取り組んでいる姿勢は評価できることなどが話された。

「次回は……」

 日程の確認で、講義の時間が終わった。鞄に片づける雑然とした音の中、

「清水君、ちょっと」

 座ったままの教授が手招きをした。片づけを止めて、僕は教授の横に立った。

「調査の件は、先方と打ち合わせはできたかい?」

「はい、異常気象で交通機関が麻痺しなければ、現地での行程はすり合わせできてます。あ、ちょっとすいません」

 僕は席に戻って鞄からバインダーノートを持って、再び教授の横へ。

「こんな感じです」

 ノートを開いて教授に渡した。しげしげと僕のノートを無言で見てから、

「ちょっとタイトなスケジュールにしたんじゃないか?」

 ノートを僕に返した。

「え? そうですか?」

 日程の書かれたページを見直した。バスの発着時間は調べておいたし、なんだったらタクシーの連絡先も控えてあった。食事の時間もそれなりに確保しておいたはずだが。

「作業的な意味だよ。宿に帰ってからも、君のことだからさっそくその日あった分をまとめるだろうが、そうするとこれはハードな方だよ」

「はあ」

 確かにそのつもりだった。情報はフレッシュなうちにまとめておくべきだ。鉄は熱いうちにってやつだな。

「君はまるで私たちのころの調査みたいなやり方だな。無人島に冒険に行くんじゃないんだから。現代っ子だろ、ツールを使いたまえ」

 スマホ、タブレット、ⅠCレコーダー、デジタルカメラなどなど。情報収集に有効な機器は、これみよがしにコンパクトになっている。遠出といってもそれほど過重にはならない。そんなことだった。僕は頻繁にそういうツールを使う方ではない。だから写真や動画の撮り方は不得手な方で、ましてやⅠCレコーダーは買ったことはない。パソコンを使い始めたのはいつだったろうか。検索には頻繁に使っている。直筆のレポートを受け取らない教授にはやはりパソコンを使うしかないし、最近ようやく家計簿へ直接記入から表計算ソフトを使うようになった。確かに便利である。ならば、他の情報ツールも同じ。そうは思っていても、なかなかきっかけがなかったのだが、これを機にそれらに馴染んでもいいのかもしれない。

 とはいえ、それらを駆使して調査を進めたとして、この泊りがけの調査の宿で僕は研究に手を付けなくてもいいのなら、他のことに心が奪われるかもしれなかった。

「貴美夫、家電屋行くべ」

「なら、俺も行く。スピーカー見たいし」

 ゼミ用の広くない教室では、というか特に秘密にしなくてはならない事項でもないから、当然僕を待っていた内山と下野には聞こえており、確かに一人では家電量販店で行ったり来たりして結局は何も買わないで帰宅するであろう僕にとっては、いい意味でこの二人は踏ん切りをつけてくれそうだ。

「それなら内山君、下野君、よろしく」

 教授は机上の資料を整えてそそくさと出て行った。

 確認のために財布を開いてみたら、安いⅠCレコーダーくらいなら買っても良しと偉人の方々がおっしゃっていた。

「貴美夫、ホント、とり憑かれてんのか?」

 僕のボケ殺しをした内山の尻を軽く蹴った。

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