第9話 思索というか、漠然と悩むというか


 土曜日。随分快晴というのに、僕はほぼ自室にこもって過ごした。研究と言えば研究だが、どちらかと言うと個人的な興味だった。研究も興味がスタートではあるが、それは学業であり、その日調べていたのは、まったくもって学業とは関係のない、本当に個人的なテリトリーだった。

 胡坐をほどき、手を支えにして上半身を後ろに傾けた。掌から畳が邪気とともに疲れを吸い取ってくれることを願った。願ったと言うのは厳か過ぎて、嘆きというかぼやきというか、それでも愚痴なんかではない、漠然とした感想だった。

 机にはノートパソコンが検索結果を載せている。AIが進んだら音声で解説してくれるだろうが、今は表示の文字を追うしか。軽く息を吐いて、机上の目薬を取った。クールではないはずなのに、やたらに眼球に響くくらいに沁みた。グラスの下にソーサー代わりにしていたハンドタオルを手探りで取って閉じたまぶたから流れる目薬を拭いた。パソコン周り、机周り、畳の上に無造作に置かれたつくしのような本の積みが目に入った。大学の図書室からだけでなく、市立図書館、県立図書館から借りた本、本、本。AIでなくても各図書館で重複しない本を探せる検索システムは大変ありがたい。ただ、該当まで一直線で揃えて終わりではなく、時間をかけて館内を回った。『日本民俗図解』、『妖怪一覧』、『UMA大辞典』、『西洋魔物百科』、『伝承生物要覧』などなど、僕の本棚に置けない分厚い目の本を借りた分かなり重かった。

 時間をかけて何をしていたのかは、一つしかない。あの火の生物の正体を知りたかった。

「サラマンダーかあ」

 結論として断定できないのは、科学的根拠の有無というより、解説と視認の一致というか、伝承の生物の目撃をただただ信じられない、いや驚きの中に漂っていたからだ。

 確かにサラマンダーという単語は聞いたことがあった。ゲームだかアニメだか、ぼんやりとした印象で勝手に竜みたいな、あるいは現実的な生物というなら蛇みたいなのが火を使う、口から吐いたりなんて、そんなイメージだった。書籍にはこうあった。端的にすると、火をまとったトカゲ。思い浮かべてみた。あの生物。爬虫類に見えたから、トカゲと言われれば、そうかもしれないと合点はできる。図体は並みのトカゲとは比にならなかったが。どちらかといえばコモドドラゴンかと思えるほど。合点が行き過ぎていて、むしろ現実感がないくらいだ。単にイメージとリアルの不一致に、イメージを撤回する余裕がないだけなのだ。

 さらには蛇足的に芋づる式に見つけてしまったものがある。あの夜、僕が目撃したサラマンダー(仮)の前に空へ飛んで行った例のアレ。火車。妖怪である。ロケットではなく、火をまとった御車と文字と参考のイメージイラストをもってしても、確かにその通りだと裏付けられるわけではない。初見の対決のように、サラマンダーは今度は火車と戦っていた、ということだろうか。言いきれないのは、火の玉との争いと違って火を吐いたり放ったりの、こう言っては不躾になるのだろうが、華々しさはなかったのだ。むしろ、火車を逃がしたとか、追い払ったとか。サラマンダーの悠然さからすると、そっちの方がしっくりとこないことはない。

 言い淀む理由は一つだ。何のことかさっぱり分かりゃしないってだけだ。それでもなんで妖怪があそこにいて、例のアスファルト引っぺがし事件やガス管切断事件とどう関係しているのか、あるいはまったく関係のないのか、一切不明なのはなんも変わることはなかった。ただ無視を決め込んだり、忘却の彼方へ流せたりできない理由もはっきりしている。僕の卒論のテーマが妖怪に関することだからだ。

 頭を左右に振ると首が鳴った。グラスを持って部屋を出た。キッチンに行き、冷蔵庫を開けた。麦茶の入ったピッチャーを一度手にしてすぐに戻した。冷蔵庫を閉め、グラスを流し台に置き、カップを出した。熱々のコーヒーを淹れた。表面を啜って、いや舐めてから居間を出ようとしてやめた。居間の座布団に腰を下ろし、丸テーブルにカップを置いた。正座をしていた。顔を天井に向けた。

「なんでいたんだ?」

 ごくごく単純な疑問がようやく出た。「いた」というよりも「見えた」と言った方がいいかもしれない。たとえば、同ゼミ生の内山と初めて会ったのは四月。あいつは所属していたゼミを今になって変わってやって来たんだ。二回目の対面は、そのたしか二日後だった。その時まで僕が存在していなかったことはない。哲学的には興味ある思考実験だが。二十年間生きてきた記憶も、写真とか動画とか母子手帳とかの記録もある。もしかしたら町の本屋で、内山とそれまでの時間にすれ違っていたのかもしれない。そういう機会があったかもしれない。けれど、その時、僕と内山は互いに見えていなかった。いたのに。

 サラマンダーもそういうことなのかなと。いや、ちょっと違うのか。コーヒーを啜った。息を吐いた。苦い息だ。同時に覚める息だ。僕はちょっと頬が緩んだ。立ち入ってしまったトンネルが予想よりも長くて不安になりながら、それでも歩き続けていたら遠くに小さな一点の光を見つけた時の胸の躍り。コーヒーを飲んだ。カップの半分ほど飲んだ。ほっとすると同時にやる気みたいな能動感が勢いよく背を伸ばさせた。

 僕は不思議な生物を見た事がある。それこそマンガとかの影響で小学生の僕は、それはきっとツチノコに違いないと思った。それは今の僕の研究テーマにつながっている。さすがに未知の生物がそう易々と見つけられるわけはないと年齢を重ねるごとに理解してきた。それでもそういう生物を想像でも生み出す要因というか背景というかを調べている。小学生ではない二十歳を越した僕が目撃したおそらくはサラマンダー。それは要因とか背景とかよりも、存在ズバリなのだ。あの時の僕の好奇心と興味は大人の僕の身体隅々まで拡がった。

 残りのコーヒーを飲み干した。

「ただいま」

 玄関ドアが開き閉められた。そのおかげで、もうそろそろ夕飯の準備をしなければならない時間だと気付いた。居間の戸が開いた。

「おかえりなさい。今から支度しますね。その前にお茶がいいですか、それともコーヒー?」

 なっちゃんさんは目をぱちぱちさせた。

「じゃあコーヒー」

 少し素っ頓狂な声色だった。薬缶を火にかけようとして、自分のうかつさに舌を出した。なっちゃんさんには冷や冷やのアイスコーヒーを出した。

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