第6話 再度の目撃

 ガス管の破損事件の翌々日、僕は大学に遅くまで残っていた。研究の資料探しをしたのである。単に文献を検索するばかりではない。その文献の中で参考になる部分を見つけ出し、ページめくりなんぞをしていると、また新たなる情報が目に入る。そうするとその情報源にもあたり確証を得なければならない。なにせ民俗学。資料によってはかなり古いものもある。そんな書物には語彙索引があるはずもなく、埃じみた紙の匂いが鼻の中に届きながら、スマホやタブレットなんかをいじる。卒論のための通学といっても差し支えない日々。その卒論一つが講義いくつ分にも匹敵する過重なのだ。だから、午後から図書室に入ってほんの一、二時間で終わるはずもなく、その帰るころには二十一時を回っていた。もうその時間帯になると教職員出入り口から出なければならなかった。警備の人へ報告するためだ。

 学生証を警備員さんに見せて施設を出る。梅雨入りはまだである。どこか蒸している気がした。これが秋口ならむんむんとした構内から涼やかな外へと出て、さぞかし研究の肩こりでさえも自分にがんばったで賞を上げようかとでも半分自暴自棄に半分ねぎらいにもできるのだが、空気がそんなリフレッシュをさせてくれなかった。なっちゃんさんには遅くなると言ってある。夕食も支度してあった。とはいえである。明日の朝食を何にしようかと考えてしまうのは、すっかり大家業が板についたなんて自分では認めたくはないが、致し方ないのだ。こういうのを考えるのは嫌ではない。あれこれと悩んでもどこか楽しい。卒論のそれこそリフレッシュになる。

 重い首を心持ち力を込めて持ち上げ、速足で進む。駐輪場に通じる人気のない道、そこを通ると本通りではないにしろ若干のショートカットで駅に向かえた。外灯はなく、校舎の点々とする灯りから離れていくと不気味な感じがしないわけでもない。駐輪場へ近づくにつれて、その脇が仄明るくなり始めていた。鼓動が速くなった。早足でゆっくりと近づいた。矛盾しているかもしれないがそんな歩調だった気がする。駐輪場の壁からそれを覗こうとした瞬間、さっきまで仄明るかったそこが勢い良く燃え盛った。キャンプファイヤーとか、こないだゼミで見た、とある地域の左義長の様子の映像とかみたいなけたたましい立ち上りだった。僕は大声を出すべきか、スマホで消防へ連絡すべきか、消火器を取って来るべきか思案すべきだったのだが、火の、というより炎が燃え始めたかと思ったら、炎自体がロケットのように発射し、あっという間に夜空へ向かい、すぐに見えなくなったのをただただ呆然と見ているだけだった。あっけにとられて空を見ていた僕がその元にあったと思われる場所に視線を落とした時だった。あの火をまとった爬虫類みたいな生物がいた。体中からオーラのように火を揺らめさせながら、僕の方をじいっと見上げていた。僕は息をのんだ。と同時に、心の中で、

 ――やっぱりか

 と思った。変だったのは、一連の原因がこいつだったとしても、恐らくこいつは悪事をしたわけではないという推量が勝手に頭に浮かんだことだった。コンクリートがめくられ、ガス管が切られたのは確かに被害だ。大学にとって。正確に言うなら大学運営をする事務にとって。大半の学生にも教授陣にも被害はない。切られていたのにガス漏れしなかったガス管のほうをもっと不思議がるべきであり、あえて言うなら警備員というか警備会社は何してたって話だ。しかも構内の舗装を行う計画も前倒しになったとか。てことは、地面は経年劣化していたということでもある。ああ、被害というなら、修繕費は学費とかで賄われているのだから僕らの親になるのかもしれない。僕が退出の時に学生証を見せた警備員さんもボヤ以降、構内に無駄に残っている学生が確実に減ったと言っていた。これはこれで警備員さんにも朗報となったのだ。なんとも。

 火の生物はくるっと回転し僕に背中を見えた。やはり爬虫類っぽかった。背に揺らめく火の粉が僕に振ってかかることはなかった。この空気の中、けっして熱くはなかった。むしろ手をかざせば冷気を感じるのではないかとさえ思えた。

 その生き物はゆっくりとした足の運びなのに地面を滑るように速く前進するそれを僕は思わず追いかけ出そうとした。すると、その生物の背から火の柱が、いや火の壁が広がった。僕はたじろいだ。次の瞬間には火の壁は消え、あの生物もいなくなっていた。さすがに僕は警備員を呼びに戻った。火が上がったことを説明した。すぐに消えたことも。犯人らしき存在がいたようだが驚いて視認できなかったことも。ただ、火の獣がいて、僕の目の前から煙のように消えたことは言わなかった。言えるはずもなかった。僕の専攻が専攻だけにきっと研究に熱を入れていたためにうなされたのだろうと、憐れまれるだけだ。

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