第4話

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「食べないともったいないわ! 一生後悔するわよ。本当よ!」


 顔がこわばるのを感じた。桜木は本当に、このビスクスープが好きで私にすすめたいのだろう。

 借金がある身なのに、こんな贅沢を?

 だが、桜木の花のかんばせが涙でかすむ様を見ていると、なんとかしたいような、悲しませたくないような気持になっていき、気づいたときにはモーニングを注文していた。

 美女に対して、私の意志がこんなにも脆いなんて知らなかった。


 そして。


「確かに、海老沼だわ」


 ビスクスープを口づけて、率直な感想を零すのだった。


 このオレンジのスープが舌に触れただけで、濃厚な海老のうまみが体中に広がっていくのを感じた。

 エビの殻の独特の香ばしさと、玉ねぎの甘さ、トマトとセロリとにんにくの食感、それらが透き通った清流のごとく細胞に一つ一つ染み込んでいく感覚。

 沼を思わせるどろりと濃厚なスープは、海老のうまみどころか海老の命そのものをろ過したような力強さがあった。

 美味しいを通り越して、神の雫そのものの――一つの芸術品を飲み干したような、恐れ多い気持ち。

 喉を通るスープの熱が、私の中に堆積した淀んだ泥を浄化していくような心地に鼻の奥がつんとなる。


「ね、おいしいでしょう」

「はい、とっても」


 眼から鱗どころではない、この衝撃体験アンビリバボーをなんと表現すればいいのだろう。

 自分を覆っていた殻が破れて、悲鳴を上げていた脳みそが感動の潤滑油を得て滑らかに回転する。

 目を開ければ広がる世界は色彩を帯びて、常に自分の中にまとわりついていたような不快感が音をたてて剥離していく爽快さ。

 まるで、新しく生まれ変わったような打ち震える感動に、私は直感する。


 私はもう、海老沼という自分の名前に、なんの嫌悪感もわかない。


 己の中で確立した、海老沼=美味しい名前という図式が、神の雫そのもののビスクの味を何度も脳内で再現し、私はその都度、その美味しさに打ち震えるのだ。

 

「ありがとう、とってもおいしかったわ」

「でしょうっ!」


 私は桜木に礼を言い、モーニングのパンに手を伸ばそうとして、ふと気づいた。


 あれ? つまり、私は約250万の借金をこさえて、桜木にすすめられた3000円のモーニングプレートのビスクスープで、抱えていた問題を解決してしまったってこと?


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