第2話 夏休み初日

 夏休み初日、日空はもちろん休みだが、社会人の両親に夏休みは無い。

 遅めの朝に起きてきた日空は「おはよう」と夕月に挨拶だけすると洗面所へと向かう。

 夏の冷たくもない水で目を覚ます。前髪から覗く、妹とは反対のややつり目が睨みつける。

 濡れた顔にへばりつく髪の毛をヘアバンドで持ち上げる。

「髪の毛、切りに行かないと……」

 家から出る予定はないが、長くて邪魔だ。学校も行かなくていいし盾が無くなっても問題ない。

 リビングに戻った日空は、仏壇に手を合わせて仏飯器を持ってキッチンへと向かう。

 仏飯器のご飯を食べながら、置いてある食パンを取り出すと一切れ加えてリビングへと戻る。

「お姉ちゃんさ、今日髪の毛切りに行こうと思ってるんだ」

 パンを食べながら、テレビをつける。テレビの音を聞き流しながら、賑やかになったリビングで日空は話す。

「まあ邪魔にならないように切るだけだけど」

 飲み物を入れていなかったなと、再びキッチンに行った日空がコップを持って戻ってくる。

「自分で切れたら楽なんだけどね。ほら、昔あたしが夕月の髪の毛切って失敗したじゃん?」

 だから切りたくないんだよねー、と笑いながら。日空は喉を潤す。

「すぐ帰ってくるから待っててね」

 テレビの電源を切って、日空は外へ出る準備をしに行く。

 昨日、妹に夏休みはずっと一緒にいるよと言ったそばから外出してしまう。日空は自分が薄情になったような気がして顔を曇らせる。

 別に髪の毛なんて家で切ればいいのだ、失敗しても外に出るつもりは無いのだから。それでも外へ行こうとしているのだ、しかし日空には分からない。

 自分のことが分からなかった。


                    ◎


「おはようお姉ちゃん!」

 太陽が昇りきった時間に起きた月夜は、勢いよくリビングへと入る。

「今日は散歩に行くんだ!」

 仏壇の前で正座をして線香をあげる。

「暑いんだけどね、夏休みの思い出を作りたいし――」

 月夜は笑顔を向けると立ち上がる。

 夏休み初日、暑くても、友達がいなくても、月夜は出かける。

「昨日のあの子に、もしかすると会えるかもしれないから」

 月夜は出かける準備を始める。鏡の前でぼさぼさの髪の毛を鼻歌交じりに整える。

 とりあえず駅まで向かおう。月夜の最寄り駅は急行停車駅、停まる電車の本数も多いし、特に行き先を決めていなくても困ることはない。

 髪の毛を整え終えた月夜は自分の部屋へ向かい、着る服を選ぶ。

 じわりじわりと汗がにじんでくる。

「あっついなあ……」

 月夜は何着か服を持つとリビングへと戻る。扇風機の風を浴びながら、持って来た服から今日着る服を選ぶ。

「どれがいいかなあ……」

 月夜が今持っている服は全て朝日の着ていた服だ。体格の違いがほとんど無いため、服をほとんど持っていない月夜が朝日から譲り受けたのだ。

 月夜は一着の水色のサマーワンピースを選ぶとそれに着替える。ひまわりのワンポイントの刺繍が入っており、夏らしい装いだ。

「どう? お姉ちゃん。似合ってるかな?」

 仏壇の前でくるりと一回転。

 返事は無いけれど、姉が『似合ってるよー』と言ってくれた気がした。


                     ◎


 家を出た日空は、夏の日差しを手で受けながら駅へと向かう。蒸し蒸しした熱気が髪の毛の内側でこもって割増で暑く感じる。蝉の鳴き声を全身で受けながら、できるだけ影の中を通って駅へと向かう。

 日空が通う美容室は、最寄りから二駅の急行停車駅のすぐそばにある。普段なら予約を取ってから行くのだか、今日は平日だしそれほど混んでいないだろうと言う理由と、単純に思いつきのため、予約無しで向かう。

 連なる山々の緑が色濃い夏の景色、緑の稲が風に揺られて葉の擦れる音が優しく流れる。直射日光に晒されながらゆっくりと足を動かす。妹はもういないのに……。

 線路沿いを歩いている日空を電車が追い抜く。四両編成、各駅停車の普通車だ。

「はあ……」

 一時間に四本しかない電車が行ってしまう。もっと早く歩けば間に合っただろうに。

 待合室も無い真夏の駅の、狭い影の中で待つことになりそうだ。

 駅が目と鼻の先に近づく、踏切の遮断かんが日空の行く手を阻む。目の前を急行列車が温風を撒き散らしながら通り過ぎる。

 踏切を渡った日空は駐輪場を抜けて改札口へやってくる。まだ定期券の期間内だから切符は買わなくてもよかった。

 売店など無い、自動販売機とベンチだけが並ぶ駅のホーム。時刻表を確認した後、ベンチに腰掛ける。さっき電車が発車したばかりのため、駅のホームには日空以外人の姿は無かった。

 黒色のパンツの中は熱がこもり、適当に選んだシャツは襟が冷たくなっている。時間を調べればよかった、後悔と疲労が押し寄せる。電車が来るまでの十五分、なにもやることがない。

 そういえば、と日空はふと昔を思い出す。

 妹が生きていたころなら、電車の時間を調べていたのに。帽子を被せて、飲み物とタオルも持って熱中症にならないように気を付けて駅まで来ていた。

 今この時間も、妹がいたなら汗を拭ってあげて飲み物を飲ませたりして涼ませていただろうに。

 だけど今はもういない。張り付く髪の毛をかきあげながら深く息を吐く。

 時間を確認するがまだ五分も経っていない。辛うじて吹き込む風が夏の暑さを少しだけ和らげる。

 早く家に帰りたい。妹といたい。そう思っていたはず、今も常に思っているのだが、なぜ急に髪の毛を切りに行こうなんて考えが浮かんでそれを実行してしまったのか。

 夏休みの思い出を作ろうなんて考えはさらさらない。これは断言できる。だとすると昨日声をかけてきた変な生徒、天野月夜と言ったか、苗字が同じあの女子生徒のせいだろうか?

 昨日の月夜の微笑みが日空の記憶の夕月の微笑みと重なる。

 大切な思い出が穢された気持ちになる。

 気がつくと俯いていた日空は拳を握りしめていた。汗はすっかり引いており、視界が落ちてきた髪の毛でふさがっている。

 ホームにアナウンスが響くと、間もなく電車が滑り込んでくる。立ち上がった日空は弱冷車を避けて、電車の乗り込むのだった。


                      ◎

  

 トートバッグにお茶を入れたペットボトルやタオル、財布を入れて家を出た月夜は、真昼の日差しに身を焼かれながら駅へと向かう。

 夏休みにしか見ることができない、夏の日差しを浴びて輝く、色とりどりの景色。元々家から出ないタイプの月夜にとってその景色は新鮮だった。

「綺麗……暑いけど」

 タオルで汗を拭いながら駅の近くへとやって来る、駅の前には美容室があり、そこの扉が開く。

 高校生だろうか、艶めく黒髪一本一本が陽光を反射するほどの綺麗なロングヘアーの整った顔立ちの少女が出てきた。

「わあ」

 思わず足を止めて声を出してしまった。

 月夜の声がその少女の耳に入ってしまっのだろう。少女がちらりと横目で月夜を見て――。

「ぅげっ」

「あれ?」

 その少女は驚きに目を見開き、身をひるがえすとそのまま駅へと続く階段足早に向かう。

 月夜は少女の驚いた表情に見覚えがあった。

「ああ!」

 少女は月夜の声にびくりと肩を震わして、振り返らずに階段を駆け上がろうとする。

「ま、待って!」

 月夜が慌てて駆け寄る。少女はなぜか階段を上らずに待ってくれた。

 じわじわ滲んでくる汗をタオルで拭いながら、月夜は少女へと詰め寄る。

「あ、あの! あなたは昨日の人……だよね?」

 勢い良く呼び止めたにもかかわらず、人違いだったらどうしようと不安になる月夜だった。

「……そうだけど、なに?」

「良かったぁ……間違っていたらどうしようと思ったんだ」

 ほっと胸をなでおろす月夜。

 その様子を見ていた少女――日空は顔を背けて呟く。

「やっぱり違う。人違い」

 素っ気なく振る舞う日空に、月夜は困ったような表情を浮かべる。もしかして嫌われているのかな? と僅かな不安を感じながらも、待ってと手を突き出す。

「いや、でもその、声が同じ……だと思う!」

 なんだその理由は。他人ですとしらを切ろうとしていたが、面倒くさそうな気がしたため、日空は渋々頷いた。

「はあ、そうね。同一人物だし」

「やった!」

 昨日と違って、おどおどした雰囲気が無い月夜の様子に、日空は眉をひそめる。

「あなた、昨日とは別人ね」

「え、そうかな?」

「そうだよ、なに? 学校じゃ猫かぶってんの?」

 トゲのある言い方だなと自覚はあるが別にいいだろう。

 日空は月夜の姿を確認する。服装は私服だし、制服の時と雰囲気が変わっていても特になにも思わないのだが、表情が違う。

「いや……、猫被ってるわけじゃないんだけど……」

 日空はそう言うが、月夜自身、昨日の自分と変わっているつもりはない。ただ、テンションは上がっているとは思う。もう一度会いたいと思っていた日空に会えたからだ。

 それを言おうかと思ったが、言っても日空は思いっきり顔をしかめるだろうと思った月夜は、心の中で姉の朝日に報告するだけにして、誤魔化した。

「多分、夏休みだから……かな? 開放感でちょっとテンションが高くなっているのかも」

 これがそこそこ仲のいい友達なら、違和感を感じて首を捻ると思うのだが、相手は昨日会ったばかりの名前の知らない同級生、ただ「あっそう」と素っ気なく返すのみだった。

「それじゃあ、あたしは帰るから」

「え、もうちょっとお話しようよ!」

「嫌よ、暑いし妹が待ってる――」

 そこまで言って日空はしまったと口を噤む。妹が待っているということは事実なのだが、妹がいたということは誰にも知らないし言いたくなかった。いつもなら絶対口にしない言葉を、今日はなぜか口にしてしまった。

「そうなんだ……あっ、それなら連絡先交換しよ!」

 月夜はそれなら仕方がないなあ、などと呟きながらトートバッグからスマホを取り出す。シンプルだが一番防御力の高いと言われているスマホケース。朝日が使っていた物を月夜が使っているのだ。

「は? 嫌よ」

 あっさりと納得をしてくれた月夜を意外に思いながらも、断ることは忘れない日空。偶然会ってしまっただけで、これからも月夜と関わるつもりは無いのだ。

 対して月夜は、なんとかして、日空と繋がりを作ろうとして必死になっていた。

「あうぅ……」

 勇気を出して連絡先を交換しようと言ったのだがあっさりと断られてしまった。

 いつもの月夜ならすでに引いていたか、そもそも声をかけられないのだが、なんとしてでも日空と繋がりを作りたい月夜は、ここで引く訳にはいかなかった。

「で、でもっ」

 月夜はなんとか連絡先を交換しようと食い下がる。

「なんであたしと連絡先なんか交換したいの? 別にあたしはあなたと関わる気なんて無いんだけど」

 食い下がるが、日空が返す言葉は、月夜を冷たく突き放す言葉だった。

 日空も、さっさとこの場から立ち去ればよかったのだが、どうも月夜を無視して帰るということはできなかった。

 月夜と妹の夕月を重ねてしまったからなのか。日空の中に僅かな迷いが生まれた。

「それはっ……、と、友達になりたいから!」

 どこか焦った様子の月夜は縋り付くように日空の手を取り訴えかける。

 しかしその月夜の行動に、日空の迷いは泡沫のように消えてしまう。

「嫌がる相手と友達になって嬉しい?」

「あ……」

 瞬間月夜の手が力なく落ちる。

「それじゃあ、あたしは帰るから」

 冷たく言い放った日空は、そのまま振り返りもせずにホームへと続く階段を上り始めるのだった。

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百合の気配 夏 坂餅 @sayosvk

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