百合の気配 夏

坂餅

第1話 終業式

 窓の外から蝉の鳴き声がけたたましく鳴り響く。蝉の煩わしさから目を逸らすと今度は廊下の騒がしさが耳に入ってくる。

 他のクラスはもうホームルームを終えたのだろう。天野日空あまのひそらはそこからも目を逸らす。

 前を向くと担任が夏休みの注意事項などを冗談交えてたらたら喋っている。早く解放してくれ、日空はそれだけの気持ちを込めた目を長く伸びた前髪の隙間から覗かせる。

 相変わらず両サイドの声が煩い、それに加えて正面からもしょうもないが故の煩さが襲ってくる。このまま帰ってもバレないのではないのか? そんな考えが頭をよぎる。

「実質最後の夏休みだぞー。来年からは受験で遊びどころじゃないからな」

 担任の声が丁度隙間の空いた日空の頭に入って来る。

 の夏休み、日空は見えない位置で拳を握り込む。俯いて髪の毛で隠れた表情は誰にも見えない。

 他の生徒がにわかに騒がしくなる、最後の夏休み、その言葉に反応しているのだろう。二年生になるとどこへ行っても「来年は受験」だと言われてしまう、嫌でも意識せざるを得ない。だからこそ、最後の夏休みを楽しもう。そういった空気が教室内に充満する。

「最後の夏休みだから、楽しい思い出を作るんだぞ! それじゃ終礼終わり、羽目外し過ぎないようにな」

 最後に担任がそう締めると生徒達がぞろぞろと教室を出ていく。友達同士、又は一人で昇降口に向かう生徒達、一刻も早く学校から飛び出したいのだろう。

 しかし日空は俯いたまま。

 生徒たちの足音が遠ざかった後も日空は俯いたままだった。

 さっきまでの帰りたいという考えが今はどこにもない。

 今、日空の頭を満たすのは担任の言葉だ。

 高校生活最後の夏休み、楽しい思い出を作れ。思い出なんてものは必要ない、正確には『楽しい』思い出だが、そんな些細な違いなど今はどうだっていい。

 喧騒が遠ざかる。リュックを背負った日空は突っ張る目尻を髪の毛で隠しながら昇降口へと向かう。

 夏の日差しが容赦なく校舎を熱する。風も少なく生温い空気が停滞した廊下を黙々と歩む。グラウンドから運動部の掛け声が蝉の鳴き声とぶつかり合う。暑苦しくて敵わない。

 ガランとした昇降口に辿り着いた日空は靴箱を開ける。それと同時に昇降口の開いたドアから、夏の温風が滑り込む。髪の毛が風に吹かれて日空の顔を露わにする。

「だ、大丈夫……?」

 驚いた日空は声のした方を顔を向ける。少しこもりがちな声の主は一人の女子生徒だった。長い髪の毛が顔を隠さないようにセットしている、長い髪の毛で顔を隠している日空とは正反対の女子生徒。

 日空は頭を振って顔を隠すと上履きスリッパを拾い上げる。下靴を放ると足を入れてそそくさとその場を立ち去る。

「あれ? ちょ、ちょっと待って!」

 女子生徒が慌てて靴を履き替えて日空の後を追う。

 昇降口から出た日空は髪の隙間から差す光に目を細める。前髪を手櫛で整えて夏の日差しから目を守り、身を焦がされながら正門へと向かう。

 正門を出て、最寄り駅まで歩く。信号で止まると全身から汗が滲み出てブラウスが背中に引っ付いて気持ち悪い、それに加えて背中に刺さる視線も気持ち悪い。

「さっきからなに?」

 日空は後ろをついてくるさっきの女子生徒に顰めた顔を向ける。不快感を隠そうとしていない日空の顔、冷たい声に女子生徒は怯む。

「あのっ、いや違うの! わたしも電車だから」

 あわあわと手を振る仕草が、女子生徒の明るくクラスの中心人物のような見た目とは正反対の態度だった。

 その見た目と言動のギャップに日空は首を捻ると信号が丁度青に変わる。

「あっそ」

 日空は女子生徒に背を向けると再び歩を進める。


                 ◎


 駅に辿り着いた日空はポケットから定期券を取り出して改札を通る。日空は後ろの車両に乗るため、ホームの端まで移動する。駅に着いたら後はつけてこないだろう、そう思った日空は確認のため、横目でさっきの女子生徒を探す。すると、さっきの女子生徒が少し離れた場所でチラチラと日空の様子を窺っていた。日空の目が髪に隠れているため、見られていることに気づいていないのだろう。

 日空は小さく舌打ちをする。

 早く電車は来ないのか、早くこの場から立ち去りたい。乗る電車は同じでも降りる駅は違うだろうから。早くその視線から逃れたい。

 その日空の思いが届いたかのように、ホームにアナウンスが響く。

 間もなく電車がやって来る。ホームに滑り込んだ電車は徐々に減速していき、ゆっくりと停まる。電車が大きく息を吐き、音を立てて扉が開く。中へ足を踏み入れると冷たい空気が焼かれた肌を冷やしてくれる。それでもにじみ出る汗は止まらない。

 扉が閉まると外の騒がしい蝉の鳴き声は聞こえなくなり、その代わりに電車のインバータ音が響く。徐々にインバータ音からガタンゴトンと、線路を走る音に変わり、車内が揺りかごのように揺れる。

 空いている席に着いた日空は、隣の車両に乗っていまだにこちらをチラチラ見てくる女子生徒の姿を確認する。

 本当になんなんだろうか? 絶対用があるはずなのになにもアクションを起こしに来ない、日空は少し気味悪くなる。

 一つ一つ駅に停まる普通電車。学校から家まで七駅、所要時間は約十五分。たったの十五分のはずなのに、この日は異様に長く感じた。

 気を紛らわすためにスマホを開く。待ち受けはとある写真、小学生程の背丈の、控えめに微笑む女の子と、満面の笑みを浮かべる、女の子より背丈のある少女のツーショット。日空はその画面をボーっと見つめる。そしてハッとしてロック画面を開く。気を紛らわすために適当に画面を触る、目覚まし時計と家族との連絡以外に使い道のないスマートフォン。

「あっ……」

 指がカメラロールのアイコンに触れてしまった。

 画面が切り替わり、日空のスマホに保存されている写真が画面に並ぶ。

 二年前から増えていない写真が並ぶ。

 そのほとんどが待ち受けの写真に写っていた女の子、日空の妹である天野夕月ゆづき。積極的な性格ではないが、困っている人に手を差し伸べる優しい子。

 ――日空の自慢の妹だった。

 停車した電車の扉が開き、蝉の鳴き声と温風が車内に入り込む。その寒暖差、音の衝撃に日空の意識は現実へと戻ってくる。日空は慌ててここはどこの駅かを確認する。

 最寄りの駅まであと一駅、再びインバータ音が響く。車窓から見える海が夏の日差しを反射して銀色に輝く。日空は僅かに目を細めながら海を眺める。

 間もなく最寄り駅に到着するとアナウンスが告げる。日空は立ち上がり、リュックを背負うと扉付近へ移動する。

 車内から出た瞬間に纏わりつく温い空気に顔を顰めながら日空は改札へと向かう。

「あ、あのっ」

 背後から投げられた言葉に思わず足を止める。

 完全に忘れていた。このまま無視して帰ることもできるが、家までついてこられると面倒だ。仕方なく日空は振り返る。もちろん、不快感を隠さず。

「なに?」

「いやっ、あの……大丈夫かなあって」

 暑さのせいか、日空の髪から覗く目に怯んでいるせいなのか、女子生徒は頬に汗を垂らしながらせわしなく髪の毛を触っている。

「大丈夫かなって……あんたの頭のほうが大丈夫?」

 そんな女子生徒の態度にイライラが募る日空。

「ていうかさっきからなんなの? 人の後つけてきてさ、怖いし気持ち悪いんだけど」

 捲し立てる日空は改めて女子生徒の姿を見る。

 背丈は日空より少し高いぐらい。肩口まで伸ばされた黒髪が緩くウェーブしており、前髪は分けられてそこだけ見れば大人びた大学生のような雰囲気だが、柔らかい印象を与える優しい面立ちがこの女子生徒を大人びて見せない。

「あ……う……ごめんなさい」

 しかし、その見た目とは真逆のおどおどとおした態度。

「ごめんなさいって……はあ」

 その子供のような態度になぜかイライラがおさまっていき、その代わりにため息が出てきた。

 そして、影になっているホーム内のベンチに腰を掛けるとその女子生徒に座るように促す。

 横に並ぶベンチ、その両端に二人は腰を掛けている。

 先に口を開いたのは日空だ。

「あたしの、なにを心配してここまでついてきたの?」

 さっきのような不快感はすでになりを潜め、日空は落ち着いて話すことができた。

 日空の問いかけに女子生徒はすぐには言葉を返せず、しばらくの間、蝉の鳴き声だけが響く。

 アナウンスが響き、急行列車がホームを通過する。巻き起こる風で、髪の毛で隠れていた目元が露わになる。

 その様子を見ていた少女が言葉を紡ぎ出す。

「さっき……あの、学校であなたが……泣いていたから」

 蝉にかき消されそうな声量だったが、日空はそれを一言一句聞き漏らさなかった。日空の心に一滴の冷たい雫が落ちる。

 日空の落ち着いていた心に落ちる。

「あたしが……泣いていた……? いつ? どこで? なにを言ってるの?」

 水面を揺らす波紋のように、日空の落ち着きかけていた心が再び騒ぎ出す。

「えっ……昇降口で……だけど」

「別に泣いていないんだけど、勘違いしないでくれる?」

「あ、そうなんだ……よかった」

「はあ?」

 予想していた答えとは違った返答に、日空は思わず声を上げてしまう。

 この女子生徒の頭は本当に大丈夫なのだろうか。

 なんでついてきたかと聞くと日空が泣いていて心配だったからだとか、それが間違いであってもよかったと安心する始末、お人好しにも程がある。日空の頭の中で女子生徒の微笑んだ顔が、少し内気に見える彼女の控えめな微笑みが、妹と重なった。

「あんた、おかしいよ」

「あう……ごめんなさい」

 日空が思わず苦言を呈すると、微笑んでいた女子生徒がバツが悪そうな顔を浮かべる。

「それじゃ、あたしは帰るから」

 日空は立ち上がると改札へと向かう。

 置いて行かれた女子生徒は立ち去る日空の後を慌てて追う。

 改札を通り抜けた日空の後ろに続くが、フラップドアが音を立てて女子生徒の行く手を阻む。

「わっ」

 思わず出た声を聞いた日空が振り返る。

「まだついてくる気?」

「あ、違うのっ。改札出ないとホームの移動ができないから……」

 女子生徒は後ろに下がりながら慌てて否定する。日空の最寄り駅は改札から出ないとホームを移動できない駅なのだ。

「次の駅まで行けば改札出なくても大丈夫だよ」

 勘違いさせてしまった、まあ勝手に相手が勘違いしたのだが、少なくとも悪い人間ではなさそうだ。頭はおかしいと思うけど。だから少しだけ親切にしてあげよう。

「あ、そうなんだ」

「電車賃無駄にかかるから、そのまま電車来るまで待ってなさい」

「あ、うん。ありがとう……えっと……」

「名前なんて別にいいでしょ、どうせもう会わないんだし」

 今度こそお別れだ、もう会うことはない。一ヶ月の夏休みを終えれば忘れてしまう程の希薄な関係。

 日空は女子生徒に背を向ける。夏の日差しが日空を照らす。近くで踏切の音が鳴る、騒がしい夏の音、その音を穿つ声が日空の背中に襲いかかる。

「わ、わたし! 天野月夜つくよ!――」

 その直後、電車が駅に滑り込む。

 月夜の精一杯の声は日空に届いたのだろうか。なんの反応を返さないから月夜にそれは分からない。

 日空の姿はすぐに見えなくなる、それを見届けた月夜は再び電車に乗り込むのだった。


                  ◎


 家に着いた日空は玄関で靴を脱ぐとリュックを下ろし、廊下を抜けて洗面所へと向かう。

 手洗いうがい、妹の手本になるように、毎日していたものが習慣になっていた。

 洗面所から出てリビングへ、リビングの一角に設置されている仏壇の前で日空は手を合わせる。遺影の中の妹に微笑みかけて立ち上がる。

 終業式、平日の昼間。両親はまだ帰ってきていない。日空はエアコンをつけるとリュックを二階へと持っていく。

 リビングに戻ってきた日空は、冷蔵庫から昨日の夕食の余りを取り出し、電子レンジで温める。その間にエアコンは冷たい空気を吐き出し、部屋のむわっとした空気と入れ替わる。

「もう、二年ね」

 いく当てのないその言葉は虚しく響く。

「今日からお姉ちゃん夏休みなんだ。だから、これから一ヶ月ぐらい、夕月と一緒にいられるよ」

 電子レンジで温めた昼食を取り出してテーブルに置く。

「大丈夫、今年もずっと夕月といるよ」

 返事があるわけない、それでも日空は話し続ける。

「私には夕月以外との思い出なんていらないから」

 こうして話していると余計なことを考えなくて済むから。


                   ◎


「ただいま!」

 元気よく玄関のドアを開けた月夜は手も洗わずにバタバタとリビングに駆け込む。

 その一角に設置されている仏壇に食らいつくように身体を近づけながら捲し立てる。

「あのねお姉ちゃん! 今日学校の子と少しだけお話ししたんだ!」

 当然ながら返事が返ってくることはない。

「でも名前は教えてくれなかったけど……」

 困った風に笑いながら腰を下ろす。

「お姉ちゃんみたいには上手く話せたらもっとお話できたと思うんだけど……。わたしもお姉ちゃんみたいになれるかな?」

 遺影に写るのは、天野朝日あさひ。月夜をそのまま大人にしたような面立ちの女性。月夜の五つ上で大学生だった。

 朝日は三ヶ月前、病院で息を引き取った。

 朝日が病気になったのは二年前、月夜が中学三年生の時だった。

 持ち前の明るさで、心配ないよ、と笑顔を向けていた。入退院を繰り返してなんとか大学にも通えていた朝日。月夜は元気な姉の姿に安堵しながら、それでも入退院する回数は変わらないことに心配が募っていった。そして月夜の心配通り、姉は帰らぬ人となった。

「でも、まだ時間があるから大丈夫だって思っていたんだけどね、今日隣のクラスの先生が言ってたんだ。今年が実質最後の夏休みだ、って。まだお姉ちゃんみたいになれていないのに今年で最後だよ……」

 汗が滴り落ちてフローリングに小さな水たまりができていく。目に汗が沁みて、ようやく顔を上げた月夜はエアコンを起動させて洗面所に向かう。

 しっかり手洗いうがいを済まして、顔を水で洗った月夜がタオルを持ってリビングへ戻ってくる。

 タオルで濡れたフローリングを拭く。エアコンから出た冷たい空気が熱い空気を押しのけてリビングを冷やしていく。

 冷風に当たりながら、月夜は一息つく。今日昇降口で泣いていたあの子に話しかけるのは凄く緊張した。結局は泣いていなかったのだが、それならそれで問題はない。むしろ良かった。

 長引いていた隣のクラスの前を通った時、たまたま聞こえてきた先生の声。思わず立ち止まった月夜の目に入ったのが日空だった。

 夏休み前の浮ついた空気の中、日空だけが下を向いていた。誰も気にしない、先生ですらなにも言わない。髪の隙間から見えた表情があんなに苦しそうだったのに。

 月夜はただ心配だった、あんな表情を浮かべる日空が。だけどなかなか勇気が湧かず、少し後ろをついていった。そして昇降口で風に吹かれて露わになった彼女の目尻が赤くなっていたのを見た。緊張が出かかる声を塞き止めるが、それを強引にこじ開けて発した言葉が『だ、大丈夫……?』だったのだ。

「また……会いたいなあ……」

 凄く嫌そうな顔をされていたが、親切にしてくれた部分の方が月夜の心に残っていた。

「お姉ちゃん、またあの子に会えるかな?」

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