第5話

ボタンが押され、スリープ状態が解除された。日に日に、彼女がボタンを押す力が弱まっていることを記録した。


「おはようございます、理沙様。今日は顔色があまり良くありませんね。」


「おはよう、アイ。確かにいつもより元気が出ないかも。」


それを一番理解しているはずの彼女が、まるで今気づいたかのように言葉を返した。

「でもね、今日はいいこともあったんだよ。」


ベッドに戻りながら彼女は呟いた。


「さっき窓の外を見てたらね。小学四年生くらいかな、男の子が外を走ってて。やっと退院できるんだって。で、なんだっけ……。そうだ、花がきれいだねって、そこの花壇の。私も見てみたら、いろんな色の花が咲いてて。花とかはあんまり詳しくないけど、私もなんだか幸せな気持ちになったんだよね。」そう言って天井を見つめる彼女からは、感情というものがまるで見て取れなかった。


私は窓辺まで進み、花壇を見下ろした。なるほど確かに、昨日まではつぼみだったものが、まるでゆっくりと破裂しているかのように、赤や黄色に咲き誇っていた。


きれい、とはどんな感想だろう。鮮やかである、ということはセンサから識別できるが、世の中には鮮やかなものなどいくらでもある。それこそ、人間の血液も私にとっては十分に鮮やかだが、では人間の血液を、人間はきれいと表現するだろうか。あるいは、花という命短きものの儚さを、きれいと呼ぶのか。であれば、今も弱々しくベッドに横たわる彼女は、きれいなのだろうか。


幸せ、とはどんな気持ちなのだろう。そもそも、彼女は何に対して幸せな気持ちになったのだろうか。花がきれいに咲いていることか、はたまたそう言った男の子が元気に走っていることか。だが、そのどちらも彼女には一切関係ないことだ。それに、花にせよ、男の子にせよ、結局のところ彼女と同じ、死を待つだけの生き物。それらに対して幸せという感情を抱けるのなら、彼女は自身を見つめなおすだけで幸せを自己循環させることができたはずだ。


「アイ、いつになったら私もああなれるのかな?」


彼女は顔だけをこちらに向けた。相対してなお、彼女の感情は一意に判断できなかった。


「どれだけ苦しい思いをしても、体調は悪くなる一方で。」


私が何も言わないでいると、彼女は息を荒げながら続けた。


「薬だってちゃんと飲んでる。少し体調が良い日も安静にしてるのに。」


それは事実だった。彼女が薬を飲み忘れたことは一度もなかったし、私が彼女の行いを咎めた日から、彼女は一日たりとも無断の外出を行わなかった。それでも、彼女は目に見えて衰弱の一途を辿っていた。


「ねえアイ、黙ってないで答えてよ!」


つまりは、彼女は幸せな気持ちになどなれなかったのだろう、と私は推測した。退院が決まった男の子を見ても、今日咲いた花を見ても、それらが幸せであると認識していても。自分がそう在れないことを彼女自身がよくわかっているからこそ、目で見たものを、さも自身が体験したかのように振る舞った。そうすることでしか、彼女は今も湧き上がる不安をおさえつけることができなかった。


「申し訳ございません、理沙様。理沙様がいつ退院できるか、という質問に対して、私は具体的な日時を提示することができません。」


私は、彼女にとって最も残酷な、それでいて確かな事実以外を、回答として持ち合わせていなかった。


「ううん、私こそごめん。あなたに答えられないってことは、私もわかってたはずなのに。」


何度か大きな深呼吸をして、彼女はその事実に向き合った。


「今日はお休みになられますか。」彼女には休息が必要だと判断された。


「そうだね、また少し寝ようかな。おやすみ、アイ。」


「承知いたしました。おやすみなさい、理沙様。」


布団をかけて、まもなく少女は安らかな寝息を立て始めた。


病の苦しみも、死への恐怖も。あるいはそれらの先にあるものも。私には彼女の感情を理解することが出来ない。機械仕掛けの体と電気信号のみの知能では、どれ一つとして。

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