そして大人になる
「大久保くん。何か言いたいことはありますか」
大学の喫茶店に向かいながら、元気がない元教え子を気遣ってか、老教授が聞いた。
「言いたいことなのか、聞きたい事なのか、聞いてもらいたいことなのか自分でもわかりませんが、あります」
恩師の気遣いに甘えた。
「僕は、柳田さんがどうしてああなったのか分かりません。大学野球の時は面倒見がいい人でしたし、いろいろ助けてもらったこともありました。ここでも初めの頃はあの人に仕事を教えてもらってたんです。なのに、どうしてこんなことになったのか」
素直な疑問だった。それだけに答えが導けない。簡単に答えられるほど単純なものでもないことは想像がつく。
手入れされた街路樹の影を辿り歩きながら、返事を待つ。歩道から跳ね返る熱のせいであまり日陰の恩恵を感じない。空は曇っているが湿度が高く、汗が絶え間なく流れる。大学のキャンパスが近くなったとき、やっと老教授は答えた。
「重く、息苦しかったのかも知れませんね。教師は保護者からも生徒からも、時には同僚からもそれらしく振る舞うように求められる。休みも返上して生徒に付き合わなければならない。それなのに相応の見返りもない。ひたすら奉仕を求められるばかりだ。不器用な人間は日々の業務に追われて息抜きもままならない。やりがい搾取と言われるのも分かります」
思い当たることがないわけではない。しかし学年主任という彼の立場が、素直にそれを認めるのを許さない。
返事がないことを確認して、老教授は続けた。
「我々の時代には『センセイ』ってのは良くも悪くも特別な存在でしたが、今はどうなのかな。本当はもっと、ちゃんと普通の職業として制度や人員を整えないといけないんでしょうね。月並みなことを言えば、彼もある意味では被害者なんでしょう。皆が皆、君のように器用に立ち回れるわけじゃありませんから」
「僕はそんなに器用なつもりはありませんが」
かつての学生は不満気に答える。
「そうかね? 自惚れではなく、僕も君も、かなり器用な方だと思う。仕事もそれなりにできて、
彼が10年以上昔に通ったキャンパスは、
大学、職場を通して一緒に過ごした先輩が、彼の気付かぬ間に変わっていた。実際には目に見えない速度で、この校舎のように細々としたところで変化していたのだろう。老教授の言葉をよく噛んで思い返してみると、確かにその兆候はあったように思える。
彼に学年主任の内示があったときも、最初にこっそり報告した時の柳田は、薄く笑って「そうか」と言っただけだった。肩を強く叩きながら褒めてくれるか、労ってくれるか、心配してくれるか、そんなことを期待していたのを思い出した。
自分は器用だったのだろうか。となりにいる伊良部名誉教授は研究者としての功績も教育者としての貢献も自分の比ではないが、言われてみれば確かに、同期に比べれば多少はできることが増えている。責任と役職に比例して、待遇も裁量も増えてはいる。だが、言われるまでは意識したことはなかった。本当は自分は人よりも器用で、そのうえで厚かましくも、日々にすり減った誰かにそれを求めていたのだろうか?
「でもね、だからと言って彼が一線を越えたことを許す理由にはならない」
恩師はまるで学生を諭すように、あるいは慰めるように続けた。
「今回のような件で傷を負うのは彼ではなく子供たちだ。灰野くんのような、そもそも大人を信用していない子供たちもいるけれど、まだ教師や大人をある程度は信用している子供たちは、かえってその裏切りが深く刺さってしまう。その傷の癒やし方も知らないまま、ただただ不安と不信に沈んでいたかも知れない。しかも、同じことが今後も起こっていたかも知れない。これはね、とても怖いことです。構造的な被害者だからといって、許されることではない」
引退したはずの名誉教授はまだ知性も厳しさも失ってはいなかった。ただその中に、自分が学生の頃には気付けなかった子供たちや後進への気遣いや優しさがあったことに、今更ながら気付いた。この高潔な人は、もしかしたらあの子供たち以上に腹を立てていたのかも知れない。
「そして子供たちはとても怒っていた。今日のような荒療治がなければ、学園の外までこの事件が漏れていたでしょうね」
「学外まで?」初耳だった。
「……どういうことですか?」
「僕が協力しなければSNSを活用して外に協力を求めるつもりだったみたいですよ。灰野くんは時間がかかるからやりたくなかったそうですがね、三井くんはそれも辞さず、だったようです。マスコミも自称正義の味方もネタを探してますから、案外効果があったんじゃないかな? もしそうなっていたら人が大勢押し寄せて、被害者も加害者も増えていたかも知れませんね」
老教授は笑った。
「もうほとんど脅しです。あの動画が世間に流れてたらどうなってたか、ちょっと見てみたかったな」
「笑い事じゃありませんよ。そんなことを言ってたんですか?」
大久保は今更ながら青くなった。理事会や保護者会に知られるどころの騒ぎではない。
「まぁね。だから、僕が好むと好まざるとに関わらず、結局は協力せざるを得なかったでしょうね」
学内の喫茶店に着いた。以前は喫煙スペースがあったのだが、彼の在学中に完全禁煙になってしまった。大久保はよく本を読んでのんびり過ごしていたが、煙草が吸えなくなって以来、恩師の顔をここで見ることは少なかった。
暑い中を歩いたので、室内の強いエアコンで汗が冷える。確認を取ってから、彼はホットコーヒーを二つ注文した。
「そうなると、学園や生徒を守るために一肌脱いでくださったのですか? 先生が学校のことにこんなに入り込まれるとは思いませんでした」
「そんなに大層な理由なんてありませんよ」肩をすくめて、背中をソファに預けながら答える。
「彼らなりにやるべき事を見定めて、勇気を出した。ちょっと手伝いたくなったのです。それに……」
恩師は目を細めて窓の外、暑い中を仲間と笑いながら歩いている学生たちを眺めている。大久保もソファの背もたれに体を預けて続きを待った。
伊良部名誉教授はすこし俯いて、静かに小さく笑って、目元を掻いた。照れているように見えた。
「
「榛菜ちゃんでしたか?」
大久保は快活に作戦計画の筋を作り上げた少女を思い出した。妙に分け隔てのない、人好きのする雰囲気を醸し出すところは、すこし伊良部先生と似ているな、と思った。
「うん、あの子がね、すごく楽しそうにしてたんですよ。
かつての教授はさらに皺を深めて微笑む。
初老のマスターが静かに現れて、二人の前にカップを置いた。暖かな珈琲が醸し出す、懐かしい、落ち着いた香りがした。もうすっかり擦れたかつての学生にも、マスターの柔らかな笑顔には見覚えがあった。このカップ。このソファの座り心地にも。体から、じんわりと今日の疲労が抜けていく気がした。
「まぁ……名誉教授なんて持てはやされても、結局はただのジジイですよ。孫には
そう言うと、ゆっくりと香りを味わいながら、珈琲を口に運んだ。
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